第5-4話



 何度か、食べることは生きること、を口で馴染ませてから、顔を上げる。肝心のレオと言えば、僅かに目を見開いたまま固まっていた。一体どうしたのか、と首を傾げると、バッと冷蔵庫に向き直ってしまって、ますます意味が分からない。

「そんなに怒ったのか?」

「別にそういうわけじゃない! とにかく何か食べろよ!」

「でも冷蔵庫には何もない」

「だから! ……あー、もう! 乾物とか缶詰とか無いのか!?」

「それなら多分、あの部屋にあるな」

 後頭部を乱暴に掻いているレオに答えてから、ソファから立ち上がって玄関に近い方の扉へと向かう。レオがあんな態度なのは腹が減っているからだろうか。扉を開けて電気を付ければ、一面の収納スペースに陳列してあるのが見える。

 この部屋は、部下達があれこれと持ってきた物で埋まっている。生モノは流石に渡されなかったが、飲料や食料、リラックス効果のあるグッズ、自分で買ってきたキャットフードなどなどあらゆる物が入っていた。

「なんだ、結構綺麗なんだな」

 レオも後ろから付いてきていたらしい。食料用のスペースを漁っていた手を止めて振り返れば、レオが感心したように部屋を見回していた。小さく笑って、トマト缶とペンネがたくさん詰まった袋を取り出す。

「扉を開けたら物が崩れ落ちてくるとでも?」

「そりゃあ、まあ。此処の部屋の説明しなかっただろ」

「物置の説明は必要ないかと思っただけだよ」

 持っていたトマト缶とペンネの袋をレオの胸に押しつける。

「お前が来たときも言ったが、必要な物があれば此処から持っていって構わない。食料も飲料も有り余ってるから、好きなだけ使え」

「……わかった」

「他に欲しいものはあるか?」

「ニンニクと粉チーズとオリーブオイルがあれば」

「解った。見つけて持っていく」

 確かその三つは部下が持ってきたはずだ。記憶を辿ってその三つを見つけ出して、ノクスもキッチンへと戻っていく。既にキッチンには、水を入れた鍋が火に掛かっていて、底が深めの鍋も隣のコンロに置かれていた。

「持ってきたぞ」

「そこに置いといてくれればいい」

 何をするのかと思えば、レオが料理をするらしい。

 あっという間に、手際よくニンニクをみじん切りにして、オリーブオイルと一緒に底の深い鍋で炒めている。沸騰した湯にペンネを放り込んでから、ニンニクを炒めていた方にトマト缶を入れていた。

「凄いな。手際が良い」

「こんなの誰でも出来るだろ」

「僕は出来ない」

「ふはっ、何でも出来そうな顔して料理はダメなのが意外だ」

 さっきまでとは裏腹に、レオの表情は少し柔らかく見えた。いつもの警戒心は何処に行ってしまったのか。

 そういえば、と思い出す。

 自分の母も随分と楽しそうに料理をしていた。賛美歌を口ずさみながら料理をしていた後ろ姿を、ノクスは学校から帰ると必ずと言って良いほど見ていた。そこに時折父が混ざった。キッチンに立つ仲睦まじい両親を見ると、胸の辺りが温かい色を帯びた。両親を邪魔しないように、本を読むフリをしてこっそりと見るのが好きだった。

 なのに、母さんには必ずと言って良いほど気付かれたんだったな。

 温かい日々の事を思い出すのは、いつぶりだろうか。

 過去を振り返るとき、何時だってあの惨状の方が先に脳裏に浮かんでいたというのに。

「皿とフォークは何処にあるんだ?」

 耳を突いた声に、意識を戻す。

 トマトの酸味と甘さが混ざる良い匂いが鼻の奥まで届いて、いつの間にか出来上がっていたことに気付く。一人分の皿とフォークを出して渡してやれば、ムッとしたレオが言った。

「俺は鍋から食えってか?」

「? お前が食べるんだろう?」

「は? アンタも飯食ってないんだろ?」

「まあそうだな」

「アンタと俺の分に決まってるだろうが」

「それは……、思いつかなかったな」

 まさか、料理を用意して貰えるとは微塵も思っていなかった。

 レオはノクスのことを、というよりもギャングのことを酷く嫌っている。何を言っても毛を逆立てて怒る動物のように、全く距離を詰めようとしなかった。だからノクスからも距離を詰めることはせず、今日まで微妙な距離を保ち続けていた。だというのに。まさか料理を作るとは思わない。

「僕が食べても?」

「俺一人でこんなに食えるわけないだろ」

「それじゃあ、うん、有難く頂こう」

 持っていた皿とフォークを渡してから、もうワンセット取り出す。

 盛られたトマトソースペンネに、粉チーズがかけられる。まるで店で出てくるものとそっくりだ。凄いな、と思わず呟いたら、大袈裟だ、とぶっきらぼうな声が飛んでくる。

 二人して並んでソファに座るのかと思ったのに、レオは何を思ったのか、向かい側の床に腰を下ろした。

「ソファに座らないのか?」

「いやいい。……そのソファに座ると動けなくなる」

 予想の斜め上の小さな返答があって、笑ってしまった。確かにこのソファは座り心地が良いから、散々ライエルに扱かれて来たレオは、初日のように寝入ってしまうかもしれない。

 ちらりと見遣ったレオは、大口を開けてペンネを口の中に詰め込んでいた。随分と美味しそうに食べる。まるでリスのようだ。こうしているとやっぱり本当に弟のように思えてしまうから不思議だ。口元に浮かんだ笑みに気付くこと無く、ノクスもまた作って貰ったペンネを口に運ぶ。

「美味しい。料理上手だな、レオ」

「っ、これくらいはフツーだろッ。簡単だし誰でも出来る」

「言っただろう? 僕は出来ない。自分には出来ない事を簡単に出来てしまう相手を凄いと思うのは、当然だろう?」

「お世辞は良い」

「世辞じゃない。どうして自分を卑下する言い方するんだ?」

 フォークがカランと皿の上に落ちる。レオが今まで使っていたフォークだった。鼻で笑ったレオが目付きを鋭くさせて不満げに言った。

「なんだよ、説教のつもりか?」

「違う。ただ不思議なだけだ」

 すぐ否定したものの、レオは全く納得していないのだろう。意図を探るように、ジッとノクスを見ている。

 折角少しは心を開いてくれていたかもしれないのに、自分の言動がダメにしてしまったな、と他人事のように思う。しかし、己のこのお節介と言われてしまうような性格を今更直すことは難しいし、これからも気になったことを放っておくことは出来ないのだろう。

 ”全てが終わった”後では遅いことを、十四歳の夏に突きつけられたから。

「見ての通り僕は世辞を言うタイプじゃないのに、お前は世辞だ、誰にでも出来る、と言って自分の能力を受け入れようとしない。それが不思議なんだ」

 素直に受け取ってしまう方が楽だと思うのに、どうしてそんな物言いをするのかノクスには解らなかった。善し悪しの話では無く、そういう解釈をするのは疲れるのではないかと思うし非効率じゃないかと思うからだ。

 まるで自分の首を自分で絞めて、息苦しくしているように見えた。

「何かワケがあるなら知りたいと思ったから言った。言いたくないなら言わなくて良い。それと、説教をするつもりは無かったし、そう聞こえてしまったのなら謝る。すまない」

 もしも自分の首を自分で絞めているなら、自分で息苦しくしなくて良い、と伝えたかっただけだ。

 ノクスの師匠がノクスに生きる術を教えてくれたように、レオにももっと楽に呼吸をする方法を教えられたら、と思う。しかし今のままでは、己の考えの押しつけになることも解っている。他の連中とは距離の詰め方が違って、難しい。

「アンタは、……やっぱり変な奴だな」

 ぽつりとそう言って投げ出されていたフォークを手に取ったレオは、また食事を再開させた。さっきまであった怒気は鳴りをひそめて、その口元には小さな笑みすら浮かんでいる。変な奴、という言葉のチョイスの意味が分からなくて顔を顰めても、撤回する気はないらしい。

「またそれか。僕の何処が変なんだ?」

「フツーは組織のボスが他人に謝ったりしないだろ」

「悪いと思ったら謝ると思うが」

「俺が知ってる奴は一度も謝ったところを見たことない」

「それはそもそも自分が悪いと思っていないんじゃないのか?」

 そうかもな、と頷いたレオはまた口にペンネを詰め込んだ。もぐもぐと動かされる口。レオは一体どんな人間と関わってきたのだろう。俺が知っている奴、が何処かの組織の頭を指すのなら、それもまた問題だ。


――俺たちの手に余る存在です。関わらない方が良い。


 不意にライエルの言葉を思い出す。

 組織のボスと近い位置にあって、色んな組織から狙われ、ラグーナから『金の卵』と言われる存在。

 浮かぶ最適解は。


「アンタは、お前が死ねばよかったのに、なんて言われたことないんだろうな」

 聞こえるか聞こえないかの声が、リビングに落ちる。いつの間にか足元に寄って来ていた黒猫が、あと少し早く鳴いていたらきっと聞こえなかった。レオを見ても、何食わぬ顔でペンネを食べるばかりで、それ以上何も言うことはなかった。空耳だったのか、と疑いたくなるほどなのに、全てがどうでも良いと言いたげな声色が、鼓膜に張り付いたかのように残っている。

 全てがどうでも良いと思いたらしめる何かが、彼の身にあったのだろう。否、考えても本人から聞かなければ答えの出ない問題だ。

 割り切ってノクスもまたトマトソースペンネを口に放り込む。

 ソースの酸味が口の中で弾けて、やがて消えた。



 ***



 葉巻を燻らせながら、男は夕暮れの近付いた窓の外を見ていた。

 ラグーナのボスであるガーマンである。足の先をコツコツと鳴らして、いかにも不機嫌そうだった。吐き出した煙が執務室を曇らせる。

 不意に扉が三度ノックされた。

「入れ」

 窓の外から目を離して扉を見遣れば、痩せた男が立っていた。額には肌色の四角い絆創膏が貼られている。前にガラスの灰皿を当てた場所だ。大袈裟だな、とガーマンは思いながら鼻で笑った。

「見つかったか?」

「はい」

 ガタン、と近くにあった椅子が足に当たる。そんな事を気にすることもなくガーマンは、本当か!? と大きな声を上げた。痩せた男が静かに頷く。

「生きていることも確認できました」

「でかしたぞ! それで、一体何処にいる!?」

「テミスにいるようです」

「テミス? ワタシたちのトカゲを潰したあいつらのことか?」

「そうです」

 予想通りらしい。チッ、と舌を打つ。灰皿に押しつけた葉巻が、ぐしゃりと歪んだ。

 まさかそんな奴らのところに逃げ込んでいるとは思わなかった。


 テミスとは以前、抗争を繰り広げたことがある。

 というのも、ラグーナの派生で生まれた組織が、テミスに抗争をふっかけたのだ。指示していないガーマンにとっては、些事だった。それに、テミスが簡単に負けると思っていたのだ。だというのに、まさかそれが覆され、自分たちの手駒が負けるなんて考えもしていなかった。

 頭脳派ばかりだと聞いていたのに、まさか力でも敵わないとは。得体の知れない危機感を抱いたガーマンは、増援要請を無視してそのままトカゲを尻尾として切り捨てた。それから暫くして、この街を牛耳るモルテがギャングを集めて時折開く会合に、テミスを呼ぶようになった。

 どんな奴がボスなのか、と思ったら現れたのが、全てを見透かすような涼しい目元を持つ美しい容姿の男だった。それがまた癪に障った。一体どんな生まれか知らないが、生まれた瞬間から全てが与えられたような人間が目の前にいる。ガーマンは嫉妬と怒りを腹の底に湧き上がらせた。しかし、そこで手を出す愚行は犯すはずもない。


 以来、テミスのことは要注意組織としてラグーナの連中に通達し、スパイを潜り込ませている。

 バレないように、出来る限り連絡してくるな、といってあるから、こちらからの事情も知らせていない以上、連絡が遅いのも頷けた。

 依然としてテミスは敵に回すと厄介であるから、対立せずにいたいのが本音だ。

 しかし、と思う。

 これは絶好の好機なのかもしれない。厄介なところに逃げ込んだと思ったが、それを逆手にとって金の卵を手に入れられる上に、気に食わない連中も一掃できる。

 ニヤリと口元が歪む。

 天の恵みとは、まさにこのことかも知れない。

に連絡を取れ」

「御意」

「あとは、幹部を全員集めろ。テミスの奴らを血祭りにして、後夜祭に金の卵を頂くとしよう」

 やけに楽しげなガーマンの声に頷いた痩せた男が、頭を下げて去って行く。

 体の向きを変えて見た窓の外は、真っ赤に染まっていた。

 窓に映ったほくそ笑む己の顔。その笑みは更に深くなった。

「さあ、キツネ狩りを楽しむとするか」



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