⑼ポルックス

 航の体内時計は電波時計のように正確だ。

 それは毎日の規則正しい生活によるものである。故に、生活リズムが崩れ、自律神経が乱れると、凡ゆるものがドミノ倒しのように狂ってしまう。


 湊がいなくなってから、どのくらいの時間が経過したのか分からない。ずっと夜の中にいる。太陽は死んでしまったのかも知れない。


 手掛かりが何も無かった。

 上層部の圧力によって王の軍勢は動けない。頼りの綱であるストリートチルドレンにも活動限界があるのか、まるで雲を掴むように現状が全く把握出来なかった。


 航は居ても立っても居られずに駆け回っていた。昴やベガと手分けして探しているが、夜の街は不気味に静まり返り、手掛かりは何も得られない。


 湊が何の手掛かりも残さず、抵抗も出来ずに攫われるということ自体が非常事態だ。ウルとも連絡が取れない。


 ワサトの屋敷を襲撃しようとしたが、警備が固く、手が出せない。ウルならば潜入出来たし、湊ならば屁理屈を並べて突破出来た。無いもの強請ねだりをしても仕方が無いけれど、立ち向かうべき相手も見付けられず、自分の無力さを恨むことしか出来なかった。


 誘拐事件は地理的プロファイルが有効である。しかし、魔法界には転移魔法がある。時間も距離も手掛かりには成り得ない。湊なら、犯人像から割り出せるのかも知れない。生憎、航は湊ではない。




「どうして湊が狙われたんだろう」




 額に汗を滲ませながら、昴が言った。

 そんなこと、航が訊きたい。




「犯人が浄化部隊なら、湊を攫う理由が無い。リスクとメリットが釣り合っていない。僕なら、湊は避ける」

「だから、犯人はあの気色悪い富豪だろ。湊に執着してた」

「それでも、リスクが高い。湊と航には、王家の後ろ盾がある。王家と癒着している富豪が、それを知らないとは思えない」

「後先考えない馬鹿なんだろ」




 昴は納得行かないようだった。

 足が棒のようだ。酸素が足りず、思考回路が纏まらない。

 航は立ち止まって深呼吸した。焦っても仕方が無い。一度落ち着いて考えよう。


 どうして湊が攫われたのか。

 攫われた現場は公共の図書館で、湊の服装はストリートチルドレンとは明らかに異なる。浄化部隊に狙われる理由が無い。


 犯人は、本当に浄化部隊なのか?

 浄化部隊を名乗るのなら、独善的な大義名分を振り翳すはずだ。何の要求もしないということは、奴等の目的は浄化ではなく、殺戮だ。


 湊は巻き込まれたのではなく、個人的な理由で狙われた。それも、醜く、身勝手で、独り善がりで、下劣な執着だ。




「……僕は、疑うのは苦手だ」




 ぽつりと、昴が言った。




「湊みたいに嘘が見抜ける訳じゃないし、航みたいに勘が鋭い訳でもない。ウルみたいに豊富な経験がある訳でもない」

「何が言いたいのか、分かんねぇ」




 全く分からない。苛々する。

 航が怒鳴るより早く、昴が言った。




「何かがおかしい。不自然だ。僕等の動きは何処かから漏れてる」

「裏切り者がいるって?」

「僕等がこれだけ手を尽くしても手掛かり一つ見付けられない。情報操作されてる」




 確証は無いと言いながら、昴は確信を持っているようだった。


 クソ湊。なんでこういう時にいないんだよ。

 航は足元の小石を蹴った。美しい石畳の上を転がった小石は、闇の中に消えて行った。


 小石の転がり落ちる音が街に反響する。航は何と無く耳を傾けていた。


 ぽちゃん。

 小石は水の中に落ちたようだ。


 湖は霧雨に濡れながらも静寂を保っている。黒々とした水面に、何かが浮かんでいた。ざわりと肌が粟立つ。航は弾かれるようにして駆け出した。


 幾つもの階段を下り、水面に浮かぶ何かへ手を伸ばした。指先を掠めて逃げるそれは、紙の船であった。航はパルチザンを棒の代わりにして引き寄せた。


 紙の船は水面を漂ったにも関わらず、濡れていない。ただの紙じゃない。魔法具だ。羊皮紙のような質感に酷い既視感を覚え、その表に記された文字に心臓が大きく脈を打った。


 途切れ途切れの線が刻まれている。

 それが何か、航は知っている。




「クソ湊」




 航が呟くと、追い掛けて来た昴が小首を傾げた。

 安堵が押し寄せて、頭に昇った血が下がる。航は一枚の紙切れを握り締めた。




「それは?」




 昴が問い掛ける。航は答えた。




「湊の暗号」




 途切れた線はモールス信号である。しかも、其処にヴィジュネル暗号を組み込むという念の入れようだ。

 湊は情報の重要性を理解している。これは特定の誰かへ向けたメッセージだ。


 モールス信号なら兎も角、ヴィジュネル暗号までは解読出来ない。馬鹿湊。これじゃ、助けに行けないだろ。


 いや、この紙が流れて来たということは、湊は川上にいるということだ。助けが必要なら、暗号にはしない。


 湊は意味の無いことはしない。

 其処には必ず意味がある。


 耳鳴りがした。

 辺りから色素が失われて、モノクロに変わって行く。これまでに見て来た凡ゆる情報が集約され、目の前の暗号が木の葉のように舞い起こる。


 De omnibus dubitandum.

 全てについて疑うべし。

 フランスの哲学者、ルネ・デカルトの言葉だ。ーーなるほど、俺たちは、踊らされていたって訳か。


 船には、航頑張れ号と書かれていた。

 クソ湊。余裕じゃねぇか。




「昴、俺はやることが出来た」

「湊の居場所が分かったのか?」

「ああ」




 航は立ち上がった。




「助けはいらねぇってよ」

「無事なのか?」

「嫌味を寄越す程度には、元気だよ」




 湊がやると言うのなら、やるのだろう。

 それよりも、自分にはやるべきことがある。


 航は走り出した。









 17.青い炎

 ⑼ポルックス








 父の瞳に見た青い炎を思い出す。

 航は、あれこそが怒りの激情だと思った。


 けれど、この下水道のような地下通路の奥に座る子供の王に見た青い炎は、憤怒や悲哀とは異なるだった。


 湿った地下通路に足音が反響する。

 ろくに手入れもされない雑多な通路は、腐臭に満ちていた。点在する灯りが長い影を落とし、不気味に揺れている。


 見張りはいなかった。

 約束の通りなら、今頃はいなくなった仲間を探す為に奔走しているのだろう。難無く侵入を許したこの警備体制には疑問がある。豪胆なのか、無謀なのか、それとも。


 突然、辺りが明るくなった。

 篝火の数が尋常じゃない。籠城戦でもやる気かよ。

 玉座に座るのは子供たちの王、カストルだった。血のような赤い瞳には、鬼火に似た炎が燻っている。


 今頃になって、ウルから連絡が入った。


 王家と貴族は癒着している。その証拠も掴んでいるが、此処で逮捕したところで蜥蜴の尻尾切りになるだろう。これはいたちごっこだ。

 俺は湊のところにいる。湊と非道なゲームを仕掛けたクズ共をとっちめる。


 とっちめるってどういうことだよ。

 無駄に難解な暗号で送られて来たので解読に手間取った。


 まあ、いい。

 湊がやるというのなら、やるんだろう。




「待っていたよ」




 カストルが嬉しそうに笑った。

 待っていた。俺を? 昴を?

 航がパルチザンを構えていると、カストルは無抵抗を示すように手を上げた。




「お前の兄貴、クソみたいに賢いな。でも、詰めが甘い」

「ああ」

「あのゲームは、お前の兄貴の勝ちだよ。嬉しい?」

「別に」




 湊がゲームで負けるはず無い。


 カストルは壁に凭れて空を仰いだ。コンクリートに覆われた空は、篝火の為に煤で真っ黒になっていた。蒼穹には程遠い。


 航は低い声で問い掛けた。




「なんで、湊を狙った?」

「だって、むかつくだろ?」




 湊が、むかつく?

 当たり前のこと過ぎて、理解に時間が掛かった。




「少し先に生まれたからって、何でもかんでも優遇される。一体何がそんなに偉いんだ?」

「湊が優遇されていたことなんて、一度も無かったよ」




 神様の夢にうなされたり、他人の嘘が見抜けたり、湊の手の中にあるのは悲しくていびつなものばかりだ。羨ましいとは思わない。


 カストルは納得し難いような顔をしていた。

 航は不思議に思って問い掛けた。




「お前はそうだったのか? だから、自分の兄貴を殺したのか?」




 カストルが、奇妙な顔をした。まるで、捨てられた子犬みたいだった。

 咳払いを一つ漏らすと、カストルは逃げるみたいに話を変えた。




「……魔法界は、王家という支配者によって実力至上主義のヒエラルキーが形成されている。魔力が血筋に宿る以上、貧民は生涯貧しいままだ」

「だから、革命軍が台頭した」

「俺たちは革命軍に賛同した。だが、ポルックスは、それに反対したんだ。革命の時は必ず来る。俺たちはその日まで耐え忍ぶ戦いをしよう、と。ーー臆病者だ」




 これまで聞き及ぶ限り、革命軍とは王家の失脚を狙う武装勢力だった。だが、ストリートチルドレンをかどわかしたり、王の軍勢の腐敗を白日の下に晒そうとしたり、やっていることはテロリストだ。




「お前、騙されてるよ」




 航が言うと、カストルは目を釣り上げた。

 炎が見える。地の底に湧いたマグマのようなじっとりとした熱だ。




「シリウスさんは、俺が必要だと言った! ポルックスではなく、俺を!」




 シリウスーー。

 嫌な男を思い出す。自分たちを魔法界の戦争に巻き込み、人間界を危険に晒し、湊に大怪我を負わせた最悪の思想犯。


 激昂し叫ぶカストルに、自分の言葉は届くのだろうか。航は拳を握った。




「俺も、勧誘を受けたことがある」




 航は言った。




「南のスコーピオで、同じような誘い文句を聞いた」




 カストルが目を丸くする。

 航は苦い思い出を噛み締めながら、続けた。




「俺は、他人に血を流せと言う奴は信用出来ない」




 無血革命こそが人類の希望だ。

 中東の革命軍の言葉を思い出す。父の死んだ国の兵士だった。

 その時のほぞを噛むような苛立ちが沸々と蘇り、航は声を上げて叫び出したくなる。




「お前と兄貴がどんな関係だったのかは、知らねぇ。でも、俺の兄貴ーー湊は、そういうクソみたいなことはしない」




 自分が正しいと思えることを、自分が正しいと思えるように行動する。その責任は全て自分で取る。そういう奴だ。


 恐らく、ポルックスも。


 革命軍の本質は、シリウスというカリスマ性を持った思想犯をリーダーとしたテロ組織である。目指しているものは弱者の救済ではなく、強者の均一。魔法界に生きるものはふるいに掛けられ、外れた者は消される。


 王家の転覆後、真っ先に粛清されるのは、ストリートチルドレンのようなあぶれ者だ。美しい理想郷に貧民は必要無い。浄化部隊がその良い例じゃないか。


 その時、回廊の奥から一人の子供が駆けて来た。

 転げそうな勢いで、呼吸も儘ならない動転した顔で、一枚の紙を突き付けた。




「街中に、こんな紙が配られてる!」




 人間界であれば、取るに足らない瑣末なビラである。けれど、情報の大切さを知らない魔法界では、甚大な影響を齎すだろう。


 カストルは臨戦態勢を解かぬまま、紙を受け取った。




「王家と貴族の癒着、貧民の迫害……。非道なゲームの被害者となった憐れな子供たち……。革命軍の暗躍……」




 航は紙を奪い取った。

 カストルは魂が抜けてしまったかのような虚ろな顔付きで立ち尽くしていた。


 紙には、読者の義憤を煽るような巧みな筆調で真実が書き殴られていた。

 これはもう、ビラと呼ぶよりも、だ。航が渡したあの羽根ペンと紙で、こんなことを思い付くのは一人しかいない。


 湊。

 生きていて何よりだ。

 途端に辺りは夜明けを迎えたかのように明るく見えた。項垂れるカストルの瞳から炎が消えて行くのが分かる。


 新聞の最後には、非道なゲームの主催者にストリートチルドレンのリーダーの関与についても記されていた。やるなら徹底的に、叩くなら折れるまで。湊らしい。


 この街で起きている虐殺を明るみにする。

 優遇されている貴族は法に裁かれない。


 けれど、街の住人はどうだ?

 虐げられて来た貧民街の人間は?


 この悪行を知ってもなお目をつぶるような人々なら、もう救う価値も無い。

 少なくとも、王の軍勢は動く。王の勅命が活きているのなら、湊が巻き込まれたことは王の軍勢の汚点だ。その裏で革命軍が暗躍しているならば、介入しない理由が無い。

 今なら、革命軍ではなく、王の軍勢という正規の勝ち馬に乗ることが出来る。


 




「カストルさん、これ、本当ですか……?」

「カストルさんがポルックスさんを殺したのですか……?」




 猜疑に満ちた眼が向けられ、不協和音が彼方此方に罅を入れる。視線の先、がしゃんと、木箱のひしゃげる音がした。

 カストルは玉座を踏み潰し、額を押さえていた。




「ポルックス……!」




 憎悪と憤怒の炎が見える。

 航の目には、父を焼き、辺り一面を焦土と化したあの焼夷弾の炎が鮮明に浮かび上がった。




「てめぇ等、ぶっ殺してやる!」




 カストルが指先を突き付けた瞬間、金色の魔法陣が広がった。圧縮された空気の塊が一気に押し出され、音を立てて撃ち放たれる。


 咄嗟に身を伏せた航の頭上で空気を切り裂く轟音が鳴り響いた。暴風が回廊を吹き抜け、悲鳴が上がる。


 航はパルチザンを旋回させた。

 赤い魔法陣が浮かび上がり、パルチザンは真っ赤に熱された一本の槍へと変わる。

 両足に力を込め、右腕を振り切る。切っ先から放たれた熱波は炎となってカストルを吹き飛ばした。


 魔法陣を展開して寸前で防いだカストルが、口汚く舌打ちする。航の後方からストリートチルドレンと昴の足音が近付いていた。

 回廊は狭い一本道だ。風魔法は火魔法の熱と相性が悪い。カストルは忌々しげに顔を歪め、行き止まりの壁へ手を這わせた。


 その瞬間、壁は忍者屋敷のようにくるりと回転した。


 すぐに後を追ったが、壁はぴくりとも動かなかった。よくよく見てみると魔法陣が刻まれている。物理的な逃走経路ではなく、魔法効果なのかも知れない。

 魔法効果ならばお手上げだ。壁を殴り付けたが、魔法陣は静寂を保っていた。




「ーーくそっ!」




 駄目だ、考えろ。

 カストルは冷静じゃなかった。大人しく逃走も投降もしない。あの燃え盛るような憎悪と憤怒は何処へ向かう?


 航の頭に浮かんだのは、湊だった。

 この状況を招いた湊が狙われる。


 航はパルチザンを片手に走り出した。途中、昴と擦れ違ったような気がしたが、分からなかった。

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