⑵コンティニュー
星も見えない鈍色の空から、重く湿った大粒の雪が降っている。
黒く染まるアスファルトをサーチライトが眩く照らし、除雪された滑走路は雑多な魚河岸のように見えた。降雪の中、長い旅路を越えて来た旅客機が滑り込む。サーチライトに照らされた部分だけが妙に鮮明に見えて、まるで演劇でも観ているかのような不思議な心地だった。
巨大都市ニューヨークの空の玄関口であるジョン・F・ケネディ国際空港。葵くんの
FBIの専用機は座り心地の良いソファが設置され、飴色の光沢のあるテーブルには二人分のオレンジジュースが並べられている。どちらもまだ口は付けられておらず、グラスの表面は結露した雫が幾つも浮かんで、まるでモザイク硝子のようだった。
父が生きているかも知れない。
喉から手が出る程に欲しかった答えがもうすぐ手に入る。それなのに、航は今の状況が受け入れ難く、異次元の向こうへ思いを馳せていた。
昴はどうしただろうか。ウルは無事なのか。
王家との対談、革命軍との衝突。全てのことが宙ぶらりんで、落ち着かない。他人のことなんてどうでも良かったはずなのに、今は少しでも気を逸らしていたかった。
父は死んだ。ヒーローだから死んだのではなく、人間だから死んだ。それ以上の答えは無いと思っていたし、この希望が打ち砕かれた時、まともな精神状態でいられる自信が無かった。
湊は可愛げも無く落ち着き払って、本を読んでいた。NLP理論の入門書だった。兄が何を目指しているのか、航にはよく分からない。
航はグラスへ手を伸ばした。玩具みたいな色のストローへ口を付ける。氷で薄まったオレンジジュースは不味かった。
航は窓の外、沢山の光に溢れた空港を見ていた。
「……俺さぁ」
湊は、寝惚け眼を擦りながら顔を向けた。
治癒魔法による後遺症により、体力が著しく減少している。本来ならば入院していて然るべき状態だが、医者に無理を言って此処まで来たのだ。その頬が痩け、眼窩が落ち窪んだかのような隈があることも仕方が無いし、自分の話を上の空で聞いていたとしても構わない。
「親父が死んだこと、納得してなかった」
「うん」
「でも、心の底では、理解してた」
人はいつか死ぬ。父もそうだった。
今更、それが嘘だっただなんて言われても納得出来ないし、受け入れられない。だって、五年も前の出来事なのだ。
多くの人を悲しませ、見送られて墓に収まった。これで父が生きていたら、航と湊の悲しみも意味が無かったことになる。
湊は本を閉じた。
「みんなが納得出来る答えなんて、無いよ」
遠くを見ながら、湊は達観した物言いをした。
自分たちの手は血塗れだ。レオの村の集団自決、カストルやポルックスの死、航が殺したアルデバラン。貴族の非道ゲーム、人身売買オークション。
何処で間違ったのだろう。何が悪かったのだろう。
唐突に湊が言った。
「世界五分前仮説って知ってる?」
航は首を振った。
「バーランド・ラッセルの提唱した懐疑主義的な思考実験なんだ。世界は本当は五分前に始まっていて、それ以前の記憶は植え付けられた知識でしかないのかも知れない。過去が無かったとしても、論理的不都合性は全く生じない」
頭がおかしくなりそうだ。
哲学なんて、航の性に合わない学問だ。
湊が更に何かを言おうとした時、隣から手が伸びて来た。葵くんが湊の頭を小突いた。
葵くんは苦い顔をしていた。
「考え過ぎると、どつぼに嵌るぞ」
「どういうこと?」
「頭で考え過ぎるから、感情を置き去りにする。和輝も昔、そうだった」
葵くんは溜息を吐いた。
「お前等は知識は豊富だが、経験が乏しいんだよ。頭の中で何でも考えようとすると、可能性を見落とすぞ。何でも相談しろ。些細なことでも話せるような人間関係を作れ」
「そうだね……」
「一番身近にいるのはお互いだろ。お前等は双子でも別の人間なんだから、結論を急がずに一緒に悩め」
耳が痛い。
ケチを付ける余地も無い程の正論だった。自分たちの中では当然の帰結が、違うことを思い知る。
「出来ないことがあっても当然だろ。子供なんだから。これから出来るようになれば良いだろ」
「でも」
反射的に湊が言い返そうとした。葵くんは凪いだ瞳で二人の頭を撫でた。
「お前等を子供のままにしてやれなくて、悪かったな」
葵くんが謝ることなんて一つも無い。そう思うのに、目を伏せた彼の姿が懺悔する罪人のようで胸が苦しくなる。
自分たちは自分たちの思うように行動して、その責任は自分で背負うつもりだった。けれど、自分たちでは取れない責任がある。
心配を掛けた。迷惑を掛けた。
生きているのか死んでいるのかも分からないまま消息を絶った自分たちの無事を祈り、縋る相手も無く、ただただ待ち続けるしか無かった葵くんの心まで考えなかった。
母は気丈に振る舞っていたけれど、見えないところでどのくらい苦しみ辛い思いをしたのかなんて計り知れない。
何故だか両目が熱くて、涙が溢れそうだった。
隣を見ると湊は俯いていた。
三人の後悔を乗せて、ジェット機は中東へ向かって飛んで行く。
19.神様はサイコロを振らない
⑵コンティニュー
葵くんと話をした。
自分たちの身の周りで起きた非日常を振り返り、何かに急き立てられるように口を開いていた。
航は眠っていた。その寝息を聞きながら、湊は事実も考察も弱音も泣き言も全部話した。
葵くんは黙って聞いていた。
無表情な横顔からは何の感情も窺い知ることは出来ない。添乗員の運んで来た紙コップを受け取ると、葵くんは据え付けられたテーブルにそっと置いた。
柔らかな湯気の向こうで、葵くんの姿は溶けてしまいそうだった。透明人間と呼ばれる存在感の希薄さは健在で、ふとした拍子にその姿を見失ってしまいそうになる。
親父は見失ったことが無かったらしい。それは多分、表面的な情報に踊らされず、葵くんの本質を常に見ていたからなのだろう。
葵くんは紙コップを両手で包み込みながら、深々と溜息を吐いた。
「……和輝に言ったら、俺がぶん殴られそうだな」
なんで。
湊は愚直に問い掛けていた。葵くんに非は無い。悪かったのは自分たちで、延いては勝手に消えた親父だ。
そう思うのに、葵くんは言った。
「お前等のこと、頼まれてたんだよ」
弱り切った顔で、葵くんが笑った。
「仕方無ぇ。一緒に謝ろうぜ。和輝を殴るのは、その後だ」
葵くんが頭を撫でた。子供扱いされていると分かるのに、心地良い。不思議な感覚だった。
「俺はどうしたら良かったんだろう。何が正解だったの」
「正解や不正解の話じゃないだろ。湊はどうしたかったんだよ」
俺は何をしたかったのかな。
改めて考えると分からない。自分たちは徹底抗戦を誓って、それを目的にしていた。それが既に違っていたことを思い知る。だって、それは目的ではなくて、手段なのだ。
頭が痛かった。後頭部が締め付けられているみたいだ。
葵くんが鋭く言った。
「ほら、それだよ。一人の頭で考え過ぎる。お前、全部自分で解決しようとしてる。それを止めないと、同じことの繰り返しだぞ」
痛いのは頭か耳か、それとも胸か。
今の湊には分からなかった。ずっとそうだ。
湊は黙っていた。
言い返せないし、言い返す必要も無かった。葵くんは味方であり、自分よりも年上で、尊敬し、信頼出来る大人だった。
機内は静寂に包まれた。
唸るようなエンジンの音と他人行儀な無機質の機内メッセージばかりが遠く響いている。
窓の外には透き通るような青空が広がっていた。けれど、湊の目には何も映らなかった。
ニューヨークから半日、第三世界の紛争地は硝煙と血液の
中東の内陸に二つの国があった。双方は海洋貿易の拠点となる一つの離島の利権を奪い合っていた。
度重なる交渉は決裂し、関係は悪化し続けた。
そして、二十年前、戦争の火蓋は切って落とされる。そのきっかけは離島で起きた
緊張状態に陥っていた二つの国は、坂道を転がり落ちるように戦争へ突入した。だが、その根底にあるのは宗教的な人種差別であった。
周辺国の代理戦争の一面を伴いながら長期化し、今では互いに武器も食糧も医療物資も尽きている。元々の目的すら忘れ、局地的な勝利と致命的な敗北を繰り返し、悪戯に命を消耗するだけの虚しい戦いとなっていた。
現地の案内人に連れられて行ったのは、前線に近い駐屯地であった。何処かで銃撃戦の音が聞こえる。
灼熱の太陽が降り注ぎ、まるで鉄板の上を歩いているようだった。流れ出る汗は尋常でない。足元から陽炎が立ち登り、視界をぐらぐらと揺らしていた。
粗雑なテントは雨風に晒され、化石のように風化している。テントから漂う消毒液の臭いが鼻を突き、この世の終わりを思わせる絶叫が木霊していた。片脚を失くした少年兵が胡乱な目で彷徨し、重傷患者は医療とも呼べない応急処置だけで放置されていた。そして、山積みにされた死体は腐乱し、蝿が群がる。
蝿の羽音が悲鳴と混ざり合い、平衡感覚を狂わせる。人々は亡霊のような顔付きで銃器を握り、膝を抱えて蹲っていた。
其処には、この世の地獄があった。
湊も航も、凍り付いたように動けなかった。
葵くんは現地の人と何かを話した後、強張った顔で笑った。酷くぎこちない笑顔は、戦場の空に溶けて消えてしまった。
敗戦を目前にした人々が戦意喪失するのか、ーー自爆攻撃へ打って出るのか、綱渡りの状況である。湊たちも巻き込まれ兼ねない。足早に去って行った案内人を見送り、葵くんは言った。
「真実と向き合う覚悟は出来ているか?」
湊も航も頷いた。此処まで来て、尻尾を巻いて逃げることなんて出来ない。待ち受けるものがどんな悲劇でも、望んだ答えではなくても、今更後には引けない。
葵くんは硬い表情で、一つのテントを指差した。
血と消毒液の臭いがする。理解不能の罵声が嵐のように飛び交い、悲鳴が耳を劈く。葵くんの後に続いて入口を潜ると、其処は昼間だというのに真夜中のように暗かった。
中央にベッドがある。
診察台と呼ぶには余りに不衛生で粗末だった。寝かされた患者は痙攣のように絶え間無く震え、周囲を固める人々は昏い眼差しで関心すら無いようだった。
その中、誰かが懸命に声を上げる。
異なる言語だ。理解出来ない。ーーけれど、湊も航も、それが誰の声なのか、知っている。
浅黒く日に焼け、髪は汗に塗れている。周囲の少年兵とそう変わらない小柄な体格は、暗闇の中で一番星のように輝いていた。
褪せた衣服はぼろぼろで、医療器具も殆ど無い。
無関心の雨に晒されながら、命と向き合うその背中を見間違えるはずも無かった。
「ーー親父!!」
血を吐くような叫びだった。
彼は痩けた横顔で振り向くと、透き通るような濃褐色の瞳を丸めた。それが夢でも幻でも、都合の良い妄想でも構わなかった。
ーー父は、凍り付いた花が綻ぶようにして微笑んだ。
「待ってろ」
五年ぶりに聞く父の声は、記憶の中のものと何も変わらなかった。湊は呆然と立ち尽くした。大粒の涙が頬を伝っていた。
父はあっという間に処置を終えた。
腹に風穴を開けた少年兵の容態は手品を見ているかのように安定していた。それは、湊や航が努力しても辿り着けないだろう精錬された見事な処置であった。
血に塗れた手を拭いながら、父が闇の向こうからやって来る。夜明けを見ているようだ。絶望の腹を食い破って、希望が顔を出す。
希望がある。希望がある。希望がある。
父が何かを言う間も無く、二人は弾かれたようにして腕の中へ飛び込んでいた。
「親父、親父、親父!」
湊と航は狂ったように呼び続けていた。
父は二人の頭をそっと撫でてくれた。その時になって気付く。左手は義手だった。ーーでも、生きてる。
五体満足ではないのかも知れない。それでも、今此処で生きている。二人にとっては、これ以上無い程のハッピーエンドだった。
涙が止まらなかった。
話したいことが沢山ある。聞いて欲しいことも沢山ある。二度と離すものかと抱き締める二人を宥めながら、父は慈しむように言った。
「大きくなったね」
相変わらず呑気な父だ。
湊は堪らずその胸を叩いた。父は苦笑して、葵くんへ目を向けた。
「元気そうだね」
「うるせぇ」
「活躍は聞いているよ」
「うるせぇ!!」
葵くんは拳を振り上げて、父の肩口を殴った。その拳は微かに震えていた。
痛いよ、と父が苦笑する。葵くんは俯いたまま、絞り出すような声で言った。
「なんで生きてんだよ……!」
「言っただろ。お前を置いて死ぬ気は無いって」
父と葵くんの間にあった約束を初めて知る。
葵くんは鼻を啜って、掠れた声で問い掛けた。
「何処までが嘘で、真実なんだ」
「嘘は吐いていないよ。一つもね」
「ーーじゃあ、なんでずっと連絡一つ寄越さなかったんだ!」
父は無表情だった。逡巡と沈黙。父は観念するみたいに大きく息を吐き出した。
「全部話すよ。葵が納得出来るように、真実を」
五年前のあの日、何があったのか?
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