⑹兄弟

 魔法界の異端ーーシリウスは、背筋の凍るような冷笑を浮かべていた。その双眸は美しい銀河の煌きの中でも際立ち、抜き身の刃の如く輝いている。




「お優しいね、王様は」




 シリウスが掌を向けると同時に魔法陣が広がって行く。レグルスは反射的に防御の姿勢を取った。次の瞬間、喉が焼け付く程の高熱の炎が噴き出した。


 レグルスの足元に金色の魔法陣が光る。凄まじい突風が炎を吹き飛ばし、轟々と唸りを上げる。


 シリウスが掌を翳す。魔法陣から現れた無数の炎の蛇が牙を剥いて襲い掛かる。乳白色の牙が届く刹那、レグルスは地面から金色の刃を召喚し、大蛇の首を一刀の元に斬り伏せた。胴体と切り離された首は勢いを失わず、レグルス目掛けて突っ込んで来る。


 レグルスは忌々しげに舌打ちを漏らし、掌を払った。暴風が唸りを上げて大蛇を吹き飛ばして行く。息吐く間も無い猛烈な魔法の攻防だった。


 レグルスの前に稲妻を具現化したような巨大な槍が現れた。それを投げ放とうと腕を引いた瞬間、レグルスの頬がぴくりと痙攣した。

 一秒にも満たない一瞬の空白だ。シリウスは愉悦に口角を釣り上げた。指先から火花が散る。


 無数の火球が悪夢のように降り注ぐ。

 レグルスが空へ掌を向けると、目に見えない傘が火球を弾いた。だが、その瞬間、二人を中心に円を描くようにぐるりと炎が地面を走った。


 炎の壁が二人を包み込む。その恐ろしい熱波によって、昴は呼吸が出来ず、喉を押さえて蹲った。




「俺はね、ずっと考えてたんだ」




 轟々と燃え盛る炎の向こうで、シリウスの微かな声が聞こえる。




「俺とお前等は何が違うんだろうって。レグルスは自分の立場や命よりも、人々の命を選ぶんだろう。昴は自分の身の安全よりも、あの双子の安否が気に掛かるんだろう」




 シリウスは嗤っていた。否、本当は泣いているのかも知れない。朦朧もうろうとする意識の中で、何故だか昴はそんな風に思った。




「命よりも大切なものは誰にでもあるさ。じゃあさ、お前等のどのカテゴリーにも属さない俺みたいな落第者は、一体誰が救ってくれるんだ?」




 助けて欲しいと願った時、差し伸ばされる温かい掌は無かった。

 守ってくれる兄も、導いてくれる親も、支えてくれる仲間もいなかった。




「おいおい、殺されかけてるっていうのに、同情してんのかよ」




 おどけるようにシリウスは言った。

 今も炎は周囲の酸素を蝕み、思考回路を圧迫している。あのレグルスが魔法陣を構築出来ない程に衰弱している。


 昴は掌を広げた。

 使える魔法は一つだけだ。犠牲の魔法。

 今、犠牲に出来る命はレグルスしかいない。代替出来ない唯一無二の命を使って、シリウスを討ち取るか?


 誰からも愛されず、守られず、救われなかったシリウスを殺せるのか?

 昴は躊躇った。刻一刻と酸素は欠乏し、視界がぼんやりと霞んで来る。




「俺は平和とか革命とかどうでも良いんだよ。この薄汚い世界を全部ぶっ壊してやりたいって思ってたんだ」

「復讐が目的なら、俺を殺せば良い……!」




 喘ぐようにレグルスが言った。




「罪の無い人々を巻き込むな……!」

「罪の無い人々?」




 シリウスは鼻を鳴らした。




「笑わせるなよ、レグルス。この世界で最も罪深いのはお前や昴でもなければ、俺でもない。世界の大多数を占める愚かな民衆さ」




 シリウスが掌を払うと、深い傷痕を残した魔法界が浮かび上がった。

 路頭に迷い、生きる為に弱者から奪い、大義名分を得た暴力によって捕縛される哀れな人々。瓦解した建物の奥では親を失った子供が泣いている。差し伸べられる手は無い。誰もがみんな、生きることに必死なのだ。


 レグルスは沈黙していた。彼の立場では反論も反撃も出来ない。




「愚かな民衆さ。ーーでもね」




 昴は答えた。




「でもね、彼等は今、変わろうとしてる。王家による安全神話が崩れ去り、自分の命は自分で守るしかないと理解している」

「結果が、この混沌とした地獄絵図だろ?」




 シリウスは呆れたように嗤っていた。


 革命の結果、何が変わったのかは今の昴には分からない。きっと、これから変わって行くのだと信じている。




「平等な世界なんて、まやかしだ。争いは無くならない。それでも」




 視界は燃え盛る炎に染まり、最早、シリウスが何処にいるのかも解らない。


 昴は焼け付く喉を酷使して、声の方向へと訴えた。




「保身も考えず、他者の為にたった一つの命を晒して奔走する馬鹿な人間がいる」




 瞼に浮かぶのはヒーローだった。

 他人の戦争の為に紛争地を巡り、命の価値を揃えるなんて曖昧な理想を掲げて人道援助を続けた。結果として味方であるはずの政府軍に空爆され、死んだ。


 けれど、ヒーローは生きていたのだ。

 あの頃と変わらず、安い綺麗事を掲げて駆け回っていた。家族に会うことがすら叶わず、それでも彼等の為に優しい世界を守ろうとたった一人で闘い続けていた。


 彼が言ったのだ。

 希望がある。希望がある。希望がある。




「新しい時代は来ている。王家は倒れ、革命は成った。レグルスは未来の為に必要な人間だ。そして、君も」




 あの頃無かった救いの手を今差し出そう。


 昴は、祈る思いで手を伸ばした。

 その瞬間、一筋の炎が駆け抜けて、その腕を無残に炎に焼いて行った。


 皮膚が収縮し、肉の焼ける嫌な臭いがする。熱さは感じなかった。ただ、目の前のシリウスを救ってやりたいと願っていた。




「お前は本当に馬鹿だな」




 侮蔑するような声がした。

 次の瞬間、鋭い痛みが走った。悲鳴を上げる間も無かった。

 昴の右腕は、いつかの湊と同じように切断されていた。血液が噴水のように噴き出して、辺り一面を真っ赤に染める。

 余りの痛みに身体を丸めて呻く昴に、シリウスは冷たく言った。




「性善説を振り翳して、都合の良い解釈を押し付けるなよ。俺とお前の正義が同じと思うな」




 どうすればいい。

 この手も声も届かない。此処には境界線がある。

 昴にはシリウスを理解出来ない。歩いて来た道が違う。選んで来た答えが違う。


 絶望の闇が視界を覆い隠し、凡ゆる可能性が途絶え、死の割れ目が足元に広がっていた。









 20.ジャイアントキリング

 ⑹兄弟










 何か不測の事態が起きたことは分かった。

 航は最後の記憶を辿る。自分は王宮の中庭で昴と話していて、後から湊が合流するはずだった。


 だが、昴を見た湊が言ったのだ。

 お前は誰だ、と。


 あれは恐らく昴の偽物だったのだろう。思い返せばあの偽物は理解不能な問答を繰り返していた。他人の嘘を見抜く湊には、一目で偽物と分かったのだろう。


 記憶の途切れる刹那、あの猛禽類のような金色の瞳を見たような気がした。信じたくはないが、自分たちは王手を掛けながらも、玉を奪われたのだ。最悪の失態だ。


 過ぎたことは、もう良い。これからどうするかが問題だ。

 まずやるべきことは、現状の把握。


 手足は動く。怪我は無さそうだ。だが、視界は真っ黒に染め上がられ、現在地も分からない。


 湊は無事なのか?

 焦燥を噛み締めていると、辺りがぼんやりと照らされ始めた。周囲を囲む石壁は地下牢のように強固で、侵入も脱出も不可能だと思えた。


 次第に視界は明瞭になる。其処は正に地下牢だった。レグルスが自ら入った地下牢より陰湿な空間だった。鉄格子と石壁が交互に並んでいるが、囚人はいない。ドブネズミすらいない。完全なる無音が其処にある。


 航は取り囲む牢獄を一つずつ覗き込み、人の気配を探して歩き出した。

 一人分の足音が地下空間に虚しく反響し、俄かに平衡感覚が狂い始める。何処まで歩いても、同じ空間が続いていた。


 此処は何処なんだ?

 強制転移魔法によって、何処かの地下牢へ放り込まれたのか。

 狙いは何だ?

 あの昴は偽物だった。多分、あれは、シリウスだった。


 航は足を止めた。自らの意図ではない脊髄反射的な行為だった。

 暗がりの向こうから、何かの声が聞こえる。

 カサカサと無数の足音を鳴らして、異口同音に囁いている。




「スバル、スバル、スバル」




 初めに見えたのは、大型の肉食獣程もある蜘蛛の前脚だった。その頭部には血の気の失せた少女の顔が乗っている。


 瞬間、航の手足からは血の気が引き、その異形の化物の悍ましさに目眩がした。


 一匹や二匹じゃない。

 何かから逃げるように、行列となってわらわらと湧き上がる。航は手に汗を握り、化物の行列が去ることを祈った。

 航は丸腰だった。戦闘することは出来ない。




「スバル、スバル、スバル」




 昴の名を呼び続ける化物ーー。

 それが何か、航は知っている。


 犠牲の魔法を受け継いだ先代の王は、効率良く魔法を行使する為に、犠牲となる命を創り出した。


 消費されるだけの肉の塊、視肉。その失敗作が、この化物である。先の魔法大戦では、王家はこの化物を戦場へ放った。革命軍の喉笛を嚙み千切り、殺しても殺しても害虫のように次々と湧いて出る。


 それがどうして、こんなところに。

 頼むから、気付かずに行ってくれーー。


 航が祈るように拳を握ったその時、後列を歩いていた化物が振り向いた。白濁とした眼球は、死人のようだ。航の体は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。


 獲物に気付いた化物の群れが引き返して来る。

 通路は化物で埋まり、まるで一つの巨大な生物のようだった。

 化物が細い毛の生えた足を踏み出す。爪は黒曜石を削ったように鋭い。

 航は動けない。呼吸すらままならない。肉食獣を前にした草食動物だって、もっとマシだろう。

 自分の不甲斐無さに吐き気を催しながら、航は最悪の事態を覚悟した。


 ーーその時だった。

 化物の現れた回廊の向こうから、白い閃光が走った。


 それは着弾すると同時に凄まじい爆発を起こした。化物は身の毛もよだつ恐ろしい断末魔の声を上げ、消し炭となっていた。


 燃え盛る紅蓮の炎の向こうから、誰かがやって来る。

 乾いた足音が反響する。航は熱に滲む視界の向こうに目を凝らした。




「……湊?」




 見間違うはずが無い。

 其処に立っているのは、生まれる前から一緒に育った兄だった。


 愛用の洋弓を肩に担ぎ、その身には蛇のように炎が巻き付いている。回廊を埋め尽くす視肉を一掃し、湊は辺りを見渡した。




「死にたかったんだろうね」




 唐突に、湊は言った。

 その目には奇妙に透き通った光が宿っている。父とそっくりの真ん丸の目が、焦土と化した回廊をぼんやりと眺めていた。




「昴に死なせて欲しかったのかな」




 もう分からないね。

 感情の感じられない淡白な声だった。


 視肉は、昴の名前を呼んでいた。

 自分の命を終わりにする為に、昴の犠牲の魔法を求めていたのだろうか。


 航は体勢を整え、湊と向き合った。




「此処は何処だ?」

「さあね」




 湊は肩を竦め、状況把握の為に周囲の散策を始めた。その背中を呆然と眺めていると、湊が独り言のように零した。




「王宮の書庫に行ったんだ」




 湊が振り向く。その大きな瞳は粉塵の為か、潤んで見えた。




「シリウスは、レグルスの双子の弟だったよ」




 双子の弟?

 シリウスとレグルスは双子だった?

 じゃあ、シリウスは、捨てられた子供だったのか?


 兄は王となってみんなに愛され、弟は忌み子として人間界へ捨てられた?


 根底から引っ繰り返すような衝撃だった。

 航が言葉を失っていると、湊は何でもないような顔をして言った。




「何が違ったんだろう。俺と航、レグルスとシリウス、ポルックスとカストル」




 湊は淡々と瓦礫を片付け始めた。航は舌打ちを零し、その背中を押し退けた。




「環境因子なんて言い訳だろ。生まれ持ったもんに今更文句言ったって何も変わらねぇ」




 彼等がどれ程に不幸であったとしても、やってしまったことは彼等の責任だ。幾ら比較しても航は湊にはなれないし、彼等の胸中を理解することも出来ない。


 湊は腰からナイフを引き抜いた。両目は闇に染まる回廊の向こうを睨み、不敵に笑っている。


 闇の奥から、病にでも侵されているような気味の悪い息遣いが聞こえる。何かを引き摺る金属音と湿った足音。


 洞窟の中で遭遇したゴーゴンを想起する。

 航は掌に刻んだ魔法陣からパルチザンを呼び寄せた。


 ちゃりちゃりと鎖を引き摺るかのような金属音が微かに聞こえる。漏れ出す殺気と悪意が形を成して今にも牙を剥いて襲い掛かって来るようだ。


 最初に見えたのは、返り血に染まった前掛けだった。

 筋骨隆々たる肉体には皮膚が無く、褪せた革靴が余りも不釣り合いだった。その顔面は形容し難い程に崩れ、肉が泡立っているように見える。


 航はその不気味さに戦慄し、一瞬、呼吸を失った。

 隣で湊がナイフを逆手に握り直す。恐怖は滲むようにして消えてしまった。


 泡立つ肉は、獲物を見付けた歓喜に笑ったようだった。とは言え、顔面は人とは思えない程に歪んでいるので、本当のところは解らない。

 その手には巨大な肉切り包丁が下げられていた。何処かで解体作業でもして来たのか、ことごとく血に染まっている。


 気道の露出した喉元から奇妙な音が漏れている。形は人だが、人語を解するとは思えない。


 生命の危機を感じる緊張感の最中、湊が不思議そうに零した。




「お肉屋さんなのかな」




 気休めや冗談ではない。

 その言葉を聞いた瞬間、航の中にあった緊張や恐怖は泡のように消えてしまった。


 昔から湊は、超常現象や幽霊のような非科学的なものに対する恐怖を感じないらしかった。兄の目に世界がどのように見えているのかは分からない。人もミミズもオケラも同じなのかも知れない。


 無神経な言葉に、昔ならば腹を立てただろう。けれど、何故だかそれが可笑しくて、航は堪え切れず笑ってしまっていた。




「怖い?」




 湊が訊いた。苛立ちは無かった。


 航は幼少期のことを思い出した。

 両親の母国へ帰った時、父とナイトハイキングをした。深い闇の中、ゴールも見えないまま延々と続く山道を登り続けていた。


 父は背中を向け、振り返りはせず、歩調を合わせてくれた。けれど、本当は立ち止まって欲しかった。休もうかと訊いて欲しかった。隣の湊が弱音も泣き言も零さなかったから、航はずっと黙っていた。


 怖くなかったと言えば嘘になる。

 でも。




「怖いって言ったら、誰か助けてくれんのかよ」




 航が言うと、湊が笑った。




「俺が助けるよ。お兄ちゃんだからね」




 薄ら寒い台詞は聞き流し、航は化物と対峙する。


 あの夜の山で、もしも自分が怖いと言ったら、湊は立ち止まってくれたのだろうか。自分に代わって休もうよと言ってくれたのだろうか。今では分からない。でも、自分を気遣う湊なんて湊じゃない。


 引っ込んでろ。

 航は吐き捨てた。湊はからからと笑っていた。

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