⑶ヒーローの凱旋
二人分の寝息が聞こえる。雑多な医療テントの粗野なベッドに寝かされた双子は、泥のように眠っていた。ずっと気を張っていたのだろう。
和輝は二人を過労と診断し、特に処置も施さなかった。彼等よりも重傷の人間は他にいる。此処には医療物資が絶望的に不足しているのだ。
相変わらず、不思議な男だ。
物々しく不衛生な紛争の前線にいながら、彼は平素と変わりなく微笑んでいる。狂ったように罵声を浴びせていた兵士は理性を取り戻し、深く眠る双子を優しく見守っていた。
彼は光に似ている。
葵はそう思った。其処に群がる自分たちは火取虫の類なのだろう。
これまでの経緯を話そうとしたが、先回りするようにして和輝に断られた。
「話は直接聞くよ。二人の言葉で」
彼らしい返答だ。
葵は叱責するのも馬鹿らしくなって、溜息を吐いた。
「お前、今まで何してたんだよ」
「やってることは何も変わってないよ。第三世界を中心に医療援助を行ってる」
「死んだことになってるぞ」
「そうだよ。俺は死んだ人間なんだ」
五年前のあの日ーー。
和輝はそう言って、重く口を開いた。
「俺は仲間と医療援助をしていた。次々と運び込まれる患者をトリアージして、狂ったように叫ぶ兵士を宥めて、目が回るような忙しさだった。ーーその時、空が光ったんだ」
和輝の瞳には、昏い影が宿っていた。それが感情を超えた一種の狂気であることを、葵は知っていた。
「空爆されたと気付いた時には、辺り一面は火の海だった」
あの空爆は事実だった。特定通常兵器使用禁止制限条約によって禁止された焼夷弾が使用されたということは、それだけ紛争は苛烈を極め、正しく辺りは火の海だったのだろう。
かの東京大空襲では一夜にして十万人が死亡し、翌日の大阪大空襲では、大阪市の中心部約二十一万平方キロメートルが焼け野原になった。
第二次世界大戦で母国が空爆されたのは、クラスター構造のM69焼夷弾だった。三十八本の焼夷弾が装填され、一本で周囲三十メートルに引火物を撒き散らす残虐な兵器であったという。
「呼吸しようとすると喉が焼けて、視界は霞んで見えなかった。それでも、何処かに生存者がいるんじゃないか、助けを求めている人がいるんじゃないかって、叫び続けた」
想像も出来ない程に凄惨な状況だった。そんな中でよくもまあ他人の心配なんて出来たものだ。
和輝はやや躊躇って、まるで顔色を伺うみたいに続けた。
「炎の中で、或る青年に会った。ーー覚えてるか、シリウスを」
此処で、その名が出るのか。
葵は因縁の深さに愕然とした。和輝は自分の義手を見下ろしていた。
「シリウスは何も言わなかった。掌を向けられた時、見えない刃が幾つも襲い掛かって来た。避け切れなくて、左手を失くした」
和輝は、義手となった己の左手を握り締めていた。それは、マネキンみたいな質感だった。
「その後の記憶は無いけど、近隣の住民が俺を助けてくれたらしい。そのまま一年くらい意識が戻らなくて、目が覚めた時には社会的に死んだことになってたんだ」
一年。
丁度、湊と航がいなくなっていた頃だ。それが幸運だったのか不幸だったのか、今では分からない。何処の少年漫画だと嗤ってやりたかったのに、葵は上手く笑うことが出来なかった。
「あの時、俺たちは死ぬ必要があった。誰かが悲劇的に死ななければ、世界は理性を取り戻せなかった。そして、フィクサーの出した結論は、俺たちの社会的な死だった」
フィクサー。
世界を裏側から操る影の重鎮。和輝の父はその一人だった。
和輝はそっと目を伏せて、眠る息子の頭を撫でた。
「俺には、家族より大切なものは無いから」
……ああ、そうだよな。
お前なら、そう言うよな。
例え、側にいられなくても、社会に認められなくても、自己評価だけで生きていける人間だった。そして、それこそが彼に出来る唯一だった。
和輝は息子を見遣り、苦しそうに言った。
「……湊の肩と、航の脇腹に傷跡があった。大きさから考えると出欠多量でショック死してもおかしくない傷だ」
「ああ……」
「こいつ等を頼むって、言ったじゃないか」
責めるように、和輝が言った。
そうだ。頼まれたのだ。葵の監督不行き届きだった。
葵は弁解しなかった。和輝は最善を尽くし、最期の一瞬まで諦めず、家族を何より大切にしていた。そんなことは知っていたはずなのに。
和輝は
「そんなの、俺が言えることじゃないか」
「いや……」
「でも、俺も側にいたかったよ。こいつ等の成長をずっと見守って、一緒に生きて笑って、支えてやりたかったよ」
「生きてるだろ。これから、やれば良い」
「俺は死んだ人間だ。そんな権利は無い」
弱り切ったヒーローを見て、葵は頭の芯が震えるような怒りを覚えた。振り上げそうになる腕を押さえ、恫喝するように言った。
「それは権利じゃねぇだろ。父親としての義務だ」
和輝が顔を上げた。
自分たちは年を取った。もう子供ではないし、一時の感情で流されてはならない。頭も固くなり、臆病になった。
和輝の存在が許されない世界なんて、葵には何の意味も無い。社会が彼を認めないというのなら、社会そのものを変えてやる。葵はそうやって彼に救われたのだ。
「いいから、黙って帰って来い!」
和輝は、白い歯を見せて笑った。あの頃と変わらない無邪気で幼い少年のような笑顔だった。
和輝は荒れ果てた医療テントを見遣り、チームメイトらしき青年に声を掛けた。二人は固く握手を交わした。
傍目に分かる程、彼等の間には強い信頼関係が築かれている。
「いってらっしゃい」
片言の母国の言葉で、青年は手を振った。
さよならに代わる言葉だ。きっと、戦場へ送り出す兵士に、和輝が繰り返し言って来た言葉なのだろう。
「行って来ます」
和輝は色褪せた鞄を引き寄せると、肩に担いだ。義手がガチャガチャと音を立てている。あの日、失くした左手だった。
テントを出ると、大勢の兵士が集まって来た。
ヒーロー、助けてくれよ。
そんな声が聞こえる。和輝は苦笑してテントを指し示した。内部では交代の医師が待機していた。
「ヒーローか……」
「うん。そう呼んでくれてる」
ヒーローという言葉も、これだけ聞かされるとうんざりして来る。
「別に救世主になりたい訳じゃないんだよ。俺はヒーローになりたかった。助けを求める誰かを救う正義の味方に」
「……なっただろ」
「なってないよ。息子のヒーローになれないなら、何の意味も無い」
変わらないな。彼が昔のまま変わりないことに安心する。彼が理想を実現出来ずに夢を諦めるようなことになるのなら、ーー葵は、和輝を殺すつもりだった。
彼が諦めると言うのなら、俺が殺す。
いつかの約束を思い出しながら、葵は帰路を急いだ。
19.神様はサイコロを振らない
⑶ヒーローの
ヒーローの凱旋は内密に行われた。
国家間に走った緊張は、一般人の葵には計り知れない。核戦争が目の前に迫り、惑星そのものが危機に晒されていただなんて、人々は知る由も無い。
世界を救った英雄は観光客の振りをしていたが、醸し出される雰囲気は明らかに一般人のものとは異なる。
現地でもヒーローと呼ばれていたらしいので、本人に隠す意思があるのかよく分からない。
帰路を辿る機内ではすっかり双子も目を覚ましていた。流石は双子と拍手を送りたい程の連携で、父を逃すまいと挟み込んでいる。
五年ぶりの親子の再会だ。
他人が水を差してはいけない。
葵は彼等の全席で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
空は既に暗くなっていた。
湊は声を潜めて、これまでに起きたことを話していた。無機質な口調と理路整然とした言葉選びが相まって、アナウンサーのようだった。
和輝は終始口を挟まず、聞き役に徹している。湊と航が慕う理由がよく分かる。人は話すことにカタルシスを感じるという。湊と航は、ずっと誰かに話を聞いて欲しかったのだろう。
二人が話し終えると、和輝は穏やかに微笑んで、その頭を撫でた。傍目には年齢を感じさせない程に若作りなのに、柔らかな光を宿した彼の瞳は確かに父親のそれだった。
「湊、頑張ったな。航、偉かったな」
敵わないな、と苦く思う。
当たり前のことだ。和輝は彼等の父親で、葵にその代わりは出来ない。ただそれだけの言葉がどれだけ彼等を救い、支えて来たのだろう。
航は和輝の義手を握り締めて、絞り出すように問い掛けた。
「俺たち、どうしたら良かったんだ……?」
納得出来ないことには徹底抗戦する。彼等のモットーが間違っていたとは葵は思わない。そして、其処に正解や不正解、善悪も無い。
葵は耳を澄まし、和輝の返答を待った。彼は不思議そうに小首を傾げていた。
「立ち向かうとか抗うとか、戦うことが前提なの?」
一瞬、二人が息を詰まらせるようにして黙った。
和輝の声は穏やかだった。
「本来、戦いは避けるべきだろ。意味が無いんだから」
そうだ。
彼等を責めるつもりは無いが、前提条件を誤っている。争いを失くす為に争っている状況は不毛なのだ。
争いを避けた昴に代わって、汚れ役を引き受けた彼等を糾弾する気は無い。むしろ、責めるべきは子供である彼等を守り切れなかった周囲なのだ。
「争う以外の選択肢を探って行く必要がある。どうやって勝つかではなくて、どうやって争いを避けるかだよ。だって、勝ち負けに囚われる生き方は、しんどいだろ」
シート越しに見える和輝は、叱り付けるのでもなく、諭すのでもなく、真摯に二人と向き合っていた。
それは、他の誰でもない、彼等が大切だからだ。
「戦争には正義も悪も無いよ。みんな正しいし、平等に悪い」
湊は頭痛を堪えるみたいに体を丸めた。
掠れた声が聞こえる。
「俺、冷静じゃなかった……。冷静なつもりで、全然、見えてなかった……」
「戦争は人を狂わせる。そういうものなんだ。だから、理性的な第三者が必要なんだよ」
「……誰も嘘を吐いていなかったのに、真実は見抜けなかった」
嘆くように湊が零した。
本来は理性的な聡い子供たちだ。
それが他人の戦争に巻き込まれ、
父親を失った彼等の精神状態がどんなに憔悴していたのか、知っていたはずだった。
湊も航も黙っていた。
機内の暖色の灯りが夕日のように優しく照らしている。エンジンの重低音が耳障りに聞こえる程の静寂だった。
「人間に優劣は無いし、勝敗も無いよ。俺も奈々も、お前等をそうやって育てて来たはずだ」
「うん……」
「生きてるから正しいとか、死んだから間違ってるとかじゃないだろ。人間なんて最期はみんな死ぬんだから」
最低の暴論で、不謹慎な極論だ。
葵が口を挟もうとすると、和輝は不敵に笑った。
「固定観念を捨てるのは難しいぜ。でもね、お前等の歩く空が晴れていると、俺は嬉しい」
懐かしい言葉が聞こえて来て、葵の脳裏には在りし日の彼の姿が鮮明に蘇った。
和輝に当時の記憶は無い。それでも、その魂に確かに刻み込まれた熱が、強く希望を訴える。
「お前等の世界が少しでも優しいものでありますように。俺が願うのはそれだけさ。お前等が産まれた時から、それは変わってないよ」
誰も死なない最小の不幸ーーそれは、自分自身もきちんと勘定に入れていたのだ。
変わっていない。何も変わってなんかいなかった。彼はずっとヒーローだった。
和輝は紙コップを手に取って、ふうふうと息を吹き掛ける。白い湯気の向こうで長い睫毛が伏せられていた。
「お前等がどうしようもなく苦しくって、辛くって、逃げ出したい時には、俺がやる。どんな時もお前等を信じてるから、責任は俺が取る。父親だから」
葵はどうだ、これが俺のヒーローなんだと、世界中に教えてやりたいとさえ思った。
当たり前のことが当たり前に出来て、其処に見返りを求めない。言葉の厚みが違う。ーー勿論、これは葵の主観であり、遺された家族にとっては無責任な行為であることも忘れてはいない。
和輝は何も告げずに死んだ。事実のみを後から聞かされた家族の胸中は想像を絶するものがあっただろう。その結果が今なのだから、諸悪の根源は和輝である。
二人が再び寝静まったことを確認し、葵は座席を回転させた。凪いだ湖畔のような瞳は穏やかに微睡んでいたが、このまま寝かせてやるつもりは無かった。
「湊も航も、大変だったんだぞ」
「そうだね。でも、悪いことばかりじゃないさ」
「二人共死に掛けて、ーー人を殺したんだぞ」
和輝は、感情の機微を伺わせない無表情だった。
「俺は息子を戦場へ送り出す時、人を殺すなとは教えない。何をしても生き残れって言うよ」
「極論だな。お前は俺に、人を殺すなって言ってただろ」
「魔法界は戦乱だったんだろ。お前が兵士だったなら、俺だって生き残れって言ったさ」
「何だそりゃ。自分は他人の為に死んだ癖に」
「他人じゃないよ。全部、息子の為だ。ーーそれが俺に遺せる唯一最大の愛だった」
全ては、愛する者の為に。
和輝の遺書を思い出す。嘘偽りは一つも無かった。それが歯痒く、虚しかった。
ジェット機は日付変更線を越えて、ニューヨークに到着した。積雪が朝日を反射し、辺りは仄かに明るかった。
到着と同時に葵は携帯電話を手に取った。今も自宅で待機している彼等の家族、蜂谷奈々に無事を告げる役目があったからだ。
FBIの専用車は渋滞に巻き込まれることも無く、予定調和的に自宅へと辿り着いた。和輝がいると、不可解に感じる程に物事がトントン拍子に進む。
旅立ってから三日と経っていないにも関わらず、何故だか無性に懐かしく感じた。蜂谷家の玄関には五年前と同じようにサンタクロースとトナカイのオーナメントが鎮座していた。僅かに剥げたペンキばかりが年月の経過を知らせている。
和輝は玄関の扉の前に立つと、静かに深呼吸をした。ブザーが鳴る。無音の世界が破かれ、家屋からスリッパの音が聞こえた。
感動の再会を予期した。驚きに目を丸め、涙を流す奈々を思い浮かべーー、それは呆気無く打ち砕かれた。
葵が最初に知覚したのは、小気味良く乾いた音だった。扉の前にいた和輝があらぬ方向に首を向けて停止している。頬がじわじわと赤くなる。見事な紅葉だ。
扉が開く。其処に立っていたのは、般若の形相をした奈々だった。猫のような目は釣り上がり、頬は熟れたトマトのように紅潮している。
荒い呼吸を整えながら、奈々は地を這うような低い声で言った。
「おかえり」
「……ただいま」
それは奇跡に浮かれた自分たちに冷や水を浴びせるような恐ろしい声だった。平手打ちを食らった和輝は目を真ん丸にして、申し訳無さそうに眉を下げていた。とてもヒーローとは思えない情けない姿だ。
「あんた、訳の分からないスパイスをいっぱい買い込んでたでしょ。アジョワンとかカルダモンとかスターアニスとか」
「カレーに必要なんだよ」
「お蔭で、棚の中が一杯なのよ」
和輝は叱られた子供のように項垂れていた。
世界を救ったヒーローも、自分の妻には敵わないか。
彼等を見ていると可笑しくて、眩しくて、胸が一杯になる。
「あんたがいないと、私が困るのよ」
「うん」
「慰謝料は請求するから」
「うん。一生を懸けて払うよ」
和輝は笑った。
その腕を広げた瞬間、奈々が飛び込んだ。抱き止める和輝の肩が震えていた。
葵は何と無く見てはいけないものを見たような気がして、双子の背中を押して家の中へ促した。
遺品整理の行われた家屋の中は、整然と片付いていた。彼等は和輝の死を受け入れて、進もうとしていた。ーーけれど、靴箱に残された革靴や、壁に貼られた家族の肖像が、彼の生還を心の何処かで信じ、待ち望んでいたことを知る。
「ーー俺さぁ」
背中を向けたまま、航が言った。
「ずっと、目指していたものがあったんだ」
嫌な言葉だと、思った。
和輝も同じことを言っていた。彼は小さな頃から同じ夢を持ち続けて、社会的に死なざるを得なかった。同じ道を辿るのではないかと、ずっと恐ろしかった。
振り向いた航は笑っていた。悪童のような笑みだった。
「親父を超えたいと思ってたんだ。勝ち逃げされなくて、良かったぜ」
葵は驚いた。
和輝とは、違う。湊とも違う。向上心を持ち続け、抗うことを止めず、貪欲に勝利を目指す。その姿勢は恐らくきっと、母に似たのだろう。
湊は肩を落として微笑んでいた。
仕方が無いな、と許すみたいに。その姿は父にそっくりだった。
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