⑷生贄

 重量感に溢れた鉄製の門扉は、まるで地獄の門を思わせる不吉な雰囲気を醸し出していた。


 この門を潜る者は一切の希望を捨てよ。

 ダンテ・アリギエーリの叙事詩、神曲。

 格調高い管楽器の演奏が何処かで聴こえる。


 湊は、ジェミニの街の西方部にいた。

 目の前を立ち塞がる巨大な門扉と、厳しい顔付きの門番。手入れの行き届いた緑の庭からは耳を劈くような獣の鳴き声がする。


 富豪、ワサト。

 王の軍勢であるベガの仲介のお蔭で、訪問の許可は難無く下りた。押し潰されそうな威圧感を持つ門扉が、悲鳴を上げながら独りでに開く。


 お化け屋敷みたいだね。

 湊の声は、正面から走り寄る男の足音に掻き消された。


 現れたのは、如何にも嫌味な成金風の中年男だった。脂の乗った豚のようだ。歩く度に贅肉ぜいにくが揺れる。両手は胸の前で既に擦り合わせられ、垂れ下がった目尻は白々しく見えた。

 形式張った正装と首元の白いスカーフは、最早、滑稽である。王の軍勢と昴の来訪に対して、いっそ嫌味に感じる程にへりくだっている。


 ベガは冷たい無表情で進み出ると、名目ばかりの挨拶をした。二人の会話には興味が無かった。どちらの言葉も嘘に塗れていたからだ。

 湊は促されるまま庭先へ進むと、見事な庭園を眺めた。何処の植木も花々も、不自然なまでに手入れされ、本来の美しさは見る影も無い。


 そっと航へ目配せすると、苦い溜め息を返された。

 そうだよな。航の嫌いなタイプだよな。


 へこへこと頻りに頭を下げるワサトは、想像していた以上の小物に見える。吐き出される言葉は全て嘘で、誠実さの欠片も無い。


 赤絨毯の敷かれた廊下は、50mはあるのではないかという程に長い。壁際に飾られた西洋風の甲冑や魔獣の剥製が、住人の悪趣味さをこれでもかと言うほどに物語っている。


 客用の広間には、氷柱のようなシャンデリアが吊り下げていた。天井画には、神の使いが慈悲深い微笑みで踊り、ラッパを吹いていた。


 ヨハネの黙示録。

 湊の独り言は、誰にも届かなかった。


 ベガと昴は革張りのソファへ促され、湊と航の席は無かった。従者にでも見えたのだろう。


 上滑りするような会話の応酬は聞き流していた。其処は嘘に塗れていたからだ。湊が悪趣味なインテリアを眺めていると、粘着質な声が聞こえた。




「可愛らしい従者をお連れですね」




 舌舐めずりでもしそうな、喜色に染まった声だった。


 腐った水底のような深緑の瞳が湊を捉えていた。その頬は興奮によって紅潮している。気のせいか、息も荒い。


 ベガは綺麗な作り笑顔を見せた。




「ええ。小生意気なところが特にお気に入りなの」

「良い趣味をお持ちで」




 何だ、その会話は。

 湊が呆れて溜め息を吐きそうになったその時、ワサトが嬉しそうに言った。




「おいくらでした? どちらで購入されたのですか?」




 ベガは笑顔で、答えなかった。

 その時、湊は胃の辺りに痛みを感じ、指先が微かに震えていることに気付いた。深緑の瞳は、自分を捉えて離さない。


 顳顬の辺りに鈍痛が広がり、点滅する視界に嫌な記憶が蘇る。

 夕暮れに染まる教室。冷たい机。両手を押さえる恐ろしい力。衣服を捲り上げる骨張った手の感触がつぶさに再生される。

 少女を餌にした下衆な男。ワサトの愉悦と興奮に染まった胡乱な眼差しは、あの淫行教師と同じだった。


 理解すると同時に、湊の身体は石になってしまったかのように固まっていた。生理的な嫌悪感に堪え切れず、湊は後退ってその視線から逃れようとした。

 地表が揺らいで、立っていられない。頭の中が真っ白になって、手足が冷たくなって行く。


 その時、航が湊の手を掴んだ。




「気持ち悪ぃな、テメー」




 航は侮蔑し切った顔をしていた。

 前へ進み出た航が、庇うように壁になる。其処で漸く、湊は自分が酷く混乱していることに気付いた。

 怒りに唇を震わせ、ワサトが何かを怒鳴ろうとする。刹那、昴が言った。




「この口の悪さが売りなんだ」




 昴に先手を打たれ、ワサトの怒りが萎んで行く。

 ベガは咳払いをして、再び世間話を切り出した。


 彼等の虚構の会話は、湊の耳には入らなかった。全てが雑音のように通り過ぎて行く。祈るように繋がれた弟の掌の温もりだけが、湊に実感出来る唯一の存在証明だった。








 17.青い炎

 ⑷生贄









 兄の手は、氷のように冷たかった。

 堪えるように握られた拳が震えていて、航は遣る瀬無い思いで一杯だった。

 崖の淵に独りで立ち尽くしているような孤独と恐怖が、まるで自分のことのように感じられる。


 ワサトという下衆な人間が、湊に好奇の目を向けていた。湊は表情を失くして、蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。

 何を思い出しているのかは知らないが、湊が自分自身の力ではどうしようもなかったことに対して負い目を感じ、罪悪感に苛まれる様は、見たくない。


 彼等のつまらない世間話から早々に離脱し、航は湊を連れて屋敷を出た。向かった先は緑溢れる庭園である。

 凡ゆるものが完璧に手入れされ、退屈で息苦しい箱庭だ。こんなところには一秒だっていたくなかったが、昴を置いては行けない。


 警備員らしき屈強な男達が巡回し、二人を訝しむように睨んだ。航は無視を決め込み、庭園の隅にあるベンチへ座った。


 湊は萎れた花のように俯いていた。航は掛けるべき言葉が見付からなかった。いつだって励ましたり労ったりするのは湊の役目だったからだ。




「格好悪くて、ごめん」




 ぽつりと、湊が言った。

 航は首を捻り、その意味を理解すると苛立った。




「はあ?」




 何に謝っているのだ。

 湊の悪い癖だ。航は暗雲が立ち込めるような腹立たしさを覚え、兄の後頭部を叩いてやろうかと思った。




「俺が何を格好悪いと思うのかを、お前が決めんなよ」




 ぐちゃぐちゃ悩んで落ち込んでいる姿は見っともないと思うが、だからといって格好悪いとは思わない。

 湊が悩みも迷いもしないような人間なら、航はとっくに見捨てている。


 自分たちは、言葉が足りない。

 言わなくても分かることが多過ぎて、肝心なところまで相手に任せてしまう。いざ伝えようと思っても、意地やプライドが邪魔をして、何も思い浮かばない。


 暫く二人で庭園を眺めていた。

 世間話を終えた昴とベガが入り口のところから呼んだ。航は動かない湊の腕を引っ張って歩き出した。


 ワサトは揉み手をしながら、相変わらず湊を見ていた。其処で漸く、湊の硬直の理由を悟った。

 あの気色悪い変態教師と同じだ。世間知らずの少女だけでなく、湊さえも餌にしようとした淫行教師。今頃は刑務所にいるだろうか。強姦魔に対する世間の風当たりは厳しい。きっと、二度と会うことも無いだろう。


 あの頃、自分は湊の側にいなかった。助けを求める声に気付きもしなかったし、守られていたことを知ろうともしなかった。


 ワサトは屋敷を案内すると意気込んでいたが、昴はやんわりと断った。浄化部隊の証拠を掴むには打って付けの好機だったが、元気の無い湊を気遣ったのだろう。


 この、クソ湊。

 他人に気遣われるような落ち込み方をするんじゃねぇよ。

 航が蹴り上げようとすると、ひらりと躱された。湊はポケットに手を突っ込んで、軽薄に笑っている。




「胡散臭い男だったね」




 帰路を辿る途中、昴が言った。

 昼下がりの街中は人で溢れ返っている。通行人を避けながら、ベガが頷いた。

 昴は顎に手を添えて考え込んでいるようだった。




「でも、後ろ暗いことをしているようには見えなかった」

「後ろ暗いとすら、思ってないんだよ」




 それまで黙っていた湊が口を挟む。




「賄賂も人身売買も、悪いことだと思ってないんだ。だから、堂々としてる。凡ゆるものはお金で買えると思ってる」




 驚いたようにベガの碧眼が丸められた。

 航も同意見だった。




「品性は金じゃ買えねぇ」




 湊が笑った。

 帰り道、昨日湊が行きたいと言っていた図書館へ寄った。とんがり屋根の建物の中はドーム状になり、他人の息遣いすら聞こえそうな静寂に包まれていた。


 彼方此方に衝立が建てられ、魔法陣が幾何学的に刻み込まれていた。貴族の子息らしきモヤシ共が、壁に向かってぶつぶつと独り言を呟いているので、異様な光景である。


 魔法界の図書は紙ではなく、魔法陣に情報として残されているらしい。魔法陣に手を翳すと、其処に閉じ込められている情報が声や映像として再生されるらしいが、魔力を持たない航には分からなかった。


 湊が爛々らんらんと目を輝かせていた。

 ベガの力を借りて魔法陣を広げ、嬉しそうに眺めている。余りにも何度も強請ねだるので、ベガは面倒になったのか、魔力を明け渡し、自力で読めるように操作していた。


 首から下げられたネックレスには、父の形見である天然石が付いている。体内に魔力を持てないので、何か別のものに付与するしか無い。

 航も同じように魔力を付与されたが、湊のように本の虫になろうとは思わなかった。


 一心不乱に読み耽る湊を遠くに見ながら、航はベンチに座っていた。隣では痴呆の老人みたいに、昴が天井を眺めている。




「おい、昴」




 航が呼ぶと、昴は微睡んだような目を向けた。




「何?」

「ウルとは連絡取れてるのか?」

「いや。まあ、何かあったら向こうから連絡をくれるさ」




 こいつは、何を言ってるんだ。

 楽観的というよりも、危機感が足りない。連絡を取れないような事態になっていたら、どうするつもりなのだ。

 信頼と放任は違う。何かあった時に、駆け付けられないじゃないか。


 責め立てようとしたが、止めた。自分もそうだと気付いたからだ。

 魔法界には携帯電話なんて無い。自分は魔法も使えない。

 航が黙っていると、昴は辺りに目配せして、人気が無いことを確認すると声を潜めた。




「レオの村の海蝕洞で、獣みたいな叫び声を聞いたんだ」

「獣?」

「湊は、人間の声だって言ってた」




 航は、その獣の咆哮を知っていた。

 今の今まで、すっかり忘れていた。血塗れの拷問機器が並ぶ地下空間で、四肢を拘束された子供がいた。

 衣服を纏わず、頭垢と皮脂に覆われ、獣のような四つ這いで威嚇して来たあの子供。昴の使った犠牲の魔法で、村人共々爆散したのだろう。どの道、あの場所から出たとしても幸せにはなれない。


 航も声を潜めた。




「レオの村の海蝕洞には、異端者を排除し、洗脳する為の拷問部屋があった。血塗れで、死体が路傍の石みたいに転がってた。その中に、生きた子供が一人いた」




 あの部屋に入った時、航も湊も堪え切れず逃げ出した。航は、嘔吐する湊の背を撫でていた。


 あの村はおかしかった。時代遅れの因習に支配され、逆らう者には躊躇いも無く、血の粛清を行なっていた。しかし、恐らく、あれは氷山の一角なのだ。同様の支配は表出しないだけで、各地で行われている。


 昴は何か思うところがあるのか、痛ましそうに目を伏せていた。




「あの叫び声を聞いた時、まさか、人間の声だとは思わなかった」




 自分たちも、目の当たりにしても尚、人間だとは信じられなかった。他者の思想をコントロールする為に行われる拷問が、あれ程に醜く、悍ましく、苛烈を極めるものだと思わなかった。


 人間は、もっとマシな生き物だと思っていた。


 昴は言った。




「以前、シリウスに精神干渉の魔法を掛けられたことがある。その時に、異端者審問を見せられた」




 昴は蹲るようにして、背を丸めていた。

 その声には苦渋が滲んでいる。


 シリウスと聞いて、神経がささくれ立つ。あのいけ好かない男に、言ってやりたいことがある。




「シリウスは、異端者審問による迫害の犠牲者だった」




 航は、昴の言葉を聞いて、何かが引っ掛かった。


 シリウスが犠牲者?


 異端者審問というからには、王家に従わない思想を持っていたのだろう。しかし、能力至上主義の魔法界で、シリウス程の強者が迫害されるとは思えない。むしろ、諸手を挙げて歓迎されただろう。

 王家信仰に従わない理由が無い。迫害されたのは、別の理由だ。


 思考回路は絡まった糸のようだった。

 一つずつ解きほぐすような作業は得意ではない。こういうのは、湊の方が向いている。


 自分だけで考えていてもらちが明かない。

 航は顔を上げた。モヤシの群れに混ざる兄の姿を探した。。受付の近くにベガがいたが、一人きりだ。




「湊?」




 航は立ち上がった。


 いない。いない。何処にもいない。

 胸騒ぎがした。航は昴の制止を振り切って走り出した。モヤシ共が何事かと奇異の目を向けて来るが、構わなかった。




「湊!」




 一階、二階、トイレ、衝立の裏。

 図書館の中を駆け回ったが、兄の姿は何処にも無かった。


 湊は、幻のように忽然と消え失せていた。

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