⑹希望的観測
遠目に見えたのは、水色の光だった。
炎に包まれる司法当局と、逃げ惑う人々。
急転直下の混迷状態の中、彼等の周囲だけが切り取られたように時間が止まっていた。
湊は弓を構えていた。
シリウスはいない。頭上では、革命軍と王の軍勢によるこの世のものとは思えない程の魔法の攻防が繰り広げられている。
王の軍勢が押されている。革命軍の先頭に立っているのはシリウスだった。彼は昴を奪い、王の軍勢を殲滅しようとしている。増援が無ければ王の軍勢は火力で負ける。
「……ふざけんなよ、昴」
湊はポケットから無限の紙を取り出した。
予め描いた魔法陣が不気味に光っていた。脳波を操る魔法があるのなら、それを壊す魔法だってある。
反魔法陣。
湊は矢の先に魔法陣を
湊の動きに勘付いたシリウスが、憎しみの篭った怒声を上げる。空気の流れを背中に感じながら、湊は腹の底から込み上げる怒りを抑え切れなかった。
こっちの苦労も知らないで、勝手に攫われたり襲われたりして、挙句に八つ当たりの説教しやがって。
俺たちが何に我慢ならないのか、何を守りたいのか、何も知らない癖に好き勝手言いやがって。
「これはお前の戦争だろ!!」
弦を放った瞬間、空気がびりびりと震えた。
辺りに金色の光が差し込む。それが何かを理解する間も無い一瞬、湊の放った矢はリゲルの肩を貫いていた。
予想外の襲撃にリゲルが悲鳴を上げる。
酷い既視感だ。泣き出したくなる程に。
その瞬間、二人の足元にあった魔法陣はシャボン玉が弾けるようにして消え失せた。
動転したリゲルが顔を上げ、湊を見付けると掌を向けた。
怖くは無かった。
それが発動しないことが、分かっていたからだ。
戸惑ったのはリゲルだ。魔法陣が展開されない。リゲルの中にある魔力回路そのものを破壊したのだ。
彼に魔法は使えない。もう二度と。
動転するリゲルの後ろ、俯いていた昴の肩が震えた。
緩慢に顔が上げられる。宝石のような美しい藍色の瞳ーー湊は其処に、満天の星を見たような気がした。
「湊」
昴が掠れた声で呼んだ。湊は舌打ちをした。
昴は辺りを見渡して酷く驚いたようだった。本人にしてみたら、ちょっと居眠りした間に辺りが火の海になっていたのだ。気持ちは分からなくも無いが、湊は我慢ならなかった。
魔法界の未来も、革命の先もどうでもいい。
湊が我慢ならないのは、自分の正義が貫けないことだ。己の力不足ならば努力するしかない。だが、何もしなかった他人に正論を振り翳されたり、邪魔をされたりすることが許せない。
俺の尽くした最善を、他人の横槍で阻害されるだなんて、あってはならないことだ。
湊の背後にはギロチンのような鋭利な風の刃が迫っていた。躱せない。身動きが取れない。このままでは湊も昴も身体ごと真っ二つだ。
死ぬかも知れない。
終わるかも知れない。ーーそれでも!!
挫折したことがある。
あんな思いは二度と御免だ。
自分なりに折れて、折れて、折れて。
それでも何も守れないだなんて、信じない。
犠牲無しに対価は得られない。
何を犠牲にする。何を支払う。俺に支払える精一杯。
脳裏に過ぎったのは、湊が腕を吹き飛ばしたあの子供の姿だった。
指先から力が抜けて、感覚が無かった。
全てを悟った湊は、身体の向きを変えた。唸り声を上げて迫る刃に対価を支払う。
ぶつん。
肉と骨の千切れる嫌な音が響いた。
見慣れたものが路上に転がり落ち、鮮血が噴水のように溢れ出す。湊は地面に叩き付けられた。
肩口が燃えるように熱い。
貧血による銀色の砂嵐が視界を覆う。その奥、見慣れた自分の右腕が転がっていた。
18.よだかの星
⑹希望的観測
昴は、血塗れの湊を抱き上げた。
ぐったりと身体を弛緩させ、瞼は固く閉ざされている。右肩からは止め処無く血液が零れ落ち、相貌は死人のように白い。
「湊、湊!」
路上に転がった湊の右腕を見遣る。
既に壊死し始め、不気味に白かった。
その時、昴の横に風が舞い込んだ。
「退いて!」
ベガだった。
彼女は焦った顔で魔法陣を広げると、湊と右腕を穴が空く程に見詰めていた。
治癒魔法だ。昴は水色の光に包まれた湊を呆然と見ていることしか出来なかった。
「湊は……、湊は助かるのか?!」
ベガは顔も向けずに答えた。
「助けてみせる」
頭の上では魔法の頂上決戦が繰り広げられている。
これはお前の戦争だろ。湊の言葉が蘇り、昴は砕けそうな程に奥歯を噛み締めた。
そうだ。これは僕の戦争だ。
蚊帳の外で見ていることしか出来ないのか?
こんな子供が悲壮な覚悟を決めてまで抗おうとしているのに、自分は見ているだけなのか?
蚊帳の外ーー幽霊のように立ち尽くしていたリゲルが、己の掌を見詰めながら言った。
「魔法が使えない……!」
昴は、血の滲んだ一枚の紙を見付けた。
黒いインクで描かれた魔法陣は、既にその力を使い果たして沈黙を守っている。夥しい数式が頭の中に流れ込んで来て、漸く、何が起きているのかを悟った。
湊の放った矢には、反魔法陣が付与されていた。しかも、それは魔法そのものに対する効果ではなく、術者に影響を齎すものだった。
リゲルの魔力回路は破壊されたのだ。そして、壊れたものは戻らない。覆水が盆には帰らないように。
見事な術式だった。
こんなにも精錬された美しく残酷な魔法陣は見たことが無い。十五歳の少年が、たった一人で導き出したとは思えなかった。
その少年は、自らの命と昴、延いては己の世界と父の矜持を守る為に、腕を犠牲にしてまで脅威に立ち向かった。
間違い無く、ヒーローの息子だ。
「ーー殺してやる!」
顔を火傷と憎悪に歪め、リゲルが呪いの言葉を吐いた。その矛先は意識すらない湊へ向かっていた。
咄嗟に昴が立ち塞がった時、白い閃光が走った。それは昴の頭上を越えて、リゲルの胸を貫いていた。
呆気無かった。
胸に風穴を開けたリゲルが、噴き出す血液を見て目を瞬かせる。崩れ落ちるようにその場に膝を着き、ゆっくりと倒れて行った。
丘の上に上がった魚のように、リゲルの身体が痙攣している。その度に噴き出る血液が非現実的に鮮やかだった。
彼を撃ち抜いたのは流れ弾だ。頂上決戦に臨む王の軍勢も革命軍も、此方を注視してはいない。
誰にも守られず、認められず、助けられず、看取られない。酷く憐れで、虚しく、哀しかった。
同情する程の関係も無い。だが、これでは余りにも、余りにも虚し過ぎるじゃないか。
虚しさと遣る瀬無さで胸が詰まる。けれど、こんな状況で遺体を葬り、冥福を祈ることも出来ない。
昴は湊へ目を向けた。
切断された腕が淡く光っている。元に戻るのか。生きているのか。助かるのか。
「ーー湊!」
遠くから、航の声がした。
治癒魔法を受ける湊を見て、航は紙のような顔色をしていた。その航も酷い怪我をしていて、殆どウルに担がれている状態だった。
航は倒れ込むように湊へ駆け寄ると、動かない兄の姿を泣きそうに睨んでいた。
「……ふざけんなよ、湊。死んだら、許さねぇ!」
航の怒号も、湊には届かない。
ウルは感情を押し殺したような顔で言った。
「移動するぞ。こんなところじゃ、手当も出来ねぇ」
昴は頷いた。
今も戦いは続いている。人は死ぬ。それでも、昴には何も出来なかった。今はただ、湊の生命力を信じることしか出来なかった。
転移した先は、本拠地であるカプリコーンの街だった。血塗れの湊と航を見ると、気の良い住民は挙って押し寄せ、己の魔力を明け渡し、助けようとした。
彼等は愛されている。住民の向ける信頼は、彼等の誠実さに比例するのだろう。
湊と航はこんこんと眠り続けていた。
いつかもこうして彼等のことを見ていた。治療に掛り切りのベガを部屋に残し、昴とウルはカウンターチェアに座った。
ウルは首元のネックレスを弄びながら言った。
「……この遣り方を、許しちゃいけないぞ」
「うん……」
「でも、湊は覚悟を決めて選んだんだ。謝ったら駄目だ。今の俺たちは、湊の犠牲の上に生きてる」
湊は、引き金を引ける人間だった。
ヒーローがそうであったように。
二人が意識を取り戻したのは、それから三日後のことだった。体力も気力も消耗した二人は酷い顔色だった。
ベガの治癒魔法の効果なのか、生命力の為なのか、奇跡的に彼等は五体満足で生還した。湊は失ったはずの腕が繋がっていることに酷く驚いていた。
彼は本気で、腕一本を失う覚悟をしたのだ。
信念を貫く為に。
目を覚ました航は、感情を爆発させるようにして湊の胸倉を掴んだ。
「もう二度とすんなって、言っただろ……!」
何の話なのかは分からない。
湊は萎れた花のように項垂れていた。
「でも、誰も死んでない」
「そういうことじゃねぇんだよ!」
「覚悟の無い人間には、何も成し遂げることが出来ない。俺は最悪の状況を想定して、最善の選択をした。後悔は無い」
「違ぇ! そんな覚悟はいらねぇ!」
「みんなが生きてる。それが、答えだ」
湊は、最善を尽くした。
航は縋るように湊の腕を握り締めていた。
湊は何かを堪えるような無表情だった。
昴はベッドへ歩み寄ると、膝を突いた。
「仕方の無い状況だったけど、僕は湊の遣り方を褒められない」
「うん……」
昴は湊の頭を撫でた。
この子供は、自戒の中で生きている。生き難いだろう。苦しいだろう。まだ、十五歳だ。確かに賢く理性的ではあるけれど、子供なのだ。
背負わせてはいけない。
「ーーでも、助けてくれてありがとう」
涙が溢れた。
こんな目に遭っても泣き言一つ言わず、涙一つ見せない。けれど、可哀想だなんて同情する権利すら昴には無かった。
二人が眠っている三日間に、タウラスで起きた頂上決戦は停戦した。
痛み分けと言った具合で、双方に甚大な被害を与えた。この正面衝突をきっかけとして各地で戦争が勃発し、魔法界は最早、混沌とした戦乱に陥っていた。
前にも後ろにも行けない泥沼の中、王の使者としてベガがやって来た。
断罪の街、タウラスが壊滅したことにより、王都へ転移魔法での移動が可能になったのだ。しかし、それは革命軍にも侵入を許すことになり、今は物々しいまでの厳戒態勢である。
レグルスの勅命を受けたベガは、昴を王都へ呼び付けた。元々、昴たちは王家と対話の席に着く為にタウラスへ向かっていたのだ。革命軍の襲撃は、それを阻止し、王都への通路を確保する為のものだったのだろう。
湊と航の怪我が癒えてからの行動を考えていたが、状況は一刻を争う。かと言って置いては行けない。
どうしたものかと思案していた時、昴は記憶の中ーーイデア界で出会ったヒーローのことを思い出した。
ベッドに寝そべる二人を前に、昴はヒーローの話を切り出した。
「なあ、和輝のことを訊いてもいいかい?」
「いいよ」
湊は快活に答えたが、航は分かり易く表情を曇らせていた。
「和輝って、紛争地で焼夷弾を受けて死んだの?」
「そうだよ。左手首しか見付からなかった」
無惨な最期だ。
何度聞いても、辛い。
けれど、昴は確認しなければならなかった。
残酷なことを訊いているのかも知れない。下手に希望を持たせる真似はしたくない。けれど、昴はこの可能性を自分の中だけで留めておけなかった。
「死を裏付ける証拠は、それだけなの?」
「どういうこと?」
「もしかしたら、ーー和輝は、死んでいないんじゃないかな?」
二人が揃って目を丸くした。
航は寝耳に水といった調子で、言葉を失っていた。湊は思案するように目を伏せ、途端、顔色を失くした。
「……人間界へ戻っても良い? 確認しないといけないことがある」
二人は同じ結論に至ったらしかった。
彼等はヒーローの死をきっかけに魔法界へ来た。けれど、それは真実ではないのかも知れない。
カプリコーンの悲劇では、ウルが死んだことになっていた。肉体の死と社会的な死は違う。
ヒーローは社会的に死ぬ必要があった。彼等の話を聞く限り、今にも始まりそうな核戦争を止める為に、狂気に侵された人々に理性を取り戻す為に、誰かが悲劇的に死ななければならなかった。
死を裏付ける証拠は、左手首だけだった。
確証は無い。シュレーディンガーの猫だ。今のヒーローは、生と死の両方の可能性を併せ持っている。
航は堪え切れないというように、頭を抱えた。
「五年前だぞ……?! 仮に生きていたとしても、何の連絡もしないのは、おかしいじゃないか!」
「連絡すら取れない状況だったとしたら?」
くそっ!
航は膝を叩いた。
湊は努めて冷静に言った。
「まだ可能性の話だ。期待はしない。裏切られた時にしんどいのは、俺たちだ」
「ああ……」
航は嘆くように項垂れていた。
確証は何処にも無い。十五歳の彼等に真実を探る術は無かった。
情報戦。
錯綜する情報の中で溺れている。みんな、誰かの掌の上だ。
「人間界へ帰る」
航が言った。
彼等を見送るのは二度目だ。
昴は祈ることしか出来ない。この希望的観測が真実であり、彼等の世界が少しでも優しいものであるようにと。
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