第6-2話
拳が耳の横の空気を切っていく。
あと数秒首を横にずらすのが遅かったら、確実に一発入っていた。チリチリとピアスが揺れる音がする。背中がヒヤリとする間もなく、拳を振った動作の勢いを使って体を捻ったライエルの足が、視界の端に見える。咄嗟に腕でこめかみと耳を庇う。こめかみを殴られると平衡感覚がなくなるから、必ず守れと言われた。腕に衝撃。筋力に自身がある人間だったら、きっと此処で足を掴んで何かしらアクションをするのだろう。今のレオにはそれは難しい。ならば、と軸足の脛を狙って足を蹴り出した。
「甘い」
刹那、レオの足首がライエルの手に掴まれる。ハッとして顔を上げたのと、ライエルがニヤリと笑ったのはほぼ同時だった。ぐん、と足首を引かれてバランスを崩す。尻もちを付きそうになったレオの腕を掴んだのは、やはりライエルだ。そのままゆっくりと床に座らせられた。
途端に己の息が切れていることに気づく。ドッドッ、と鳴る心臓の音が煩かった。大きく息を吐くレオとは裏腹に、ライエルは息一つ切れてない。攻撃の数だって明らかに彼の方が多いのに。そう思うものの、経験値の違いだ、と前に言われたことを思い出して、はあ、と大きく息を吐く。
「動きが良くなってきてるな、レオ」
「そりゃあっ、どうもッ」
「なんだよ、不服そうだな」
「今の所、アンタに、全敗だしな」
「気にすんな。逆に、稽古始めて二週間で勝たれたら俺の面目丸潰れだろ?」
呼吸を整えながらじとりとライエルを見る。確かにその通りだが、負けっぱなしというのは気分の良いことではない。ライエルがレオを揶揄いたいわけではなく、真剣に向き合ってくれていると分かるから文句はない。しかし、勝負事であれば勝ちたいと思うのは当然の欲求だし、少しくらい成果が出てくれと思うのも当然だ。だというのに、全く進歩がない気がしてやまない。
下がっていた視界に、ライエルの手が差し出される。顔を上げると、ライエルは歯を見せて笑っていた。
「反撃したいって焦る気持ちも分かるけどな、まずはお前は戦うことじゃなくて、自分自身の身を守れるようになれ」
「分かってる。でも実感がない」
「実感がない? 何言ってんだ。お前、気づいてないのか?」
「? 何がだよ」
「日ごとに一回の勝負時間が長くなってることだよ」
そういえば、と思う。
初日にライエルと手合わせした時は、瞬殺されたことを思い出す。それから少しずつ防御法を教えてもらった。
人の急所がどこで、絶対に殴られてはいけない場所はどこか。どうやって避けて、何を見たら良いか。
ライエルの言葉は抽象的で曖昧なものが多かったが、感覚で動くレオにとっては、それがまた有り難かった。
脳筋って言われるのマジで気に食わないんだけどな、と文句を垂れていたが、その言葉は実に的確にライエルの闘い方を表している。それには本人も心当たりがあるようで、気に食わないと言いつつ否定することはなかった。
差し出されたままだったその手を握って、立ち上がる。
「ま、今日はこれくらいにしとくか」
ライエルに頷いて、今まで使っていた武道場をモップで軽く掃除する。その間に彼は屋敷の戸締まりの確認に行くのが、この屋敷に来たときの通例だ。
律儀に掃除なんでギャングっぽくないな、と初めて此処に来た時は思ったが、ライエル曰く、きちんと掃除をしないとガランがキレる、らしい。マンションも屋敷も彼の物だと言うから、それを聞いた時はとても驚いた。あんな強面なのに不動産を管理しているのが正直今でも信じられない。殺し屋でもやってそうな顔をしているのに、なんて本人に言ったら絶対に青筋を立てられるから言わないけれど。
「終わったか? じゃあ行くぞ」
ひょっこりと顔を出したライエルに、ああ、と頷く。
廊下に出た先にいたのは彼一人だけだった。真っ赤な絨毯が引かれた廊下を歩きながら、辺りを見回す。
「ノクスはいなかったのか?」
「ああ。多分雑用しに来ただけだろうから、もう家に帰ってるはずだ」
「ふうん」
「何だよ、一緒に帰りたかったのか?」
ニヤついてるのが分かって、そんなんじゃない、と釘を刺した。
やっぱりレオの予想通り、ライエルに会いに来ていたのだろう。一体何の話をしに来たのかは解らないが、割り込む前の二人は少し真剣な顔をしていたように思う。否、ノクスは無表情が通常運転だから、断定は出来ないけれど。
黒塗りの車に行きと同じように助手席に乗り込む。
この車はライエルの私物らしかった。そういえば、と思う。ライエルは一体何をして金を稼いでいるのだろう。ノクスは投資で、ガランも不動産で間違いないだろう。しかしノクス以上に、ライエルが副業をしているようには見えない。そもそも仕事があったら、こんなふうにレオに付きっきりは出来ないはずだ。
「ライエルの副業ってなんだ?」
疑問をぽろりと零す。
前方を見ていたライエルの視線が一度レオに投げられて、また前を向いた。
「とうとう俺にも興味が出てきたのか?」
「…………、茶化すなよ」
「ハハッ、悪い悪い。別に大したことはしてないぞ」
「大したことしてなくてこんな車買えないだろ」
「まあ確かにな。――簡単に言うと、情報屋だ」
ひゅっと喉が鳴りかけた。
情報屋。この街に情報屋は山程存在している。だからこそレオと母親の存在がバレた。突如として崩れた平穏を昨日のことのように思い出せる。
否、そんなことはどうでもいい。
今大事なのは、俺の素性をライエルが掴んでいないかどうかだ。
もしも、掴んでいたら。
ノクスは、ライエルは、一体どうするのだろう。
敵対組織に売り渡すのだろうか。
否、待て。何もしてこないということは、まだ掴めていない可能性だってある。
じわりと背中に嫌な汗が滲んだ気がした。
「へえ? アンタのことだから、仕事も早いんだろうな」
「まあな。ノクスさんに言われたことは基本的にすぐ調べ上げる。よほどの案件じゃなければな」
「よほどの案件? 最長でどれくらい掛かった?」
「そうだなぁ、一ヶ月とちょっと、かな?」
あれは大変だった、と笑っているライエルが何の案件のことを言っているのか見当がつかない。ドクドクと脈打つ心臓が、やけに煩い。
もしも、バレていたら。
大丈夫だ、と言い聞かせるのに、今までの経験たちが、早く逃げろ今すぐその男から離れろ、と叫ぶ。
でも、逃げたところで、どこにも居場所なんてない。
だったら、彼らが何か行動を起こすまで、此処に居たい。
「何だよ、調べられたらまずいことでもあるのか?」
少し笑ったような声が聞こえる。
一体どっちだろう。
もう知っているのだろうか。
解らない。今、自分が言えるのは。
「アンタらにとって不利益な情報はあるかもな」
窓に映る自分の顔を見ながら、ぼやいた。
まずいことがある、とも、そうじゃない、とも言えなかった。
レオにとって己の出自は、自分で選んだものではない。好きでそうなったわけでも、望んでそうなったわけでもない。知らない間に己は生まれ、その親がこの世の闇を全て飲み込んだような”あの男”だっただけ。鎖のように絡みついたその縛りは、レオが息の根を止めるまで覆ることはない。叶うのなら、肩に伸し掛かっているこの鎖を、誰かに与えてしまいたいとすら思う。
そうしたらきっと、何もかも捨てて、別の場所で生きていける。
「ふーん」
揶揄うのはやめたのか、ライエルの声は笑いを一切消している。
レオはライエルの顔を見ることも出来ず、ただ闇に染まった街をぼんやりと見ることに徹した。
段々と車が速度を落として、やがて見慣れたアパートの前で止まる。
礼を言って降りようとしたレオの背中に、おい、という声がぶつかった。ライエルの強い眼差しが、振り返ったレオを捉えていた。
「なんだよ」
「信頼しろ、とは言わない」
不意にそんなことを言われて首を傾げる。一体何の話だ、と尋ねたかった声は遮られて、ライエルはそのまま言葉を続けた。
「ただ、ノクスさんを裏切るな。絶対にだ」
どういう意味だ、と聞きたかった。一体何を意図してそれを言ったのだろう。
うんともすんとも返事をできないまま、ライエルは軽薄な笑みをその口元に浮かべた。
「じゃ、またな。明日と明後日は久々の休みだから、最近の疲れを癒やせ」
「あ、ああ」
ひらひらと手を振られて、何がなんだか解らないまま車を降りた。扉が閉まったか否かで発進した車。テールランプが見えなくなるまで、ずっとその場に突っ立ったままだった。
――ノクスさんを裏切るな。絶対にだ。
さっきのライエルの言葉が、頭の中で木霊していた。
「ただいま」
扉を開けた先に、ちょこんと座る黒猫がいて頬が緩む。その場にしゃがみこんで黒猫の頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を細められた。
手を動かしながら、部屋へ視線を移す。
電気は付いている。いつもなら此処にいてもキーボードを叩く音が聞こえてくるはずだが、全く聞こえない。まだ帰っていないのか、それとも買い出しにでも行ってるのか。
立ち上がってリビングを覗いてみるが、やはりノクスの姿はない。
耳を澄ますと、僅かに声が聞こえてくる。寝室の方だ、と足音を立てないようにその扉に近寄った。
ノクスが誰かと電話をしていた。会話は聞き取れない。しかし、その横顔が電話の内容の深刻さを表すようだった。時折眉を中央に寄せて、険しい顔をしている。
ふと、ノクスの顔がこちらを向く。ビクッと肩を揺らしたレオとは裏腹に、僅かに目元を緩ませたノクスは、二、三言電話口に投げ掛けると、そのまま通話を終了した。
「帰ったのか」
「あ、ああ」
「おかえり、疲れただろ」
端末をスラックスのポケットに入れながら、こちらに歩いてくるノクスはいつもと何ら変わりない。逆に普通すぎてこちらの力が抜けてしまうくらいに。しかし、それすら今は怪しく見えてしまう。
もしも、ライエルに自分の素性を調べさせていたら?
もしも、もう自分の素性を知っていたら?
疑念が飛び交う頭に、僅かに視線が下る。
ライエルは言った。信頼しろとは言わないから、ノクスを絶対に裏切るな、と。
そう彼が言うなら、目の前にいるノクスのことを信じてみても良いのではないか。
「どうした、レオ」
呼びかけられる声は、蔑みも必要以上の畏怖もない。ただ平坦で、他のテミスの人間に投げ掛ける声と変わらない。
でも、と頭の片隅で誰かが言う。
この街の人間は、すぐに手のひら返しをする。
コイツがそうじゃないとは限らない。
視線を上げてノクスを見る。
初めて会ったときから変わらない、森の奥の中にひっそりとある湖のような、静かな深い緑がレオを見ていた。
今此処で、ずっと胸に秘めていることを言ってしまえば楽になる。
実は俺は”あの男”の息子なんだ、と言ってしまえば、もうこんなふうに誰かを疑わなくて済む。でもその代わりに、真実を伝えてしまったときのノクスの反応は一体どんなものだろう。どんな目を向けられるのだろう。どんな言葉を投げつけられるのだろう。
数多の人間は、レオたちを化け物を見るような目で見た。早く死んでしまえ、と言ってきた奴もいる。
しかし、ノクスは違うかもしれない。否、今までの人間とは違う、と思いたい自分がいる。
真実を知っても此処に置いておいてほしい、と思っている自分がいる。
今言ってしまえ。
ずっと疑うよりは、ずっと良いだろう?
もう言ってしまえ。
ゆっくりと口を開いた。
「…………、やっぱり何でもない」
その心に反して、喉に張り付いたように言葉は出てこなかった。目を逸らして発した声は、諦めを孕んでいて残念そうにその場に落ちていく。
「そうか。言いたくなったら教えてくれ」
ノクスは責めはしなかった。それどころか、優しく肩を叩いてくれる。何事もなかったように、夕飯は食べたのか、と聞いてくれる。
それが心地良いと思うのに、余計に苦しい。
騙しているつもりはない。でも、自分が何も言わずに此処にいる弊害が少なからずある。まだ実害がないことが救いではあるが、もしかしたら今、身を引くべきなのかもしれない。
ギャングなんて、とあれ程思っていたというのに。
自分のせいでノクスたちに危害が及ぶと考えると、腸を直接撫でられるような気持ち悪さが襲ってくる。
「レオ、聞いてるか?」
いつの間にか下を向いていた顔を上げる。悪い聞いてなかった、と謝れば、片眉を上げられた。素直に謝るなんて珍しい、とでも思っているのだろう。でも今は反論する気にもなれなかった。
「大丈夫か? 疲れてるみたいだが」
「心配しなくていい。それで? さっき何か言ってたんだろ?」
追随を許さぬように話を切り替える。これ以上聞かれても、きっと自分は何も答えられない。不毛な会話はさっさと終わらせてしまう方が良い。
ノクスはじっとレオを見つめたが、彼自身これ以上問い詰めても無駄だと思ったのだろう、観念したように口を開いた。
「僕は少し出てくる。お前は先に休んでていい」
「……こんな夜中に?」
見えた時計はすでに日付が変わりそうな時刻を示している。ギャングとしては珍しくないことなのかもしれないが、しかし。
「一人で行くのか?」
「ああ。と言っても、すぐそこまでだが」
此処まで気にしてしまうのは、レオ自身が夜道に良い経験がないからなのかもしれない。心配ない、とノクスは言うが、腕っぷしにいくら自信があっても、不意打ちに遭ったら元も子もない。ライエルに比べると、ノクスはタッパもないし、随分と線が細いように見えてしまう。
「……俺もついていこうか?」
ライエルに体術を教わっている今なら、もしもの時に多少役に立てるかもしれない。
そう思って言ったのだが。
「フッ、ははっ」
目を見開いたかと思ったら、笑いだした。当然笑われたレオは、今のどこに笑いどころがあったのか解らない。未だに笑いを止めないままでいるノクスに、だんだんムカついてきた。
なんだよ心配して言ったのに。笑うことないだろ。
オイ、と冷たい声を出しても、ノクスは未だに笑っている。
「……もう知らないからな。勝手にどこへでもいってこい」
「待ってくれ、レオ」
踵を返してベッドで不貞寝しようとしたレオの腕を掴んだのは、ノクスだ。未だに笑いが滲む声。肩越しに見たノクスの口元はやはり弧を描いている。
「笑ってすまない。まさかお前に心配されるとは思わなくて」
睨んだレオにノクスはそう弁明した。悪かった、と眉を下げるノクスに、はあ、と大きな溜息を吐く。
「わかったから、さっさと行ってこいよ」
「うん。そうだな」
ありがとう。
ノクスはそう言うと素直に手を離して、ソファに掛かっていたジャケットを手に取ってから扉へと向かっていく。なんとなく家を出るまで見送ったレオは、扉が閉まった音を聞いてから、もう一度息を吐いた。
全くなんだって言うんだ。
馬鹿にしたような笑いではなかったが、あんな顔で笑われると本当に組織のボスなのか、と聞いてしまいたくなる。
嗚呼もう、やめだやめ。こういうときはさっさと寝てしまうに限る。
靴を適当に脱ぎ捨てて、ベッドにタイブする。スプリングが軋んだ音も無視だ。体に堪ったありとあらゆる鬱憤を吐き出すように深呼吸をして、そのまま襲ってきた睡魔に任せて目を閉じた。
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