⑸弱者の反撃
気が付くと、昴は丘の上に立っていた。
見上げた空には雲一つ無い。磨き込まれた鏡のような蒼穹の下、緩やかに隆起する草原が何処までも広がっている。暖かい風が吹き抜け、少し長くなった前髪を柔らかに揺らす。
時折、小鳥の
春の到来を告げるような喜びに満ちた鳴き声だ。
足元が浮いているような奇妙な感覚だった。人気の無い周囲をぐるりと見渡し、昴はこれが夢だと分かった。
網膜に焼き付いているのは、粉塵に塗れ焦土と化した魔法界だ。今の魔法界にこんな長閑な風景があるはず無い。革命戦争の爪痕は深く、巻き込まれた人々は苦痛と
王宮だって混乱の渦にある。絶対的な統率者を失い、王の軍勢は夜の嵐に羅針盤も無く放り込まれたようなものだ。
早く起きて、彼等の元へ戻らないといけない。
平和な景色に憧れるけれど、今は混沌とした魔法界へ戻らなければならない。そして、出来ることなら、争いの無い平和な世界を築いて行きたいと思う。
その時、草原の向こうから歩いて来る人影が見えた。
顔を上げた昴は、其処に立つ青年の姿を見て驚いた。
「レグルス」
魔法界の覇者、王の中の王。
透き通るような金髪と藍色の瞳。貴族の放蕩息子のような
このレグルスという男がどんな人間なのか、昴にはよく分からない。
権力者にありがちな欲深さは無く、人民のことを考え、身を粉にしながら魔法界を守って来た。頭が固くて融通が利かないのは、彼の性格が真面目過ぎるからだろう。圧倒的な魔力を持つ統治者を、人々は愛し、支えて来たはずだ。
昴の記憶が正しければ、レグルスは自ら地下牢へ入り、革命戦争の責任を一人で取ろうとしていた。それがどうしてこんなところに現れるというのだろう。
「此処は何処だ」
開口一番、レグルスは高圧的に言った。
昴は首を捻った。
「夢かな」
「誰の夢だ」
「僕の夢だと思ってたんだけど」
どうやら違うらしい。
この臨場感溢れる青年が想像の産物ではないのなら、夢ではない別世界ということになる。
何かの魔法効果だろうか。だが、この既視感は何だろう。自分はこれを知っている。
その時、昴の頭の中に一つの可能性が走り抜けた。
「イデア界だ」
「イデア界?」
レグルスは怪訝そうな顔をしていた。
思い出すのは、人間界にいた頃のヒーローとの会話だった。イデアとは理想、或いは共通認識。そのイデアが存在するイデア界とは、天上に存在するとされる理想世界なのだ。
此処には差別も貧困も紛争も無い。美しく平和な世界が何処までも広がっている。だが、昴は此処に居続けたいとは思わなかった。自分には帰るべき場所がある。待っている人がいる。
来訪者が現れたのは、その時だった。
「久しぶりだね」
微風のような声が耳を吹き抜けた。
昴とレグルスは同時に振り返った。滑らかな緑の絨毯の上に誰かが立っている。夜空に似た藍色の髪が風に逆立ち、満月のような瞳は凛と此方を見据えていた。
20.ジャイアントキリング
⑸弱者の反撃
「シリウス」
昴とレグルスの声は重なっていた。
シリウスは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、音も無く足を踏み出した。彼が一歩進む度に空からは陽が落ちて、手が届く程に距離を詰められると辺りは夜の闇に包まれていた。
昴は金縛りにでも遭ってしまったかのように身動き一つ出来なかった。レグルスは殆ど棒立ちで、瞬きもしない。まるで時間が止まってしまったかのようだ。
足元の草原は幻のように消えていた。
銀河の中へ投げ出されたかのように、天地の無い世界が広がっている。此方を見るシリウスの瞳は、己を燃やしながら墜落する彗星の残光に似ていた。
「元気そうで何よりだよ」
シリウスが軽薄に笑う。
レグルスは彼をじっと睨み、身構えた。
「お前の狙いは何だ。俺の命か?」
シリウスは微笑んだまま、答えなかった。
対峙する彼等を見ていると、酷い既視感を覚える。それはまるで、鏡を見ているかのようだ。
シリウスは、何者なんだろう。
昴は、猛禽類のようなその瞳を見詰めていた。
「良いものを見せてやるよ」
そう言ってシリウスは足元を掌で払った。
広大な銀河の中に青白い光が浮かび上がる。その眩しさに昴は目を細めた。
光の中に、見覚えのある栗色の頭が見えた。
「湊!」
呼び掛けても、湊は反応を示さなかった。これは過去の投影なのかも知れない。昴の最後の記憶では、湊は王宮の書庫へ向かっていたはずだ。
其処で違和感を覚えた。
記憶が激しく
逸る鼓動を感じながら、昴は拳を握った。
映像の中、湊は王宮の最深部にいた。
内部は漆黒の闇に染まり、湊とベガの姿だけが朧に浮かび上がっている。彼等は天地も分からぬ闇の中を進み、立ち止まった。其処には天辺の見えない巨大な壁が凛然と立ち塞がっていた。
湊は壁を眺め、傅いた。まるで、その壁に敬意を表するかのように深く項垂れている。
科学信奉者の湊が、ただの壁に
「王の系譜だ」
愕然と、レグルスが言った。
壁には夥しい魔法陣が刻まれている。数式が津波のように頭の中に流れ込んで来る。
王の系譜ーー。
其処には、魔法界の発展と和平に尽力して来た歴大の王の名が残されている。その末端にはレグルスと昴の名前があった。レグルスは王家の正統なる後継者だ。そして、昴は王の妾の子であるが、血筋と共に犠牲の魔法を受け継いだ。
王の系譜には、幾つか不自然に途切れている箇所があった。恐らく、継承権争いによって葬られた歴史の犠牲者なのだろう。輝かしい栄光の歴史の影には、醜悪な人の欲望が渦巻いている。
映像の中の湊は、王の系譜へ敬意を表したのだ。歴史の価値を、命の重みを知っている。唯物主義の湊が、質量の無い人の思いを尊重している。それだけで胸が熱くなる。
澄んだ瞳は
「レグルスの隣にいるのは誰?」
レグルスの隣ーー?
昴は眉を寄せた。レグルスは魔法界唯一無二の王だった。並び立つ者はいない。
だが、王の系譜を見ると、確かにレグルスの隣には空白があった。継承権争いの末に抹殺された誰かがいたのだろうか。
当ててみて、とベガは挑発的に笑った。
何故だろう。聞くのが怖い。
昴は緊張に汗を握っていた。
湊が冷静な声で、答えた。
「シリウス」
全身に稲妻のようなものが走った。
頭の中が痺れて、目の前の真実を受け入れられない。レグルスは絶句し、死人のような酷い顔色だった。
「シリウスは王家の血を引く正当な後継者。ーーレグルスの双子の弟だ」
湊の口から語られる真実の
体中に鳥肌が立って、目の前がぐらぐら揺れる。
レグルスとシリウスは双子だった?
それだけでも理解し難いが、映像の中の湊は確信を持っていた。
魔法界に生まれ落ちた双子は禁忌とされ、後に産まれた方は殺される。
いつか何処かで聞いた魔法界の忌まわしい因習だ。魔法界に双子はいない。湊と航も、魔法界ならば生きられなかった。
魔法界では禁忌とされる双子という存在。それが王家の正統なる後継者として産まれた。因習に従って後に産まれた方は捨てられた。追放された先は、ーー人間界だった。
魔法界と人間界の時間の流れは異なる。
シリウスが送られた先は、異端者審問が娯楽の一つとして行われた暗黒の時代だ。致死率の高い伝染病が蔓延し、頼るべきものも無く、たった一人きりで、謂れのない迫害を受けながら、シリウスは必死に生き延びた。
「お前が、俺の弟だと言うのか……?」
レグルスの声は
シリウスは答えない。居心地の悪い沈黙が幕のように降りて来る。
昴は余りのことに声が出なかった。
「なあ、昴」
シリウスは神の視点で映像を見下ろしていた。
「俺たちは何が違うと思う?」
何が?
生まれか、育ちか。
レグルスとシリウスは双子の兄弟だった。同じ魔力回路を持ち、王家の血筋を引き、同じ時代に生まれた。
一人は魔法界の王として育てられ、みんなに愛された。一人は魔法界を追放され、迫害された。彼等を分けたものは何だったのだろう。
カストルとポルックスを思い出す。
ジェミニの街のストリートチルドレン。非業の死を遂げた彼等は双子だった。そして、ヒーローの息子である湊と航も双子だ。
何が違う?
昴には答えられなかった。
映像の中、湊とベガは踵を返して歩き出している。
王宮の廊下だろうか。窓からは陽の光が燦々と降り注ぎ、敷き詰められた赤絨毯が艶やかに照らされている。
「ヒーローなら、なんて言ったかな。クソみたいな綺麗事並べて笑ったかな」
シリウスは目を伏せて、独白のように呟いた。
「死ぬことに意味があるのではなく、死んだからこそ意味があるんだよ。お前の独りよがりな復讐心が、先人の犠牲を無意味にしている」
その乾いた声に、胸が軋むように痛む。
シリウスはヒーローの冷静な正論を、一言一句正確に覚えていた。
和輝が間違っていたとは思わないし、それ以外の結論も無かった。だけど、それでは余りにも、シリウスが救われない。
湊とベガは、会話も無く歩き続けている。
通り過ぎる使用人達には目もくれず、彼等は急き立てられるような小走りだ。何処へ向かっているのだろう。
彼等は王宮の中庭へ到着した。義憤に沸く王の軍勢が集会を開き、渡り廊下から航が苦い顔で眺めている。
その隣にいるのは、昴だった。ーーしかし、それは鏡のように自分の姿を再現した偽物である。その何者かの周囲には粉末のような細かな光が漂っていた。
「航!」
思わず、昴は声を上げた。
当然、航には届かない。
お前の隣にいるのは、僕じゃない!
頼む、気付いてくれ!
映像の端から湊がやって来る。
湊は、昴の偽物を見て目を丸くしていた。彼には他人の嘘が分かる。まやかしの魔法を看破したのだろう。
偽物は、湊を見ると不敵に笑った。そして、次の瞬間、弾けるようにして辺りは光に包まれた。
中庭にいた王の軍勢がばたばたと倒れて行く。王宮内では洗濯物を抱えた女中が、植木の剪定をする男が、性質の悪い疫病にでも罹ったみたいに倒れ込んで行く。
何が起きているのかは分からない。だが、恐らくきっと、シリウスが関与しているのだろう。
愉悦に口角を釣り上げる反逆者は、映像を満足そうに眺めていた。
「貴様、何をした……!」
激怒を押し殺したような声で、レグルスが問い質す。シリウスは薄く笑っていた。
「これはね、意識共有の魔法なんだ。魔法界全土に術を施すのは骨が折れたぜ。お前等が革命戦争に夢中になっていてくれたお蔭で、漸く完成したんだ」
意識共有の魔法?
昴の知らない魔法だ。思えば、タウラスの街を襲撃した時も、シリウスは魔法界には無い魔法を使った。
シリウスは一人きりで生きて来た。これは彼が血の滲むような努力の末に生み出した独自の魔法なのかも知れない。
「全ての人間が共通の意識を持つんだ。幸福も不幸も、希望も絶望も、歓喜も悲哀も、全てを共有する。やがて人の思考は淘汰され、ヒエラルキーも消える。平等な世界だろ?」
昴は答えられなかった。
シリウスの掲げる理想論に対して、明確な反証が無かったのだ。争いを失くすという意味では、彼の行いは理に適っている。他者の痛みをみんなで分かち合うというのだ。
「なあ、レグルス。お前はどう思う?」
シリウスはレグルスを見た。その面は喜色に染まり、今にも歌い出しそうな上機嫌だった。
反して、レグルスは苦渋を煮詰めたような顔をしていた。
「否定はしない。そうなれば、人が人を傷付ける戦乱は無くなるだろう。……だが」
レグルスは言った。
「争いは規模や形を変えて、続いて行くだろう。意識を共有したって、同じ人になれる訳ではない。恨みや妬みは水面下で疫病のように広がり、噴出した時には皆を巻き込む。ーー人は、お前が思う程、賢くない」
シリウス。
呆然と立ち竦む昴の横で、レグルスは静かにその名を呼んだ。
「俺は戦争から下りる。血を流さずに世界を変える。その為に出来ることをやる」
昴は、酷い既視感を覚えた。
ケチの付けようの無い正論だ。レグルスは正しい。ーーでは、シリウスが間違っていたのか?
シリウスは額を押さえて空を仰いだ。喉の奥から零れ出す乾いた笑い声は、泣きたくなる程、虚しかった。
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