⑷虚しい勝利
凄まじい粉塵と爆炎による不明瞭な視界の中、湊は不気味な子供と対峙した。
四肢は枯れ木のように痩せ細り、削げ落ちた頬は傷だらけだった。胡乱な眼差しに感情は無く、それが何かと問われたら、湊は人形だと答えただろう。
レオの村の生き残り。
村人による凄惨な異端者審問の犠牲者は、己の名前も出生も、言葉すら知らない。湊にはその子供の伽藍堂の瞳が、酷く憐れで恐ろしく見えた。
この子を誰も助けなかった。
それは湊や航、昴も同じだ。それどころではなかったなんて言い訳だ。事実、湊はこの子の生死すら確かめはしなかった。
何でもかんでも救える訳じゃない。それでも、救われなかった命が復讐のように立ち塞がる。
「君はどうして革命軍に?」
返って来たのは喃語だった。
己の意思を示す為の言葉も知らない可哀想な子供。
でも。
「立ち塞がるのなら、容赦はしない」
この子は弟を傷付けた。魔法界の脅威となり得る化物だ。逃せば取り返しの付かないことになる。
湊は地面を蹴った。
真正面から火球が唸りを上げて襲い掛かる。直撃すればただでは済まない。湊は空中を転がるようにして躱し、続く炎の礫をナイフで弾き飛ばした。
全ての攻撃がスローモーションに見える。
攻撃は単調だった。目の前にいる敵を屠殺する為だけに魔法を放ち、反撃や抵抗をまるで予測していない。
子供の掌には、杭を打たれたような醜い傷があった。
湊は滑空するように身を低く駆け抜け、その懐へ潜り込んでいた。子供が反射的に身を引く刹那、ナイフの切っ先が顎先を掠める。
後方へ宙返りした子供の前髪が切り離され、淀んだ沼のような緑色の瞳が見えた。
投げ出された腕を引っ掴み、遠心力を使って叩き付ける。骨の砕ける鈍い音がした。
嫌な感触が掌に残った。子供はよたよたと立ち上がり、無感情の虚ろな顔で体勢を整えた。
その子の行動が読める。次に何をするのか予備動作が見えた。それは丁度、二人零和有限確定完全情報ゲームに似ていた。
「待て!」
後ろで航が叫んだ。
湊が気を取られた一瞬、子供は肉食獣のように襲い掛かった。目の端で捉えた湊は刹那の駆け引きで躱すと、航の視線の先を追った。
シリウスがいない。
逃走したのか?
そんな希望的観測は持たない。自分なら航を人質にしてでも抵抗した。何か理由がある。頭の奥でエマージェンシーコールが鳴り響く。湊は悟った。
革命軍の目的は自分たちではない。
シリウスの狙いは変わっていない。彼の目には湊も航もこの子供でさえも映っていなかったのだ。
航がパルチザンを杖に立ち上がった。
夕日のような赤い光に照らされながら、湊は血塗れの弟を見遣った。航が言った。
「シリウスを追え」
分かってる。
湊はほくそ笑んだ。
大丈夫か、なんて言葉は弟に対する侮辱だ。
湊はポケットから一つの魔法具を取り出すと、押し付けるみたいに航へ手渡した。
シリウスの消えた方向ーー恐らく、昴の居場所へ向けて走り出す。回り込んだ航が子供の追撃を受け止める。交戦の気配を背中に、湊は駆け出していた。
18.よだかの星
⑷虚しい勝利
ーーそれでも、これが俺の正義なんだよ。
その言葉を聞いてから、体の震えは止まっていた。
航が認め信じた兄の正義が変りなく其処にあることが、泣き出したくなる程に嬉しかった。
父が死んでから、航の世界は日没後のように薄闇に包まれていた。頼るべきものも、信じるべきものも、目指すべきものも無かった。
兄は父の正義を受け継いだ。
それなら自分は、それを守ろう。失っても失っても希望はある。だから、諦めたらいけない。
対峙した子供は感情を喪失させた無表情であった。
感情も痛みも知覚していない。人間は一定量の感情を超えると、虚無になる。脳が心を守る為に記憶を消すように、精神が作用するのだ。
PTSDーー心的外傷後ストレス障害。
父は精神科医だった。人の心は傷付き易く、治癒には時間が掛かる。自分とそう変わりない年頃の子供が受けて来た拷問が、人格形成にどのように影響したのかは分からない。
航は血の零れ出る腹部を抑えながら、子供を睨んだ。
会話に意味は無い。言葉での挑発は無意味だ。
航は周囲をさっと見渡すと、パルチザンを構えた。足元には外壁の瓦礫が転がっている。
悲鳴と喧騒、罵声と怒号。
人々の嘆きがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
単調な攻撃を繰り返す子供を躱しながら、航はポケットの中へ手を伸ばす。
それは金色に輝く
了解。
通信魔法具からの返答を受けて、航はポケットから手を取り出した。
子供が炎のように一気に襲い掛かった瞬間、足元に魔法陣が広がった。
強制転移魔法。予期せぬ魔法は容赦無く牙を剥き襲い掛かる。
魔法には属性がある。そして、日々新たな魔法陣が作られる。この子供の魔法は、古いのだ。強制転移魔法には対応出来ない。
子供の姿が霞んで消えて行く。
その指先は航へ伸ばされながらも、届くことは無かった。引き換えに現れた青年ーーウルは、呆れたように肩を落としていた。
「昴の見張りも効果無しか」
ウルが笑った。
分かっていたことだろう。航は口の中の血反吐を吐き出し、頬を拭った。
右足の感覚が無い。航は片足を引き摺りながら歩み寄り、ウルの胸倉を掴んだ。
「昴のところへ転移させてくれ」
ウルは追及せず、魔法陣を展開した。
その時、足元にもう一つの魔法陣が重なった。強制転移魔法だ。ウルの魔法陣が混線して、正常に機能しない。
傍目には、何が起きているのか分からない。
物凄い速度で情報が
周囲を取り囲む気配があった。
住民じゃない。愉悦混じりの笑みを浮かべる不逞の輩ーー革命軍。
太陽をモチーフにしたネックレスが、炎を浴びて残酷に輝いていた。
情報戦をしながら、大勢と立ち回る余裕はウルには無い。このままでは共倒れだ。自己犠牲なんて流儀じゃない。やるなら道連れにしてやる。
何か出来ることは無いのか。
航は
アクセサリーは嫌いだった。父の形見をネックレスにされた時も、嫌だった。ただ、縋る先を失った兄の嬉しそうな顔を見るのは、悪い気はしなかった。
覚悟を決めろ。
航は自分に言い聞かせ、ウルを押し退けた。
一瞬の判断の遅れが、ウルの思考回路を鈍らせる。途端、拮抗していた情報の攻防は傾き、足元に魔法陣が広がった。
それは、蕾が花開くように。
強制退場させられたあの子供が現れた。
その面に感情の類は無い。生きているのに、死んでいる。泣きっ面に蜂と呼ぶべきなのか、ウルが苦い顔をする。
航は両足に力を入れた。
「こいつは俺が止める」
湊を追わせないし、昴のところへも行かせない。
ウルが頷いた。
瞬時に航の思考を理解したらしく、ウルは取り囲む革命軍に立ち向かった。
伽藍堂の瞳が航を捉えた。その時になって、その子の瞳が美しい紫色であることを知った。
子供の放った爆風が街を吹き飛ばして行く。熱波が石畳を焼き、空を焦がして行く。
父を殺した悪魔の炎が網膜に焼き付いている。航は奥歯を噛み締めた。言う事を聞かない足を引き摺って身を
武器を作る時、航と湊は広範囲の飽和攻撃への対抗手段を考えた。湊は遠距離からの攻撃を想定し、航は近接戦闘に持ち込む方法を提案した。
湊のように小細工はしない。一点突破。パルチザンの赤い光の中で、航は力を込めた。
今の自分の状態で、あの子供と立ち回る余力は無い。
近接戦闘に勝機は無い。あの子供は化物だ。けれど、人間だ。勝てない理由にはならない。
「力を貸せよ、サラマンダー」
今でも自分を惜しいと思うなら、その力を示せ。
湊の残したエレメント召喚の魔法陣が紅く光る。それは血のように赤い夕焼けに似ていた。
体中に力が漲って、痛みが遠くに霞んで行く。
航は腕を振り切った。
最大火力だ。
大地を焦がす炎が迸り、辺りは一瞬で火の海となった。悲鳴も嘆きも祈りも踏み躙るあの悪夢が鮮明に蘇る。
耳鳴りがして、平衡感覚が失われていた。
鼓膜が破れたのかも知れない。航がその場に崩れ落ちると、ウルが顔を真っ青にして駆け寄った。
これで立ち上がるようなら、もう打つ手が無い。
航の放った最大火力は街を焼き、喰らい尽くした。轟々と燃え盛る紅蓮の炎の中、航は自力で立ち上がることも出来なかった。
炎の向こうで、影が揺れる。
地面に這い蹲りながら、航は祈る思いで影を睨んでいた。
掠れた声が、した。
「わたる」
それは言葉というよりも、音に近かった。
業火に身体を焼かれながら、あの子供が現れる。その足取りは覚束無い。まるで、生まれて初めて立ち上がった幼子のように。
わたる。わたる。わたる。
母を呼ぶ子供のように、航の名を繰り返す。湊の叫んだ言葉を耳で覚えたのだろう。
壊れ掛けた玩具のように、その子供は歩み寄った。
体から血が噴き出し、足元には血溜まりが出来ている。それでもなお、戦おうとしている。
指一本動かせない状態で、航は睨み続けた。
最期の瞬間まで目は逸らさないし、瞼は下ろさない。それは、死ぬ気なんてこれっぽっちも無いからだ。
傷だらけの足が踏み出されるーーその瞬間、体は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
航は呆然とその様を見ていた。
互いに立ち上がることも出来ない。それでも、戦おうとする。ーー其処に何の違いがあるというのだろう?
王家と革命軍、カストルとポルックス、自分とこの子供、一体何が違うのだろうか。
決して味方ではない。相手は自分たちを殺そうとする敵だ。戦う理由がある。でも。
「お前、名前も無いのかよ」
だっせぇな。
航は笑った。
「言葉も知らなくて、考えることも出来ないのかよ」
敵か味方かの判別も付かないし、戦う以外の術も無い。瀕死の最中に呼ぶ相手もいないし、縋る先も無い。
可哀想な子供。消耗され、利用されるだけの命。惨めで憐れな人生。其処に意味があるのだろうか。
「お前、可哀想だな」
熱波と煤のせいで視界が不明瞭だ。
航は鼻を啜った。
人はいつ死ぬのだろう。そして、いつ生まれるのだろう。名前も無く、愛してくれる親も無く、ただただ死ぬだけの命。
何かを成し遂げることも、愛されることも無い。
「お前に名前をやるよ」
この子供の性別も年齢も分からないけれど。
「アルデバラン」
牡牛座で最も明るい恒星だ。
昴を名付けた父に倣って思い付いた名前だった。
「あるでばらん」
子供ーーアルデバランは、
そうだ、お前の名前だ。お前の唯一の存在意義。
もう一度、アルデバランはその名を繰り返した。唯一無二の宝物を抱き締めるみたいに。
アルデバランは花が綻ぶようにして微笑むと、そのままゆっくりと目を閉じた。辺りには血が溢れていた。
そのまま、アルデバランは起き上がらなかった。
もう二度と、永遠に。
両目が熱かった。
何かが零れ落ちてしまいそうで、航はただ堪えていた。
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