⑺兄の矜恃
対峙する化物が人の形をしていたことは、幸いなのかも知れない。
湊はナイフを逆手に握ったまま、そんなことを思った。
泡立つ肉は殺気を放ちながら、一歩一歩と距離を詰めて来る。対照的に航が後ずさったので、湊は進み出た。こんなところで時間を使うのは無意味だった。
湊が身構えたその途端、泡立つ肉は狂ったように叫びながら突っ込んで来た。身の丈程もある肉切り包丁は、残り火に照らされて鈍く光っていた。
湊は辺りに散乱した瓦礫を両手で掴むと、手当たり次第に投げ付けた。目眩しの意味もあるが、リーチの差を埋めたかった。
化物が立ち止まった一瞬を見逃さず、湊はその横へ滑り込んだ。何処に目があるのか分からないが、どうでもいい。
湊の右足は化物の膝を狙い、渾身の力を込めて振り抜かれた。関節に打撃を受けて、立ち上がれる人間はいない。
化物が醜い悲鳴を上げて倒れ込む。湊は手にしたナイフを心臓めがけて振り下ろした。肋骨を避け、心臓を狙う。耳を劈くような悲鳴が迸り、湊の頬には返り血が散った。
これでお終いじゃないだろう。
距離を置いて体勢を整える。手にしたナイフは化物の青い血を浴びて爛々と輝いていた。
ぼたぼたと血液が溢れ出て、化物は既に息も絶え絶えだった。これで駄目なら次は頸動脈だ。
湊が思考に意識を囚われた一瞬、化物は黄ばんだ歯を剥き出しにして突進して来た。その先には航が待っていた。
飛んで火に入る夏の虫だ。
航は軽いステップを踏んで斬撃を避けると、パルチザンを一気に突き出した。
鈍い金属音が響いた。攻撃を弾かれた航が目を丸め、距離を取る。どうやら、血に染まる前掛けは防刃処理でも施されているらしい。
泡立つ肉は、好機とばかりに肉切り包丁を振り上げていた。航はパルチザンを投げ捨て、後方へステップする。肉切り包丁が嵐のように振り回され、壁際へ追い込んで行く。
壁に衝突し、航は逃げ場を失った。泡立つ肉は稲妻のように凶器を振り下ろした。航は笑っていた。猫のような丸い瞳の中に、ナイフを構えた湊が映り込んでいた。
一閃ーー。
ナイフの切っ先は泡立つ肉の首筋を捉え、撫でるようにして斬り付けていた。
鮮血が噴水のように迸り、この世のものとは思えない恐ろしい雄叫びが響き渡る。血塗れの化物は致命傷を負いながらも振り返った。
普通なら、もう動けない。凄まじい執念と闘争心が化物の身体を支配している。
血を噴き出しながら肉切り包丁を振り回すその様は、正に怪物だった。湊は動きの鈍くなった怪物から距離を取り、斬撃を躱し続けた。
最期の一瞬まで油断はしない。
泡立つ肉が断末魔の声を上げる。空間がビリビリと震え、冷たいものが背中を走った。その肉切り包丁を振り上げた腕か奇妙に停止した次の瞬間、化物は地響きを立てて俯せに倒れ込んだ。
湊はナイフの切っ先を向けながら、荒い呼吸を整える。追撃があるかも知れない。相手は未知の生物だ。だが、化物は起き上がることは無かった。
生命の停止を確認し、湊はナイフの血を払った。
航が声を潜める。
「……やったか?」
「フラグ立てるなよ」
湊は溜息を吐いた。
追撃の気配は無い。湊はナイフを戻した。
パルチザンを杖にした航が辺りを見渡す。
「何なんだよ、こいつ。魔獣か?」
「知らないよ。でも、魔獣にしては……」
湊は俯いた。
この泡立つ肉は他の魔獣とは違う。魔獣と呼ぶよりも視肉に近い。人間を改造した化物なのではないか。いや、それにしては妙な既視感を覚える。自分はこの化物を知っているようなーー。
その時、瓦礫に埋まる通路の向こうから声がした。
「ぶっ殺してやるぜ、ミナト」
湊は目を凝らしたが、闇の中では影一つ見えない。
魔法陣から愛用の洋弓を召喚し、構える。無駄撃ちはしない。航はパルチザンを片手に闇の向こうを睨んでいた。
それは巨体を左右に揺らしながら、二人の前に現れた。
瓦礫の燃え移った残火が、赤紫色の毒々しい頭髪を照らしている。岩のような顔面には無数の傷があり、紫壇色の瞳は闘争心に染まり鋭利に光る。
見たことがある。
自分はこの人を知っている。
航が呆然とその名を呼んだ。
「カルブ」
カルブ。
スコーピオの街の地下格闘技大会に参加していた戦闘狂。航の対戦相手だった。
地属性の肉体強化の魔法を使い、航に瀕死の重傷を負わせながら、僅差で敗れた。
何で此処にいる。
前触れも無く現れた敵に、湊は舌打ちを漏らした。ーーこの男は、好きじゃない。
「なんで此処にいるんだ」
パルチザンの穂先を突き付けながら、航が言った。
カルブは喉を鳴らして笑いながら答えた。
「知らねぇ。お前等と再戦したいと思ってたら、此処にいたんだ」
何だ、そりゃ。
航が呆れたように零す。一方で、湊の頭の中には無数の情報が浮かび上がり、一つの非科学的な可能性が過った。
湊が思考に没頭していると、カルブが狂気的な笑みを浮かべてナックルダスターを構えた。航の叫び声が響き渡る。
「湊!」
白銀の閃光は湊の左頬を掠め、後方の通路と泡立つ肉の死骸を無惨に吹き飛ばして行った。その凄まじい威力に湊の意識は回帰し、狂戦士へ向けられた。
「考え事とは余裕じゃねぇか」
カルブの声は愉悦に染まっている。
湊は苛立った。
馬鹿は嫌いだ。考えることもせず、目の前の快楽に流されるだけのクズが、自分の邪魔をすることが腹立たしい。ーーこいつは以前、俺の弟に瀕死の重傷を負わせた。
「……航、先に行っててくれないか」
「はあ?」
「この人は俺に用があるらしい。ーー俺も、この人には用がある」
もう二度と、自分の前で弟を傷付けさせはしない。
航は動かない。心配してくれているのだろう。五年前なら余計なお世話だと突っ
湊は洋弓を魔法陣の中へ戻し、再びナイフを引き抜いた。
「此処はイデア界だよ。魔法界にいる全ての人の共通知識の世界だ」
「はあ?」
「シリウスの考えそうなことじゃないか。魔法界全土の人々の意識を繋げ、思想を支配する。此処にいる俺たちもこいつも、思念体だ」
「思念体……」
湊は跡形も無く吹き飛ばされた化物を思い出す。
あれは視肉の類だと思ったが、違った。
人間界の記憶が蘇る。今から十年以上前のテレビゲームに、あの泡立つ肉とそっくりな化物を見た。
舞台は森の洋館。ゲームの主人公は超常現象や殺人鬼から逃げながら脱出を図るというホラーアドベンチャーゲームだった。
湊がプレイする横で、航は退屈そうに画面を眺めていた。
湊は謎解きに夢中だった。だけど、もしかすると、航は怖かったのかも知れない。怖くて動けなくて、それでも逃げるだなんて矜持が許さず、意地を張って其処にいたのかも知れない。
ああ、怖かったのかな。
昔、父と三人で行ったナイトハイキングを思い出す。絶対に訊きはしないけど、本当は怖かったのかも知れない。不意にそんなことを思った。
「この世界の何処かにシリウスがいる。其処には昴もいる。昴には自衛の手段が無い。早く行かないと、犠牲の魔法が奪われる」
航が頭を掻き毟る。
確証は無い。けれど、最悪の事態は想像出来る。
魔力が血筋に宿る以上、昴を支配下に置く必要がある。
タウラスの街でも、シリウスは精神干渉の魔法によって昴を支配下に置こうとした。人の心は簡単に揺らぐ。そんなこと、湊が一番分かっている。
時間が無い。
「俺がこんな雑魚に負けるかよ」
カルブの
航は苦い顔をして、拳を向けた。
「……絶対に追い付いて来いよ」
「当たり前だろ。寄り道してると、追い越しちまうかも」
念を押す航に拳をぶつけ、湊はにししと笑った。
釣られるようにして航も苦笑していた。
駆けて行く弟の背中を見送り、湊はナイフを逆手に取った。
「あんたの相手は俺がするよ」
「代わりに弟は助けてくれってか?」
命乞いして油断させても良かったが、面倒だったので止めた。殺される気なんて毛頭無いし、こういう輩は獲物を見逃しはしない。無駄な会話はしたくない。
カルブは薄く笑った。
「ミナトを殺したら、次はワタルの番だぜぇ」
「弱い犬程よく吠える。さっさとあんたを倒して、俺は行く」
共通知識の世界ーー。
恐らく、この先には昴やレグルス、シリウスがいるはずだ。こんなところで足止めを食ってる暇は無い。
航を先に行かせたのには、理由がある。
待ち受けるシリウスに、昴やレグルスの言葉は届かないだろう。彼等にはシリウスが理解出来ないはずだ。
でも、航なら。
幾度と無く革命軍への勧誘を受けながら、断り、今も人間界の為に奔走する航の声なら、届くかも知れない。
シリウスはレグルスの双子の弟だった。以前、勧誘を受けたカストルもそうだ。シリウスは双子の弟というものに同族意識を抱いている。だから、航を殺すことは無い。
自分じゃ、駄目だ。
歯痒いけれど、弟の為ならば幾らでも骨を砕こう。
美味しいところはくれてやるよ。
「俺はお兄ちゃんだからね」
湊は地面を蹴った。
20.ジャイアントキリング
⑺兄の
カルブは、地に深く根を下す大樹の如き巨体で身構えていた。
迎撃の姿勢を取った敵を前に、湊は刺突を構えて突進した。此処が共通知識、イデア界ならば自分にも魔法が使えるはずだ。
空中に緑色の魔法陣が無数に浮かび上がり、周囲を埋め尽くして行く。ノームの加護を得た身体能力増強魔法だ。力比べを望むような単細胞を一々相手にしていられない。
湊は空中で加速した。カルブはやや驚いたかのように目を丸めたが、大きな拳はミサイルのように振り抜かれた。
木の葉のように身を躱し、カルブの頭上を取る。転落の最中、担いでいた矢筒から一本の矢を取り出した。
紫壇の瞳がぎらぎらと光り、獲物を渇望し叫び散らす。振り回される拳がスローモーションに見えた。
純粋な力比べでは分が悪いが、疲弊を狙って持久戦をするつもりも無い。
空中で激しく揉まれながら、湊はカルブの右腕へナイフを滑らせた。致命傷には至らない瑣末な傷だ。その隙に矢を投げ放ち、壁へ突き刺した。
カルブが口汚く舌打ちを漏らす。力任せに振り回された拳が頬を掠め、湊は宙返りしながら着地した。
ナイフを収め、魔法陣を展開する。
次は弓だ。怒りの形相で襲い掛かるカルブの真正面から矢を放ち、湊はすぐ様、回避の姿勢を取った。
鼻先を掠めた拳が地面を抉り、蜘蛛の巣状の罅を入れる。後方へ体勢を崩しつつ、次の矢を放つ。
カルブの攻撃を紙一重で躱しながら、湊は放射状に矢を放ち続けた。
「何処を狙ってるんだ!」
カルブの興奮した声が響く。
湊は構わず次の矢を放った。
「そんな小せぇ矢が効くかよ!」
攻撃は最大の防御だ。カルブの嵐のような猛攻を躱し、当たりもしない矢を放ち続ける。
当たっても刺さらないかも知れない。致命傷を与えることは難しい。だが、一撃必殺なんて野蛮な戦い方は矜持に反する。
湊の矢には魔法効果が付与されている。
翻弄し、疲弊させ、隙を狙う。
湊には、航のような一撃必殺の力は無い。ーーいつもそうだ。
湊は体格に恵まれなかった。
身体の大きな同級生に囲まれて、嘗められる。湊が殴られると航が飛んで来て、喧嘩は悪化してしまう。
力では敵わない。それなら、別の方法を考えよう。弟が矢面に立たされることのないように、自分の身を守れるように。
自分自身に問い掛ける。
なあ、蜂谷湊。
お前の得意なことは何だ。
息吐く間も無く矢を放つが、
航との距離がどんどん離れる。焦りは無かった。それこそが、湊の狙いだったからだ。
後退したその時、背中に鉄格子の冷たい感触があった。袋小路、行き止まり。冷たく淀んだ空気の中、薄く発光するカルブだけが浮かんで見える。
「終わりだ!」
カルブと湊の声は、奇しくも重なっていた。
白銀のナックルダスターが振り翳される刹那、湊は首から下げたネックレスを握った。青いトルコ石は湊の意思に呼応し、光を放った。
弦を起点として無数の糸が蜘蛛の巣のように広がる。矢を回収する為ではない。付与した魔法効果を発揮させる為だ。
魔力の供給を受けた糸が導火線となる。凄まじい電撃によって闇が裂け、光が走った。空間が破けるような凄まじい音と共に青白い火花が散り、カルブの動きが一瞬鈍った。
視界が激しく点滅する。湊はナイフを逆手に引き抜いた。
肉体強化の反魔法陣がナイフに浮かび上がった。次の瞬間、湊のナイフは白銀のナックルダスターを一刀両断した。
耳が痛くなるような高音が響き渡り、カルブの指先から血液が迸る。湊は無呼吸のままナイフを左手に持ち替え、右手を添えた。そして、その胸に飛び込むようにして心臓を狙った。ーー殺せる。
覚悟を決めた時、不意に誰かの声が耳元で蘇った。
それは駄目なんだよ。いけないことなんだ。
お前が大切だから。
父が、葵くんが、昴が、航が。
異口同音に訴え掛ける。湊は急ブレーキが掛けられたかのように停止していた。
「……ッ!」
胸に刺さる寸前、湊は動きを止めた。隙を見逃さずカルブが肩口を当てる。
湊は動けなかった。しかし、武器を失ったカルブも反撃には至らなかった。
互いに距離を置き、回廊は奇妙な静寂に包まれた。
湊は奥歯を噛み締めたままナイフを握り、カルブは武器を失くして睨みを利かせる。だが、その紫壇色の瞳は光が消え、やけに凪いで見えた。
「……てめぇ、どういうつもりだ……」
カルブは恫喝するように問い掛けた。
湊は答えを迷った。演技ではなかった。頭の中が真っ白で、本当に分からなかったのだ。
自分はカルブを殺せた。殺すつもりだった。
情けを掛ければ自分が殺される。誰かが泥を被らなければならない。ーーそう思っていたのに。
「決着はついただろ」
「ふざけるな! 俺は生きてんぞ!」
「殺し合いがしたい訳じゃない」
生きてなきゃ駄目だ。
この最低限のラインを妥協してしまったら、それはもう自分の正義ではない。どんな時も争いを避け、第三の選択肢を探って行く。
殺気を撒き散らす戦闘狂を前に、湊はナイフを腰へ戻した。頭の奥がずきずきと痛んで、目が回る。その場に立っていることすら困難で、湊はついにしゃがみ込んでしまった。
隙だらけの姿を晒していると分かっているが、カルブは無抵抗の弱者を相手に攻撃は出来ないと知っている。彼が望むのは血が湧き、肉が躍るような殺し合いだ。一方的な虐殺には興味を抱かない。
「もう嫌なんだよ……」
湊は頭痛を堪えるようにして額を押さえた。
「目の前で人が死ぬのは、もう嫌なんだ……」
レオの村の集団自決、ジェミニの街の貴族による非道ゲーム、魔獣に食い殺されて碌に埋葬もされなかったカストル。
本当は全部、助けたかった。誰にも死なないで欲しかった。そう願うことが間違っているのなら、正しさなんてクソ喰らえだ。
カルブは黙っていた。
その瞳から闘争心と嗜虐的な光が消え失せ、まるで肩透かしでも食らったかのような顔付きだった。
「その為に自分が殺されてもか?」
「そんなヘマはしないよ」
でも、もしもそのような場面があるのならば、湊はきっと相手を殺してでも生きようとするだろう。だって、それ以外の方法を知らない。
湊は他人の嘘が見抜ける。相手を信じるということはとても勇気のいることだ。でも、打算無く相手を信じて、胸を張れるような人になりたい。
「あんたに俺は殺せないし、俺もあんたを殺さない。でも、喧嘩ならいつでも買ってやる。ーーだから、もう二度と航に手を出すな」
湊が言うと、カルブは空気の抜けた風船のように萎んでしまっていた。
「てめえは、相変わらず気に食わねぇな」
「何とでも」
「だが、ーーてめえの馬鹿さ加減に免じて、この場は見逃してやる」
カルブは割れたナックルダスターを弄びながら笑った。
「面白かったからな」
カルブが道を開けた。
相変わらず陰湿な地下牢の回廊が何処までも続いている。航はどのくらい先にいるだろうか。心配なんて航の矜持を傷付けるだろう。
湊はポケットに仕込んだ魔法陣を確認し、ネックレスを握る。既に魔力は空だ。何処かで補充したいところだけど、生憎、そう上手い話があるはずも無い。
溜息を吐いて立ち上がると、カルブが言った。
「てめえ、魔力が無いのか」
魔力を持たない人間は、この世界では落ちこぼれだ。
湊は答えを迷っていると、カルブが急激に距離を詰めて来て、ネックレスへ掌を向けた。
春の陽だまりにいるような温かさがネックレスを通じて届く。カルブは言った。
「てめえのことは嫌いだが、信念を貫こうとする心構えは気に入った。ーー折れるんじゃねえぞ」
これはカルブなりの叱咤激励なのだろう。
湊は了解したとばかりに微笑み、魔力の補充されたネックレスを握った。
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