⑽友達
カストルは走っていた。
混乱の喧騒に包まれる街の上、雨のように事実が降り注ぐ。どよめく人々はカストルを見付けると制止を叫ぶが、全ての声は言葉として知覚されず、雑音のように通り過ぎて行った。
革命軍のリーダーが現れた日を思い出す。
夜空のような藍色の髪と、煌めく星のような黄金色の瞳。魔法界の底辺で虫のように息を潜めて生きて来たカストルには、それがまるで、神に見えた。
ーーお前が必要だ。
あの時、自分は選ばれたのだと思った。
17.青い炎
⑽友達
ジェミニの街を繋ぐ橋には、通行証が必要だ。
大通りに位置する中央の立派な大橋は、富裕層の人間しか通れない。貧民街で生まれ育ったカストルは、朽ち果てた吊橋から貴族の笑顔を見上げていた。
いつか、あの橋を渡ろう。
大手を振って、みんな一緒に。
ポルックスが言った。
人を分けるのは生まれや育ち、能力値では無い。誰にでも幸福になろうとする権利がある。他人の手垢に塗れた理想論を語った兄が、やけに眩しく見えた。
だから、俺たちは耐え忍ぶ戦いをしようーー。
馬鹿だな、と思った。
そんな日は絶対に来ない。この世界の誰が俺たちみたいなゴミに手を差し伸べてくれるんだ。この世には勝者と敗者しかいない。貧民街に生まれた俺たちは死ぬまで負け犬なんだ。それを覆すには、他者を蹴落とし、勝者になるしかない。管理者を抹殺し、自分たちが管理する。
カストルの足元には、事実を記した紙が散らばっていた。実力至上主義の魔法界で、魔力の欠片も無いこんな紙が、革命を齎すというのか?
兄さえ殺した自分の意志と、血を吐くような覚悟を、こんな陳腐な紙がーー!!
誰かが叫んでいる。
あの立派な大橋の上で、汚れもせず、血も流さず、まるでヒーローみたいな顔で正義を謳っている。
自分と同じくらいの子供だ。
腹を焼くような飢餓や貧困も、雨に打たれる寒さも、他人に蹂躙される恐怖も知らない子供だ。
魔力も無いのに王家に守られ、あの大橋を渡っていた恵まれた子供が、殺してやりたい程に憎らしい。
湊と呼ばれた少年が街の支配者を捕縛し、声を上げて糾弾している。
支配者ーーワサトは、唇を噛み締めて俯いていた。
あの卑怯な小悪党。お前のせいで、計画は御破算だ。
カストルは掌を翳した。
「みんなに謝罪しろ!」
湊の劈くようなボーイソプラノが響き渡る。
飢えも乾きも知らない澄んだ声だったワサトが。顔を歪め、怒鳴った。
「私は間違ったことはしていない! 私はゴミを処分して来ただけだ!」
大橋を渡る富裕層の人間は、媚びるような目で何かを囁き合っている。其処にあるのは憐憫ではなく、打算だ。吐き気がする。
対話が全てを解決するのなら、人は血を流しはしない。湊の言葉は綺麗事と理想論なのに、人を立ち止まらせるあの熱は何なのだ。
ーー俺とお前、何が違う!!
金色の閃光が走った。魔弾は、小憎たらしい湊の額を貫くはずだった。
しかし、それは別方向から放たれた光によって相殺され、星屑のように消えてしまった。通行人が悲鳴を上げて逃げ惑い、橋の上は爆発的なパニック状態に陥っていた。
建物の屋上に誰かが立っている。
逆立てた水色の髪と、宝石のような赤い瞳。カストルにはそれが誰だか分からない。
カストルには、最早ワサトも通行人も認識出来なかった。真っ赤に染まった視界に映るのは、あの憎い少年だけだった。
「君を待ってたよ」
湊はワサトを蹴飛ばすと、腰からナイフを引き抜いた。弱い日差しを受けながら、その切っ先は鋭く光っている。
カストルは苛立った。そんなちゃちなナイフで、魔法に太刀打ち出来るとでも思っているのだろうか。
「お前も殺してやる」
「ポルックスと同じように?」
感情の全てを喪失したかのような冷たい無表情で、湊が真っ直ぐに見詰めていた。
「カストルさん!」
風景の中から、一人の少年が躍り出る。
プロプスだ。ポルックスの側を子犬のように纏わり付いていた臆病者。
墨で染めたような黒髪が風を受けて揺れている。顔を歪めたプロプスは、縋るように問い掛けた。
「本当なんですか……? カストルさんが、ポルックスさんを殺したんですか……?」
カストルは諦念していた。無味乾燥な風景の中、プロプスの赤い瞳が妙に痛い。
「あいつは臆病者の負け犬だった」
「カストルさん……!」
プロプスが顔を歪めた。
湊が、凪いだ水面のように静かな声で言った。
「じゃあ、笑ってろよ」
意味が分からなかった。
仮面のような無表情なのに、その濃褐色の瞳には青白い炎が見える。
「邪魔者が消えて良かったって、笑っていれば良いだろ。被害者面するな」
何を言っている?
湊の眼差しは透き通っていた。辺りは水を打ったように静かになり、ぼやけていた視界が鮮明になる。橋の向こうには大勢のストリートチルドレンがいた。
裏切られていることに気付きもしない雑魚共だ。知能も覚悟も無く流されるだけの有象無象が、怯えたように此方を伺っている。
湊は血と泥に塗れていた。
あの時、橋の上を歩いていた少年は、自分と同じように汚れていた。
俺と何が違う。ーー何も、違わないのか?
その時、上空から空気を切り裂く音がした。
何かが落ちて来る。カストルは咄嗟に身を翻したが、それは鳥類が獲物を目掛けて滑空するようにして自身も顧みず突っ込んで来た。
「だっせぇな、湊」
猛禽類にような獰猛な眼差しがカストルを貫く。
凄まじい浮遊感と共に、カストルは湖の上に投げ出されていた。
「航!」
切羽詰まった湊の声が聞こえる。
カストルと航は、貧民用の吊り橋に墜落した。ロープが千切れ、板切れが落下する。二人は宙吊りになっていた。湖の中から獲物を求めて魔獣が顔を出す。
二人はロープの上で対峙した。
断崖絶壁の街から貧民が顔を出し、橋の上から貴族が声を上げる。
畜生。見世物じゃねぇぞ。
カストルは悪態吐いた。
航は不安定な足場に苦戦していた。カストルが掌を翳すと、金色の魔法陣から暴風が起こった。航がロープにしがみ付きながら堪えている。
プロプスが魔法陣を広げた。カスみたいな魔力しか持ち合わせなかった生まれながらの弱者だ。しかし、其処から起きた風は上昇気流となり、航の体を支えていた。
「お前の相手は俺だろ」
絶体絶命の最中、航は不敵に笑っていた。
何だ、何なんだ、こいつ等。魔力の無い底辺のゴミの癖に、何で立ち向かおうとするんだ。
橋の上から湊が何かを叫んでいる。
労わりなのか、罵声なのか、何も分からない。
ロープの上、航は曲芸師のように槍でバランスを取った。
「お前の事情なんてどうでも良い。せめて悪役らしく消えてくれ」
真紅に染まった槍が炎のように噴出する。カストルが躱すと、足元で板切れが崩れ落ちた。ロープがきりきりと悲鳴を上げている。
相対する航は明確な敵意を剥き出しにしていた。喉を掻き毟りたくなるような焦燥と、乾きに似た苛立ちが総毛立たせる。カストルは指先を突き付けた。
「俺とお前等、何が違うんだ!!」
破裂音が二つ、尾を引いて響き渡る。
不安定な足場の上、紙一重で躱しながら航が距離を詰める。稲妻のような刺突がカストルの黒髪を切り離す。息吐く間も無い攻撃に冷や汗が頬を伝った。
片手で魔法陣を展開しながら、カストルは航の顎を狙って蹴り上げた。後方に宙返りした航が落下の最中、パルチザンを構えていた。
槍の穂先で房飾りが灯火のように揺れる。それが火を噴く寸前、カストルの魔法陣は金色に発光し、辺りの空気を一点に凝縮していた。
狙い澄ました一撃は、相対する航の脳天を撃ち抜くはずだった。ーーだが、それは雨のように飛来した空気の塊によって打ち消されていた。
猛風がロープを激しく揺らした。耳障りな鈍い音がして、ロープは中央から叩っ斬られていた。
魔法陣の展開が間に合わない。
航とカストルは重力に従って転落していた。
貧民と貴族の動揺に染まった顔と褪せた街並みがスローモーションに見える。蛇のように
水面から顔を出した魔獣の濁った瞳に自分の顔が映る。
カストルは手を伸ばした。誰か、誰か助けてくれ。
思考を焼き尽くす苛烈な願いの最中、透き通るような日差しの向こうに誰かがいることに気付いた。
カストルは思わずその名を呼んだ。
「ーーポルックス?」
殺したはずの兄が真っ直ぐに見下ろしている。瞬き程の刹那、兄の幻影は消え去り、カストルは其処にいる少年の顔を見付けた。
意思の強そうな太い眉が悲痛に寄せられている。
泥と煤で汚れた貧相な仲間は、頬に一筋の涙を零していた。
プロプスだ。
向けられた掌には金色に輝く魔法陣が広がっていた。
其処で暗転。
カストルの意識は魔獣の口の中に飲み込まれ、粉々に砕けてしまった。
湖は赤く染まっていた。
新鮮な肉を求めて魔獣が暴れ狂っている。航は千切れたロープを掴みながら、餌となった少年を呆然と見ていた。
憐れな少年だった。親も無く、家も無く、貧しさの中で近くの温もりに気付くことも出来ず、ただ他者を羨み、憎む心しか持たなかった。
兄を殺し、仲間を裏切り、最期は魔獣に食い殺されるだなんて、あんまりじゃないか。
人を救いたいだなんて思わない。だけど、これではあまりにも、あまりにも虚しいじゃないか。
苦い思いが込み上げる。
金色の光が包み込み、航は橋の上へ転移した。
橋の欄干に縋るように少年が蹲っている。カストルに引導を渡したストリートチルドレンだ。嗚咽を噛み殺しながら大粒の涙を零すその姿は、絶望に満ちていた。
下世話な野次馬が、野良犬の最期を見て何かを囁き合う。手を差し伸べることもせず、立ち止まることもせず、敗者を嘲って自尊心を満たすことしか出来ない愚かな民衆だ。
笑い声が聞こえる。
負け犬の死に様を見て異口同音に囃し立てる。
馬鹿だね。愚かだね。惨めだね。ふふふ、ははは、ほほほ。
その瞬間、顳顬が痙攣する程の激しい怒りが爆発した。
「ーー笑うな!!」
その声は、奇しくも双子の兄と重なっていた。
航が目を向けた先、汚らしい格好をした湊が拳を握っていた。酷い剣幕に野次馬が停止し、辺りは静寂に包まれた。
拘束された浄化部隊が亀のように首を竦める。
湊は肩で息をしながら、血の気の無い蒼白な顔で叫んでいた。
「笑うな、笑うな、笑うな!!」
幼児の癇癪のように、湊が声を上げた。
航の中にあった激怒が凪いで行く。自分たちはいつもそうだ。航が怒っている時は湊が宥め、湊が混乱している時は航が冷静になる。
「人は傷付けられたら痛いし、馬鹿にされたら悔しいんだ! 死んだ人間は二度と生き返りはしない! 何でそんな簡単なことが分からないんだ! ーーそんなことも分からない癖に、他人の生き様を笑うんじゃない!」
……ああ、湊だ。
俺が格好良いと思う湊の正義だ。他者評価に踊らされない唯一無二の存在が凛然と其処に佇んでいる。
それがどれ程に航を救い、守って来ただろう。雨のように降り注ぐ悪意の傘となり、矢のように貫く罵詈雑言の盾となり、いつでも一番側にいた兄が帰って来た。
この街にいるどのくらいの人に届くだろう。ばつが悪そうに目を伏せる人々の中、浄化部隊の男たちが声を上げる。
「私たちは悪くない! 全部あのクソガキがやったんだ!」
こうなることは分かっていたはずだ。
生かしておく価値も無い男たちをわざわざ此処に連れて来た理由は分からない。身分の差は彼等を裁けない。
「お前のような奴がいるからーー!」
湊が顔を歪めた。その腹部は真っ赤に濡れていた。
呼吸を荒くした湊が膝から崩れ落ちる。航が駆け寄ると、湊はぐったりと身体を預けて来た。
「話すだけ無駄だ」
航が言うと、湊は意識を朦朧とさせながら言った。
「俺は人を信じたいんだ……!」
他人の嘘が分かる癖に?
航は嘲った。とは言え、用意周到な湊が取り繕う余裕も無く貫こうとした正義だ。それを守る方法は一つしか思い付かない。
その時、野次馬の人垣が二つに割れた。無人の帯となった向こう側から見慣れた青年がやって来る。
夜明けを迎えて朝陽が昇るように、惑星のような引力で視線が吸い寄せられる。臆病で卑劣なこの浄化部隊を裁ける人がいるとするなら、彼しかいない。
勝手なことをしたら、人間界へ強制送還する。
念を押すように言ったあの青年が、ぴんと背筋を伸ばして歩いて来る。
「昴」
頂点の魔法使い、王家の血を引く正当なる後継者。
昴は揺らぎもせずに目の前までやって来ると、慢心も躊躇も無く膝を突いた。藍色の瞳は湊を見詰め、痛ましげに伏せられる。
「間に合わなくてごめんな」
昴が謝ることなんて一つも無い。
勝手な罪悪感を背負われても迷惑だが、今この場で彼が弱者を労わるという事実には大きな意味がある。
昴は立ち上がると辺りを見回し、橋の下を見た。カストルの遺体は揚がらないだろう。今頃、細切れになった肉片は魔獣の腹の中だ。
「僕は昴。王家に名を連ねる犠牲の魔法使いだ」
いつの間にか定着しつつある呼称を名乗り、昴は辺りを睨んだ。貧民、貴族、中流階級。生まれ付いての身分の差が、断崖絶壁のように道を阻む。
けれど、魔法界の頂点に君臨する王家の一員ならば、この浄化部隊さえも裁ける。そうすれば、彼等を生かして連れて来た湊は報われる。
一言でいい。
彼等を罰すればいいのだ。
航は湊の腹部を止血しながら、昴の言葉を待った。
「難しいことはよく分からないけど、僕に出来る最善を尽くす」
昴は片手を上げた。航の足元には再び転移魔法陣が広がった。
強制送還かよ。航が魔法陣から離れようとした時、湊が泣きそうに問い掛けた。
「強制送還?」
「なんで? 湊が何か悪いことをしたの?」
湊は首を振った。
昴は優しく微笑むと、掌を空に翳した。雪のように白い魔法陣が街の上空に浮かび上がる。人々の動揺など毛程も気にしないと言うように、昴は笑った。
橋の下から蛍にも似た光の粒子が立ち昇る。
犠牲の魔法を使うには代償がいる。今の昴は或る程度、魔法を制御出来るらしい。犠牲の対象は、カストルを食い殺した魔獣だった。
橋を見下ろす小高い建物の屋上。
何も無い退屈な空間で、ウルが待っていた。ストリートチルドレンの少年が呆然と立ち竦む。航は湊を担いで欄干まで駆け寄った。
そして、次の瞬間、爆発音が轟いて、街を繋ぐ橋はがらがらと崩れ落ちて行った。
身分の差を象徴する無数の橋が、一つ残らず爆散する。逃げ惑う民衆と、転落する浄化部隊。ウルの魔法によって空中に停滞する昴は無邪気な子供のように笑っていた。
ーー全部、ぶっ壊してやれば?
航は其処に、父の言葉を思い出した。
ーー価値観とか常識とか、全部ぶっ壊して、また作ればいいじゃん。大丈夫だよ。二人なら出来るさ。
そうだよな。
全部、ぶっ壊して、また始めたら良い。一から作り直すのは大変な労力なのだろうが、みんなでやればあっという間だ。
再生の為の破壊。
こういう使い方もあるんだな。それにしても、昴らしくない強引な遣り方だ。本当はちょっと怒ってるのかも知れない。
蜘蛛の子を散らすようにして逃げる人々を見下ろして昴は高笑いをしていた。こんな奴だったっけ?
航が首を捻っていると、腹を押さえた湊の元に少年が駆け寄って来た。
「湊、ありがとな」
航は彼を知らない。湊の知り合いなのだろう。
湊は特定の人間関係を築かない。級友もチームメイトも、他人というカテゴリーでしか無い。だから、湊の世界は小さい。
少年ーープロプスは一度鼻を啜ると、下手糞な笑顔を向けた。
「墓石を建てるよ。ポルックスさんと仲間たち、カストルさんも」
「うん。俺もやる」
「その傷が治ったらな」
プロプスは揶揄うように笑った。
航は酷く珍しいものを見たような気がした。
湊の手には悲しくて歪なものしか無い。でも、もしかしたら、違うのかも知れない。
身分や人種の壁を越えて、二人の拳がぶつけられる。それはもしかすると、湊にとって、初めて出来た友達なのかも知れない。
胸の中で淀んでいた怒りや悲しみ、虚しさが溶けて消えて行くような気がした。航は湊の足を蹴ってやった。痛いと文句を言うが、湊は笑っていた。その双眸が潤んでいるように見えるのは、粉塵のせいなのかも知れないし、違うのかも知れない。航はどちらでも良いと思った。
それより。
「昴は、あれで良いのか?」
逃げ惑う民衆を見下ろして高笑いする昴は、正義の味方というよりも悪の親玉だ。ウルは肩を竦めて戯けた。
「良いんじゃねぇの、たまには」
湖に落ちた浄化部隊が助けを求めて踠いている。魔獣は全て消えているけれど、拘束されたままでは溺れてしまうのではないだろうか。
従者も助けるどころじゃない。混乱に陥った街を見下ろして、航も、まあいいかという心地になっていた。
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