⑶起死回生の一手
航は、
嫌悪、憎悪、悔恨、憤怒、歓喜。そして、それ等を上回る苛烈な闘争本能。対峙する魔法使いを倒せと本能が叫び散らす。
シリウスはうっとりと笑っている。その後ろには
敵襲。エマージェンシーコールが聞こえる。
弓を構えた湊が人形のような無表情で言った。
「俺たちを殺しに来たの?」
シリウスは緩く首を振った。
「君たちを殺すつもりは無いよ。向かって来るなら容赦はしないけど」
「代わりにお前等を見逃せって?」
出来ない相談だ。
航は口角を釣り上げた。
シリウスは自分たちを魔法界に招き入れた張本人だ。トーナメントでは湊を瀕死に追い込んだ。魔法界に起こる革命戦争の首謀者であり、父とも因縁深い男だった。
シリウスには言ってやりたいことがある。
航の内心とは裏腹に、湊は臨戦態勢を解かぬまま問い掛けた。
「狙いは昴? それとも、王家?」
シリウスは答えなかった。
反魔法陣の刻まれた外壁が粉々に打ち砕かれたということは、シリウスの使う魔法は従来のものとは違うのだろう。
何故だ。
規模か、質か。
シリウスが手を挙げると、その後方から雄叫びが上がる。次の瞬間、革命軍は嵐のように街へ飛び出した。
爆音と共に、上空には黒煙が濛々と立ち昇った。
無力な人々が半狂乱になって逃げ惑い、悪夢のように悲鳴が飛び交う。無抵抗な一般人の虐殺が始まっても、航と湊は一歩も動かなかった。
彼等は烏合の集ではない。隙を見せれば自分たちが窮地に陥るだろう。
また、人が死ぬ。目の前で殺される。
全てを救うことは出来ない。自分たちの戦力では街の人を守れない。ーーだけど、それでも。
「湊、さっき言ってた奴、すぐ出来るか」
「時間が欲しい」
「分かった」
パルチザンが赤く発光する。航は腰を落とした。
全てを救うことは出来ない。それでも、目の前の一つくらいなら守れると信じたい。
航が地面を蹴ると同時に、湊が弾かれたように走り出す。パルチザンの穂先が粉塵の中を駆け抜ける。
シリウスの掌から真紅の魔法陣が広がった。炎の大蛇が唸り声を上げ、
着地した先で瓦解した建物が雨のように降り注ぐ。航は猫のように身を低くしてシリウスを睨んだ。
背中から諸に熱風を浴びた湊が蹲っていた。航は庇うように立ち塞がる。
近接戦闘は湊には向かない。起き上がらない兄を見遣ると、その手には紙と羽根ペンが握られていた。
魔法陣だ。這い蹲りながらも湊の目は死んでいない。
この状況下でどんな手段を講じようとしているのか分からないが、湊がやると言うのなら信じるしかない。
時間稼ぎは自分の役目だ。
航は頬に走る裂傷を撫で、パルチザンを構えた。
シリウスばかりが余裕の笑みを浮かべている。
「君たちと遊ぶ時間は無いんだよ」
「行かせねぇ」
兄を背中に、航は身構えた。
例え助けの望めない絶望の未来しか存在しないとしても、抗う余地の無い結末しか有り得ないとしても、此処で折れたら、ーーそれはもう、自分じゃない。
「どう足掻いても立ち塞がるんだね」
シリウスは退屈そうに言った。
次の攻撃が来る。今度はさっきより大きく、致命傷を狙って来るだろう。凡ゆる攻撃を想定しながら、航は身構えた。
けれど、その時、シリウスは背後へ目配せした。隙と言うには余りの一瞬で、対応出来なかった。
何処かで鈴の音が聞こえたような気がした。辺りの喧騒が遠退くような澄んだ音色は航の聴覚を支配し、思考を
次の瞬間には目の前が真っ白になっていた。天空から真っ逆様に叩き落されるような転落感と凄まじい熱波が襲い掛かり、航は何が起こったのか理解すら出来なかった。
建物の崩壊がコマ送りに見えた。
褪せた路上に投げ出され、背中に衝撃が走った。胃液が逆流し、激しく咽せ返る。
生理的な涙と粉塵に染まる世界に誰かが立っていた。
細い、小さい、見窄らしいーー子供だ。
それが何者なのかなんて、分からない。
酷い耳鳴りに頭が割れそうに痛む。
起き上がることの出来ない航の前で、人形のような無表情をした子供が掌を向けた。白い魔法陣が掌に集約され、高密度の空気によって風景が歪んでいる。
息が出来なかった。反撃も抵抗も逃走も不可能だった。全身が粉々に砕けたかのような激痛は気力も活力も消し去ってしまう。
子供が何かを言った。
鼓膜が破れたのか認識出来ない。カサ付いた唇が開閉している。異なる言語? 文化? ーー違う、これは言葉ですら無い。
幼子の発する
あうあう、あー、あああ。
枯れた声帯が無意味に震えている。
冷たいものが体中を駆け巡る。感覚が無かった。
生まれて初めて、死を覚悟した。
だが、次の瞬間、真横から金色の閃光が走った。
航は、迸る鮮血を他人事のように眺めていた。
ぼとり。
目の前に落ちて来たのは、血に染まった子供の腕だった。身体の一部を切り落とされたというのにも関わらず、子供は眉一つ動かさなかった。
顔を向ける動作がやけに緩慢で、時間経過の感覚が狂って行く。航は起き上がれないまま視線を向けた。
不明瞭な視界に研ぎ澄まされた眼光が映った。
湊。
航の言葉は声にならなかった。喉の奥から空気の抜ける虚しい音が発されただけだった。
瓦礫の中、這い蹲った湊の手元が淡く光っている。
航の渡した無限の紙に描いた魔法陣と、ネックレスに込めた僅かな魔力を使ったのだろう。起死回生の一手を打つ為の切り札だった。
血塗れの子供が残された腕をゆるりと上げる。
放たれた光は残酷なまでに美しく、悲しい程に強烈だった。それは動けない湊に照準を定めていた。
真っ赤な炎が噴き上がった。
航は其処に、父を奪った焼夷弾の光を重ね見た。あの日の悪夢が形を変えて蘇る。
航は血を吐くように叫んでいた。
黒煙に包まれた湊の名を狂ったように呼び続けた。返事はーー、無い。
凡ゆる希望は打ち砕かれて、抵抗すら無意味な絶望の壁が立ち塞がり、視界が暗くなって行く。
乾いた拍手の音が聞こえた。
「絶望したかい? 後悔しているかい?」
歌うように軽やかにシリウスが言った。
「あの時、俺の手を取れば良かったって」
あの時ーー。
革命軍に勧誘された時、湊が死に掛けた時、父を失った時。腹の底から込み上げる苛烈な怒りが唇を震わせる。あの時、シリウスの手を取れば良かったのか?
分からない。けれど、此処で何も出来ず湊を失うくらいなら、自分のプライドなんて折ってしまうべきだったのか?
身から出た
俺のせいなのか?
吹き飛ばされた腕を拾った子供が、己の痛みすら知覚していないかのように、不思議そうに小首を傾げている。まるで、玩具だ。
シリウスは喉を鳴らして笑っていた。子供へ掌を向けると、切り落とされた腕は何事も無かったかのように復元されてしまった。
「この子に見覚えは無い?」
分からない。
どうでも良い。それが何処の誰でも良い。ーー湊さえ無事なら!
「この子は、レオの村の生き残りだよ。あの海蝕洞の奥に拘束されていた子供さ」
レオの村の海蝕洞ーー。
排他的な村人たちの行っていた非道な異端者審問。人権すら与えられず、言葉すら知らず、ただただ甚振られるだけだった憐れな子供。それが、こいつだと言うのか。
「君たちとこの子は何が違うと思う? 君たちは恵まれた子供だった。この子は恵まれなかった子供だった」
分からない。
あの時、航は彼を助けなかったし、今まで思い出しもしなかった。
シリウスは冷たく微笑んでいた。
「これは弱者の反撃なんだよ。君たちの大好きな番狂わせ、ジャイアントキリングさ」
煩ぇ。
航は悪態吐いた。しかし、それは声にならない。
思考回路が錆び付いて、ろくな言葉が出て来ない。
「この子は俺の手を取った。君は拒んだ。ーーその結果が今なんだよ」
畜生、畜生。畜生畜生畜生畜生!!
航が奥歯を噛み締めた時、声が聞こえた。
「絶望はしない」
絞り出すような掠れた声だった。
それが誰かなんて考える必要も無かった。生まれた時からーー否、生まれる前から一緒だった兄の声だった。
18.よだかの星
⑶起死回生の一手
航が吹き飛ばされた時、湊は理解した。
自分の力では弟を守れない。信念を貫けない。
幾ら頭を回しても、難しい魔法陣が描けても、打開の策を探しても、目の前で殺されかけた弟一人救うことが出来ない。
深い絶望の闇が包み込み、身動き一つ出来ない泥濘の中で、湊は生まれて初めて、力が欲しいと思った。
困難に立ち上がり、不条理や理不尽に抗い、弟を守る為に力が欲しい。
あの不気味な子供が此方へ掌を向けた瞬間。まるで脳に直接流し込まれたかのような声が聞こえた。
「まだ諦めないのか?」
辺りの景色はビデオの一時停止みたいに止まっていた。まるで自分だけが世界に取り残されてしまったようだった。
湊は弾かれるようにして答えた。
「諦めないよ」
諦めるということは、死ぬことと同義だ。俺たちは死んではいけない。生きて、証明しなければならない。
「此処で諦めたら、それはもう、俺じゃない」
古い大木のような嗄れ声が響いた。
「ーー人間とは、愚かな生き物だな」
この声を知っている。
小柄ながらも逞しい体格をした偏屈な老人。初めて出会ったのは、湊と航が魔法界へ来て間も無い頃だった。
厳かな精霊界の円卓、一番最後に現れた地のエレメント。彼は二人と或る約束をした。
もしもアンタが、人間も中々やるじゃねーかって思ったら。その時は、力を貸してくれよ。
「愚かで、惨めで、汚らしく、憐れ。ーーだが、見事だ」
停止した世界の中で、淡い緑色の光が降り注ぐ。
湊の前に現れたのは、地のエレメント、ノームであった。
ノームは白い
「いけ好かないガキだと思っていたが、中々見所がある。こんなところで失うには惜しい」
抗え。
ノームが言った。途端、足元には緑色の魔法陣が浮かび上がった。湊の脳は意識とは乖離し、通常では考えられない速度で解析を始めていた。
自爆魔法陣じゃない。これは、肉体強化。
死に掛けの身体に力が漲って、視界が鮮明になる。
父を喪ったあの日の絶望が、夜明けのように薄らいで行く。
凡ゆる困難が道を塞ぎ、太刀打ち出来ない不条理が降り注ぎ、もう駄目だと膝を突きそうになる度に声がする。
希望がある。希望がある。希望がある。
足掻け、諦めるな、信じろ。ーー何度でも!
身体の震えは止まっていた。
景色はゆっくりと動き出す。子供の掌から放たれた高密度のエネルギーが迫る。湊にはそれがコマ送りに見えた。
辺り一面を火の海に変える業火の中で、湊はその子供の歪な指先すら観察することが出来た。吹き飛ばされ落下する無数の瓦礫の中で、生き残る為の最善ルートが手に取るように分かる。
濛々と立ち込める粉塵の中、湊は不気味な子供と対峙した。愉悦に浸っていたシリウスの顔が驚愕に染まり、諦念に揺らぐ航の瞳に光が宿る。
絶望するかい?
湊は導かれるように答えていた。
「絶望はしない。後悔もしない。航がノーと言ったら、それはノーなんだよ」
粉塵と爆炎の中、此処だけがスポットライトを当てられたかのように明るい。
足元には翡翠色の魔法陣が浮かんでいた。強化魔法の効果なのか、体が淡く光る。湊は航の前に躍り出た。腰に差したナイフを引き抜き、青眼に構える。
「強情で、融通が利かなくて、短気で、粗暴で。ーーでも、航はヒーローなんだ」
シリウスは嗤った。
「ヒーローは死んだよ」
「ヒーローは死なないよ。その意思を継ぐ者がいる限り、何度でも蘇る」
シリウスは落胆したかのように肩を落とした。
「やっぱり、お前は駄目だ」
「それでも、これが俺の正義なんだ」
正義とは何か。
湊にとって、善悪なんて瑣末な問題なのだ。他者評価に意味は無い。二人にとって、正義とは貫くものだからだ。
「コンティニューはもうしない」
そうだろ、航。
湊が問い掛けると、航が悪童のように笑った。
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