⑸泥中の蓮

 昴が視力を取り戻した時、其処にあったのは薄汚れた貧相な家だった。


 石造りの建物は冷たい印象を与え、まるで自分が囚人になってしまったのではないかとすら思った。


 目線が異様に低い。台所で湯が沸く音がして手を伸ばすと、指先は虚空を掻いた。自分の手を見ると、子供のように小さい。

 自分の身に何が起こっているのか理解した昴は、火を止めることも忘れて呆然と立ち尽くしていた。


 この粗野な家を知っている。ーー昴の生家だ。

 物心付いた頃から、昴はこの家で母と二人暮らしだった。飢えを凌ぐ為に日銭を稼ぎ、寒さに震えながら母の帰りを待った。


 母は売春婦であった。元々は王家に仕えたメイドだったのだが、たまたま王に見初められ、抗うことも許されずに抱かれた。王にとってはただの遊びだったのだろう。その一夜限りの火遊びの結果、生まれたのが昴だった。


 母は王家に見付かれば自分も昴もただでは済まないだろうと知り、逃げ出した。魔法界の僻地へきちの貧民街で、死と隣り合わせの毎日だった。


 恨みはしなかった。憎みもしなかった。母は昴を愛してくれた。小さな黒パンを分け合い、汚れた衣服を洗い、昴の他愛の無い話を楽しそうに聞いてくれた。


 決して裕福ではなかったけれど、それで良かった。昴はこの小さな家で母と共に生きていけたら、それで幸せだった。


 王の使者がやって来たのは、枯葉の舞い散る秋の朝だった。物々しい雰囲気を纏った男たちは、王の軍勢のシンボルマークを胸に刻み、冷酷に言い捨てた。


 幼かった昴には、その内容の詳細までは分からなかった。真っ青な顔付きで、今にも崩れ落ちてしまいそうな母の手を握っているだけで精一杯だった。


 王の軍勢は有無を言わさず母と昴を引き摺り出し、馬車へ押し込んだ。狭い車内で昴はずっと母の手を握っていた。ささくれとあかぎれの酷い掌が、氷のように冷たかった。


 道の先が例え地獄に繋がっていたとしても、この手は離さない。昴が強い決意を固めた時、馬車は転移魔法の光に照らされた。


 扉を押し開くと、最初に見えたのは美しく刈り込まれた緑の芝生だった。渾々こんこんと水の湧き出る泉は透き通り、聳え立つ白亜の城は天を突く程に巨大だった。出迎えた貴婦人はねっとりとした笑みを浮かべていた。




「今日からは、此処が貴方のお家よ」




 促されるまま馬車を降りる。

 貴婦人は昴の手の先を見て醜く顔を顰めると、親の仇でも見付けたみたいに母を睨んだ。昴は母を守ろうとした。けれど、王の軍勢の包囲は固く、非力な昴にはどうしようも無かった。


 お母さん。

 お母さん。

 お母さん。


 昴は必死に呼び掛け、手を伸ばした。

 母は泣いていた。昴の名を呼び、懸命に手を伸ばす。けれど、それが取られることは、無かった。


 昴は上質な部屋へ案内された。

 見窄らしい服装を纏った昴を使用人たちは訝しむようにして睨んでいた。恨まれる謂れも無いのに、自分が何か大変なことをしでかしてしまったのではないかと不安になる。


 たった一人部屋に残され、昴は母の様子を知ることが出来ないか探索した。けれど、何処にも抜け穴や逃げ道は無く、昴は軟禁されたまま不安な日々を過ごした。


 提供される食事はこれまで見たことも無い程に豪勢な品々だった。けれど、使用人たちに囲まれ、何か粗相そそうをする度に顰蹙ひんしゅくを買い、嘲笑われる。其処に心休める場所は無かった。


 母恋しさに脱走を図ったこともあったが、どれもあえなく邪魔され、その度に激しく折檻された。

 文字すら知らない昴に教養を教えた教師は、ミスを見付ける度に苛立った様子で手を打った。昴の両手はいつも紅葉のように真っ赤に染まっていた。


 それでも、昴は母に会いたかった。

 昴の家族は母しかいない。母は今頃どんな目に遭っているのかと想像すると、怖くて怖くて眠れなかった。


 そんな或る日、昴は同い年の少年と出会った。

 輝くような金髪と意志の強そうな深い藍色の瞳が印象的な綺麗な子供だった。


 建物ーー王宮の中庭で、その子供は掌に金色の魔法陣を浮かべていた。その指先に光が集まると、遠く離れた人の形の的へ金色の閃光が走った。


 全弾命中。それも全て脳天と心臓を貫いている。


 少年は人形のような無表情だった。

 眺めていた昴が思わず拍手すると、眉間に皺を寄せて少年が振り向いた。


 それが、レグルスと初めて出逢った日だった。

 レグルスは嫌そうに一瞥すると、そのまま踵を返して立ち去ってしまった。見知らぬ他人からの悪意には慣れていたはずなのに、胸が軋むように痛かった。


 それから数年、昴は軟禁されていた。

 王宮で教えられたのはテーブルマナーや社交ダンス、魔法陣の描き方。それまでの昴の生活には全く関わりの無い知識を身に付けるのは、血を吐く程に辛かった。


 どうして、こんなことをしなければならないんだ。

 昴の声はいつも無視された。言うことを聞かなければ折檻される。昴は黙って俯く癖が付いていた。


 そんな頃、使用人の一人が相変わらずの鉄面皮で昴を部屋の外へ連れ出した。

 辿り着いたのは日の当たらない王宮の離れだった。冷たい石造りの建物は牢獄のようで、近付くことすら恐ろしかった。

 使用人に背中を押され、昴は有無も言わされず内部へ足を踏み入れた。薄い扉の向こう、僅かに日の当たる窓辺に誰かがいる。それが誰なのか。




「お母さん!!!」




 母だった。

 見ない内にその身体は枯れ木のように痩せ細り、悲しい程に老いてしまっていた。

 転げそうな勢いで昴が駆け寄ると、母は藍色の瞳に涙を浮かべた。


 思わず握った手は、力を込めれば折れてしまいそうな程に華奢であった。微かに感じる鼓動は弱まって、今にも途絶えてしまいそうだ。


 母は泣きそうな顔で言った。

 



「流行り病に罹ってしまって隔離されていたの。だから、昴には会えなかった。ーー会えて嬉しい」




 昴は、それが嘘であることも分かっていた。

 母は昴を人質に監禁されていたのだ。昴に魔法は使えない。でも、今なら母を連れて逃げ、生活を支えることも出来ると思っていた。けれど、この病にせて自力で体を起こすことすら出来ない母を連れ出すということは、不可能だった。


 無力感に打ちひしがれ、昴はあの日のように母の手を握っていた。自分に何が出来ただろう。昴はあの場所で母と生きていられたなら、それで良かったのだ。


 何を恨む。何を憎む。誰のせいにすれば救われる。そんなこと、誰にも分からない。


 昴の頬を涙が伝った。

 その時、母が手を握り返した。




「昴、生きて。生きてさえいれば、希望はある。貴方を助けてくれる人や、守ってくれる人に必ず出逢える。だから、どうか生き抜いて」




 母の涙は横に流れ、枕に染み込んだ。

 昴が懸命に頷く中、母は満足そうに微笑み、やがて力を無くした。静かに息を引き取った母を昴はいつまでもいつまでも、見詰めていた。








 18.よだかの星

 ⑸泥中の蓮








 犠牲の魔法が発現したのは、十歳の頃だった。

 中庭の木から落ちた小鳥を助けたかったのだ。柔い羽は地面に叩き付けられ、無残に歪んでいた。自力で飛び立つことも出来ず、親鳥もいない。枯葉の中で怯えたように身を震わせるその小鳥が、自分と重なって見えた。


 掌を向けた時、辺りから光の粒子が集まった。夜空に輝く星のように美しい光景だった。小鳥の怪我は時間が逆再生されたかのような治癒したが、同時に無数の小動物がばたばたと倒れた。


 小鳥の怪我を治癒する為に、他の命が犠牲になった。それ等は全て、腕が折れてしまっていた。


 目撃した侍女の証言から、昴は王の御前へ引き立てられた。恐れ慄き囁き合う人々の白い目が針のように突き刺さる。


 昴の魔法は歓迎されなかった。妾の子供が持つには不釣り合いな能力だった。玉座の側に少年が立っていた。王家の血筋を引いた正当なる継承者、レグルスだった。


 レグルスは蛇蝎だかつのように昴を忌み嫌った。

 直接的な暴力ではなく、昴をいないものとして徹底的に無視した。

 昴は王都の寂れた地下牢へ幽閉され、来るべき日の為に兵器として扱われた。


 怖かった。寂しかった。苦しかった。

 願っても祈っても縋っても、助けの手は差し伸ばされない。長い孤独は精神を蝕み、昴は自分が人間であることすら忘れてしまいそうだった。


 死にたかった。もう終わりにしたかった。

 その度に母の声が蘇り、昴は泥濘の中に沈み込んで行くかのような絶望に陥った。


 サラマンダー、ロキが現れたのは突然のことだった。

 鮮烈な赤い瞳を覚えている。ロキは昴を地下牢から脱出させ、王家から守る為に記憶を消して人間界へ送り込んだ。


 記憶を失った昴には、居場所が無かった。

 警察に保護され、精神病棟へ送還され、毎日毎日検査を受けさせられた。昴にとっては拷問だった。

 思考は乖離し、正常な判断が下せない。凡ゆる物事が理解出来なくなっていた。


 全てが敵だった。

 死にたいと思う。もう終わりにしたいと思う。助けの望めない地獄の底で、昴は一人のヒーローに出会った。


 彼は光だった。

 和輝や葵との交流の中で、昴は少しずつ人間に戻って行った。


 元気でやれよ。

 ヒーローが言った。ーーまさか、それが今生の別れになるだなんて思いもしなかった。

 いつか会える。それだけが昴を支えていた。けれど、ヒーローは死んだのだ。もう二度と会えない。


 過去の記憶の奔流に呑み込まれ、昴の意識は闇の中へ転がり込んでいた。絶望と無念が押し寄せて、心はばらばらに砕けてしまいそうだった。


 昴の心を繋ぎ留めたのは、ヒーローの残した二人の息子だった。


 湊と航。

 彼等は父の死を悲劇にしない為に、涙一つ見せなかった。瀕死の重傷を負い、残酷な出来事に巻き込まれ、人に笑われ、後ろ指を差され、誰の理解が得られなくても、助けてもらえなくても、その度に立ち上がって来た。


 可哀想な湊と航。

 どうしたら、彼等を救えるのだろう。

 昴には分からなかった。




「和輝……!」




 自分の行為の責任は自分で取る。

 昴はその覚悟を決めた。けれど、あの二人はまだ子供なのだ。他人の命や魔法界の行く末なんて背負う必要は無い。それでも、彼等は傷付きながら、進もうとするのだろう。


 彼等の決意だ。その意思を尊重したいと思う。

 だけど。




「和輝!」




 此処が記憶の中ならば、きっと逢える。

 昴は闇に染まる虚無に向かって叫んだ。声は静かに反響し、消えてしまった。


 かつん。

 乾いた足音がした。

 振り返った先に、あの日と変わらないヒーローが立っていた。


 其処にいるだけで辺りがぱっと明るくなる。

 惑星の引力のように視線が惹き付けられ、離せない。短身痩躯ながらも、身も世も無く縋り付きたくなる強烈な存在感。長い睫毛に彩られた濃褐色の瞳は柔らかな光が宿っていた。


 泥中の蓮。

 目の前の青年は、正にそれだった。

 溺れる者がわらにも縋るようにして、昴は和輝の両手を掴んでいた。これが自分の作り出した幻影だとしても構わなかった。


 和輝は驚いたように目を丸め、そっと微笑んだ。その瞬間、昴の目からは大粒の涙が溢れた。

 苦笑した和輝は、宥めるように昴の肩を撫でた。春の日差しのように温かい掌だった。




「……航も、よく泣いてたよ」




 あの航が?

 昴が見遣ると、和輝は言った。




「プライドが高過ぎるんだよ。自分の思うような結果が出せないと、悔しくて涙を浮かべてた」

「湊は?」

「湊は泣かなかった。不器用なんだ」




 和輝には何でもお見通しなのだろう。

 航の高潔さ故の脆さも、湊の優しさ故の弱さも、全部分かっているし、受け入れている。彼は二人の最大の理解者であり、唯一の逃げ場だった。




「和輝……どうして死んだんだよ……!」




 和輝が生きていれば、彼等は苦しまなくて済んだ。背負わなくて良かった。それが歯痒くて遣る瀬無くて、仕方が無いと知っていても責めたくなる。


 和輝は、慈悲深く微笑んだ。




「人間だったからだよ」




 きっと、それ以上の答えは無い。

 ヒーローだったからでも、救世主だったからでも、和輝だったからでもない。人間だから死んだ。


 でも、人間でなければ、変えられなかった。




「俺の息子は元気かな」




 和輝の問い掛けに、昴は答えた。




「いつも無茶ばかりして、怪我して、死ぬような思いをしながら、必死に生きようとしてるよ」




 会いたいな。

 それが叶わない願いと知りながら、和輝は言った。




「昴。俺はね、あの世界が大好きなんだ。家族がいて、友達がいて、仲間がいる」




 昴には、言えなかった。

 自分の世界が好きだと言える彼が羨ましい。


 世界が好きだと言えたらどんなに良いだろう。

 どんなに素晴らしいだろう。




「俺の息子を守ってやってくれよ。まだ子供なんだ」

「分かってる」

「不器用だけど、本当は誰よりも相手の気持ちが分かる優しい子なんだ」

「知ってる」




 昴は鼻を啜った。

 誤解され易いけれど、彼等は素直で優しい子供たちだ。間違い無くヒーローの血を引いている。


 昴は腕を伸ばした。

 魔法を行使するのではなく、誓う為に拳を向ける。彼等のジンクスをなぞった昴に、和輝は蕩けるように微笑んだ。




「必ず守るよ」




 乾いた音を立てて、二つの拳がぶつけられる。ーーその時、顳顬こめかみに静電気のような違和感が走った。


 何かがおかしい。これは昴の記憶の世界だ。目の前のヒーローは過去の投影であるはずだ。ならば、昴の知らないことを口にするはずが無い。


 和輝が、昴の知らないことを話すのはおかしい。

 前もそうだった。混濁した意識の中で見た彼はまるで、生きているかのように語り掛けた。


 鼓動の音が煩い。

 何かが違う。それは全てを根底から覆す有り得ない可能性だ。希望的観測に過ぎないのかも知れない。けれど、確かめずにはいられなかった。




「和輝は、生きているの?」




 和輝は曖昧に微笑んだ。まるで溶けて消える蜃気楼のような儚い笑みだった。


 世界が弾けて割れたのは、その時だった。

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