⑷名も無き王

 その金糸の髪は、まるで夜空に浮かぶ天の川を眺めているかのように美しかった。狂気的な熱気の中で、彼女の周囲だけが切り取られたかのように静寂を保ち、清涼な風が吹き抜けている。


 動乱に染まる魔法界の中枢、王都。

 白を基調にした王宮の中庭は、作り物のように鮮やかな緑の芝生が広がっていた。白金の鎧を纏った兵士が王の住居で一致団結して拳を握る。武装勢力ががなり立てる喧騒の中で彼女だけが冷たく理性を保っていた。


 王の軍勢の一人、ベガ。

 これまで彼女には幾度と無く窮地を救われて来た。冷静な判断力は元より、特筆すべきは魔法界でも希少とされる治癒魔法の正確さである。今の湊が生きているのは彼女のお蔭だ。


 そんな彼女が、端正な顔を苦渋に歪めている。困難な状況にあるのならば手を差し伸べ、幾らでも骨を砕こうと思う。しかし、湊はもう知っている。困難の中にある人が、必ずしも助けを求めているとは限らない。


 ベガは湊に気付くと、息を逃すように目を伏せた。再びその碧眼が向けられた時、其処には刃のような非情な決意が宿っていた。




「王宮の書庫へ行きたいんだ」

「いいわ」




 気配も音も無く、ベガは歩き出した。その後を追う湊は、自分が影法師のように思えた。

 燦々さんさんと降り注ぐ日差しを浴びながら、渡り廊下を抜ける。王の進路を守る赤絨毯は、血の色に似ている。この先が地獄であっても、自分は驚かないだろう。




「何を知りたいの?」




 背中を向けたまま、ベガが問い掛ける。


 廊下を抜け、地の底まで続くような螺旋階段を何処までも降って行く。周囲に音は無く、点在する魔法具の照明が僅かに足元を照らしていた。


 石造りの冷たい壁が左右から迫って来るようだ。

 湊はベガの後を追いながら、暗闇に染まる地下をじっと見詰めていた。




「全てを」




 湊が答えると、彼女は笑ったようだった。

 後ろ姿に見える凛とした佇まいは、芍薬しゃくやくの花に似ている。




「貴方はもう、その答えを持っているんじゃない?」




 湊の胸中は、凪いだ水面のように穏やかだった。

 挑発的な言葉は彼女の強がりだ。湊には他人の嘘が分かる。ーーけれど、全ての真実が目に見えるとは限らない。


 観測者効果というものがある。

 真実とは、観測される時点まで姿を変える。そして、事実と真実が別のものであることを、今の湊は知っている。




「確証の無いことは口にしない。言葉は目に見えないけれど、人を傷付けるから」

「お利口さんの答えね」




 階段を下り終えると、取っ手の無い鉄製の扉が待ち構えていた。赤く錆びた蝶番ちょうつがいと鉄格子は侵入者を拒み、覚めない悪夢のように行手を阻む。


 ベガが掌を翳すと、招き入れるように鍵が落ちて、独りでに開いた。


 中には、墨汁を垂らしたような闇が待っていた。躊躇いもてらいも無く、ベガは足を踏み入れた。白々しい魔法具の光が足元を照らしたが、その先は夜目も利かない闇であった。


 二人分の足音が響き渡る。

 空気はひんやりと冷たい。湊はレオの村にあった海蝕洞を思い出し、嫌悪感を拭えなかった。滑る血液の感触と内臓の破裂する音、人々の狂気に染まった眼光が今も鮮明に蘇る。


 堪えるように拳を握った時、ベガが立ち止まった。湊はつんのめったように停止し、おぼろに浮かぶ進路を愕然がくぜんと眺めていた。




「着いたわよ」




 それは書庫と呼ぶよりも、であった。


 ルーン文字が呪いのように刻み込まれている。

 魔法界に書籍という概念は無い。情報は全て魔法陣として残される。そして、魔力を持たない人間には越えることの敵わない壁として立ち塞がるのだ。


 魔法陣は数式で、算出は容易い。

 湊は暗記も計算も得意だった。けれど、此処にある魔法陣は知識を超えた芸術の域に達していた。


 険しい山の頂から朝日を眺めるような、途方も無い奇跡の瞬間に立ち会っている。


 解読は出来ない。其処に刻まれているのは、魔法界に連綿と受け継がれて来た叡智の結晶である。好奇心だけで暴いていい領域ではない。




「魔力を貸す?」

「ーーいや」




 ベガの申し出に、湊は首を振った。


 自分より遥かに真摯に真理と向き合って来た先人の導き出した公式を、暗記しただけで理解したとは言えない。

 数え切れない程の試行錯誤の末に生み出された奇跡の業だ。侵入者を拒み続けた歴史の番人に敬意を払い、湊は其処へかしずいた。




「これは偉大な歴史の記録だ。俺みたいなガキが悪戯半分に踏み込んで良いものじゃない」




 魔法界へ来てから、湊はずっと腹が立っていた。

 魔法界は劣等文化だと思っていたのだ。人間界の歴史をなぞり、同じ過ちを繰り返す。向上心の無い負け犬の掃き溜めだとすら思った。


 でも、そうじゃなかった。

 自分が引き金を引くような場面で、最後の一瞬まで第三の選択肢を諦めず、王家は無用な争いを避けて来た。本当に守るべき人々を守る為に。


 タウラスの街を囲む反魔法陣の壁を彷彿ほうふつとさせる。

 場当たり的に魔法を打ち消す夥しい魔法陣を見て、湊は効率が悪いと思った。打ち消すべきは魔法そのものではなく、それを操る術者であると判断した。


 魔法へ対抗する為に術者の魔力回路ーー延いては脳を破壊した湊に対し、王家は手間を惜しまず最小限のリスクに留めて来たのだ。その意味を履き違えてはならなかった。後悔と自責の念が互い違いに押し寄せて、胸が苦しくなる。


 目の前にあるのは、王の系譜けいふだ。

 混沌とした魔法界の裏側で、真に心を砕いて来た王の血筋が記されている。


 王の系譜は、掌の神経系に似ている。

 手首から派生し、指先へと広がって行く。親指の位置にいるのはレグルス。小指に昴。偉大な歴史の記録の中に、彼等は生きている。


 今この瞬間を生きている自分が、どれだけの奇跡であるか分かる。父が命を懸けた意味を間違えてはならないと強く思う。


 湊は、ベガへ向き直った。

 後悔して立ち止まるくらいなら、這ってでも前へ進む。湊は覚悟を決めて、口を開いた。




「だから、真実を聞きたい。ーー貴女の口から」




 この人は嘘を吐かない。出会った時からそうだった。上部の言葉の無意味さをよく知っている。




「レグルスの隣にいるのは誰?」

「当ててみて」




 試すような物言いで、ベガは微笑んだ。


 此処で正解を示さなければならない。誤れば真実は永遠に秘匿され、彼女はその罪を負い続ける。

 レグルスに並び立つ者。強大な魔力と、人の上に立つ強烈なカリスマ性を持ち合わせた最強の魔法使い。


 湊は静かに息を吸い込み、覚悟を決めた。







 その名を告げた時、ベガの瞳がかげった。

 諦念、或いは覚悟。彼女の心の機微が手に取るように分かる。王家が隠し続けて来た真実は、硝子片を吞み下すかのような酷い苦痛を伴っていた。


 達成感も爽快感も無い。

 其処にあるのは遣り切れない程の虚しさだった。




「魔法界に生まれ落ちた双子は禁忌とされ、後に産まれた方は殺される」

「航から聞いたの?」

「そう」




 湊は確信を持っていた。


 シリウスは正体不明の青年だった。

 復讐に駆られ、革命軍を組織し、多くの人を巻き込みながらもその憎しみの炎は消えることが無かった。

 父が生きていると分かるまで、湊はシリウスのイデオロギーなんて考えたことも無かった。


 シリウスの復讐の対象は魔法界全体だ。

 それはつまり、シリウスこそが魔法界に蔓延はびこる古臭く惨めな因習の犠牲者だということだ。


 シリウスの狙いが分かる。

 昴の犠牲の魔法を狙い、湊や航を巻き込み、父さえ手に掛けようとした彼の本当の願い。




「シリウスは王家の血を引く正当な後継者。ーーレグルスの双子の弟だ」




 ベガは伽藍堂の瞳で、闇の向こうをぼんやりと見詰めていた。


 王家の血筋を引く正当なる後継者は双子として産まれた。兄はレグルス、弟はシリウス。

 しかし、魔法界では禁忌とされる双子であったが為にシリウスは人間界へ追放された。


 時代は中世ヨーロッパ。

 人口増加により政治経済が目まぐるしく発展し、数々の芸術家が出現した栄光の時代である。しかし、その反面では致死率の高い伝染病が蔓延し、凄まじい飢饉ききんが起こり、娯楽の一つとして異端者審問が行われた暗黒の時代でもある。


 激動と混沌の渦中へ放り込まれたシリウスが、どのように生きて来たのか、湊には分からない。ただの一人の味方も無く、存在そのものを否定されながら、それでも魔法界へ戻って来た彼の胸中を察する術を、湊は持たなかった。


 同情も共感も受容も無意味だ。

 湊にはシリウスの心へ寄り添う術が無い。

 自分は恵まれた子供だった。ーーでは、親も無く、兄弟も無く、縋る先一つ持たなかったシリウスは?


 アルデバランへ手を差し伸べたのは、シリウスだった。自分たちはあの子供の存在を知りながら、助けるどころか思い出しもしなかった。


 彼等の目には、自分たちはどのように見えたのだろう。

 タウラスの街で遭遇した時、シリウスは言っていた。


 ーーこれは弱者の反撃なんだよ。君たちの大好きな番狂わせ、ジャイアントキリングさ。


 散開する点が線で繋がった。

 全ての疑念は余すところ無く帰結し、最早、反証の必要も無い。


 ベガは放心したように項垂れていた。

 湊は問い掛けた。




「レグルスは、知っているの?」

「いいえ。この真実を知っているのは、前王とその正妃、それから側近の私だけよ」




 王も正妃も死んでいる。残っているのは、ベガだけだ。

 ただ独りで真実を抱えて来たベガの苦しみを思うと、自分はどんな顔をしたら良いのか分からなかった。




「レグルスに話しても?」

「ええ。ーーきっと、その時が来たのね」




 ベガは王の系譜を遠く眺めていた。

 その碧眼に何が映るのか、湊には分からない。










 20.ジャイアントキリング

 ⑷名も無き王









 蒼穹の下にありながら、中庭は人熱ひといきれで息苦しささえ感じられた。


 王宮の書庫へ行った湊は、まだ帰って来ていない。兄が何を目的としているのかは分からないが、口にしないのならばそれが答えだ。


 航は渡り廊下の欄干に腰掛け、狂気的な活気に包まれる王の軍勢を眺めていた。彼等は王権の廃止を良しとせず、自ら牢獄へ入ったレグルスを復帰させようと意気込んでいるのだ。


 彼等は己の意志も無く、水面を揺蕩たゆたう木片のように流されるだけの取るに足らない有象無象だ。しかし、多数決において常に少数派であった航は、大多数の弱者が如何に危うい存在であるのか知っていた。


 苦い思いで眺めていると、王宮へ繋がる渡り廊下の向こうから昴がやって来た。ウルを探しに行くと言っていたが、見付からなかったのだろう。


 使えない奴だな。

 航は内心で吐き捨てて、目を背けた。合流した昴は何も考えていないような顔で隣に腰掛けた。


 最低限の連絡くらいして欲しいものだ。

 航が叱責しようとすると、昴は穏やかに言った。




「ヒーローは元気?」




 目の前で物騒な会合が行われているというのに、昴は呑気に世間話を始める。神経が図太いんだか、空気が読めないんだか分からないが、航は苛立ちを隠せなかった。




「元気だよ」

「今まで何してたの?」

「……失踪してから一年間は昏睡状態で、意識を取り戻してからは中東の紛争地で医療援助をしてた。社会的には死んでたよ」

「相変わらずだね」




 昴が苦笑した。

 父が社会復帰する為にどんな裏取引が行われ、この先、どのような困難が待ち受けるのかは分からない。少なくとも、この世間知らずな昴が想像するような楽観的な未来は来ない。


 死んでいた方が安全だったのだと思う。

 父も、自分たちも。


 昴自身が一番分かっているはずだ。それでも、父は敢えて公表した。自分たちが秘密を抱えるよりも、真実を公表して世間を味方に付ける方がリスクが低かったのだろう。




「航は、その人がその人たる根拠って何だと思う?」




 唐突な問い掛けに、航は面食らった。

 自分が話の流れを聞き漏らしていたのだろうか。

 中庭の喧騒がやけに遠く、昴の横顔が不自然なまでに鮮明に見えた。




「何を持ってその人と判断すると思う? 航と湊は違う人だけど、どう違うのか説明出来る?」

「説明しなくても、見れば分かるだろ」

「分からないよ。少なくとも、双子という概念を知らない魔法界の人は、君たちの関係性や差異を理解出来なかっただろ?」




 確かに、そうだった。

 自分たちは二卵性の双生児で、顔の造作は全く違う。それでも、魔法界で会う人々は自分たちを度々混同していた。

 特段、違和感は無かった。双子とは得てしてそういうものだったからだ。




「五年ぶりに会ったヒーローが、それまで通りのヒーローだってどうして思えるの?」

「別人かも知れないって? 自分の親くらい会えば分かる」

「証明出来る?」

「なんで証明しなきゃいけねぇんだよ。俺が親父だって分かってるのに、誰に説明する必要があるんだ」




 面倒臭いし、心底、どうでも良い。

 独りで悶々もんもんと悩んでいる時の湊みたいだ。しかし、兄は行動力が常軌を逸しているので、独りで悩んでいる間は平和だ。


 そういえば、昴は記憶を取り戻したのだ。

 意識の連続性が人格ならば、今の昴は水槽の中の脳のような意識状態なのかも知れない。




「記憶を取り戻して、別人にでもなったのかよ」




 何処のSFだ。

 航は皮肉っぽく思った。

 昴の藍色の瞳に空が映っている。何故なのか、それを見ていると居心地が悪く、目を逸らしたくなる。


 航は。

 そう切り出した昴が、まるで見たことの無い他人に見える。




「航は、他の誰かになりたいと思ったことある?」

「無いね」




 超えたいと思う人ならいるけれど。

 航はその言葉を呑み込んだ。それを此処で口にするべきではないと、本能的に思ったのだ。


 いいなあ。

 幼子のように、昴が言った。何処か遠くを見詰める彼が何を思っているのかは分からない。


 航は心に慄然りつぜんとしたものを感じていた。

 幽霊なんて信じていないけれど、目の前の昴に、科学では説明出来ない漠然とした恐れを抱いた。闇の深淵を覗き込んだような不安がじわじわと染み出して、今にも逃げたくなる。ーーその時だった。




「航」




 兄の声がした。

 反射的に振り向いた先で、湊が間抜けな顔をしている。その傍らには王の軍勢の一人、ベガがいた。


 航が腰を浮かせた時、湊が言った。




「お前は、誰だ」




 スローモーションでも掛かっているみたいだった。

 その人がその人たる根拠とは何か。先程の会話を浚うような言葉に、顳顬こめかみがずきりと痛む。


 足元が光った。

 咄嗟に飛び退いた航の目に見えたのは、陽炎のように歪む昴の姿だった。


 湊の声が遠くに聞こえる。

 けれど、航の意識はろうが溶けるようにして消えてしまった。

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