⑶不穏

 湿気を帯びた夜風が頬を撫で、街路の奥へと消えて行く。


 昼間とは異なる街の静けさは、まるで地中深くに蠢く羽虫が、出口を求めて一斉に這い出す寸前のような物騒な気配に包まれていた。


 明かりの灯った街の片隅に、看板も無い小さな酒場があった。風が吹けば吹き飛ばされそうなトタンの屋根と、張りぼてみたいな煤けた漆喰の壁。嵌め込まれた両開きの扉は金具が錆び付いて、開閉する度に悲鳴を上げる。それは忘れ去られた物置小屋の様相を呈し、街の風景へと溶け込んでいた。


 酒場の窓に映る二人の影を、湊はぼんやりと眺めていた。


 頭が痛かった。

 何かを考えなければと思うのに、頭の中がぐちゃぐちゃになって、纏まらない。一つ息を零す度に溺れてしまうような錯覚に陥って、立っていられない。

 弱い自分を誰かに見せることが恐ろしくて、適当な言い訳を並べて店を出たところだった。待ち人はまだ来ない。


 雨の匂いがした。

 雨は嫌いだ。頭が重くて、体が上手く動かない。


 ガーベラに似た虹色の花が花壇に咲き乱れている。通り過ぎる人々は湊に無関心で、目もくれずに目的地へ向かって行く。世界中に独り取り残されてしまったみたいだ。




「何を不貞腐れてんだよ、湊」




 声が聞こえて、湊は顔を上げた。

 暖色の街灯の下で、航が見下ろしている。気付くと街の喧騒も夜空も息苦しさも遠去かって、泡のように消えてしまった。


 航は溜息を一つ零して、隣に座り込んだ。




「俺等ってさ、言葉が足りねぇよ。そういう努力をして来なかったから」

「例えば?」

「自分の気持ちとか、考えとか。色んなものを頭の中で帰結してるから、可能性を見落としてる」

「そうかな」

「そうだよ。昴が怒ってたのは、そういうところだろ」




 航は、ぼんやりと街並みを眺めていた。

 濃褐色の瞳に映る街の灯りがきらきらと輝いて見える。その時、航は何かを思い立ったかのようにポケットを探った。




「お前に渡すものがあるんだ」




 押し付けるように手渡されたのは、分厚い紙の束と羽根ペンだった。


 掌程の紙の束は真っ新で、百枚以上重なっていることは分かるのに、めくることが出来ない。

 ペンにはとんびのような茶色のしまのある羽根が付いていた。インクも無いのに、その筆先は滑らかに紙の上を走った。試し書きを終えると、一枚目の紙が、剥がれて消えた。


 魔法具だ。

 恐らく、決して高価ではない日常的な消耗品。

 人間界の携帯電話やタブレットの下位互換だ。

 じっくりと観察していると、航が言った。




「お前、エレメントを召喚する為に、血で魔法陣を描いただろ」

「うん」

「もう二度とすんな」




 航は静かだった。

 その双眸だけが刃のように鋭く光っている。




「自己犠牲なんて、今時、流行らねぇんだよ」




 吐き捨てるような航の言葉に、湊は苦く笑った。




「ペンは剣よりも強しって訳だ」




 湊は白紙の束と羽根ペンをポケットへしまい込んだ。航はくるりと背を向け、店内へ向かおうとしていた。その耳が薄っすらと赤く見えて、微笑ましい気持ちになる。照れ隠しなのか何なのかよく分からないが、お蔭で気持ちは上向きになっていた。




「航、ありがとう」

「うるせえよ、馬鹿湊」




 つっけんどんな航を追いかけて、湊は酒場の中へ向かった。悲鳴を上げる扉を押し開けると、昴が微睡んだ目を向けて来た。航の合流に驚いたような顔をしたが、特に追及はしなかった。湊はぐるりと店内を見渡した。


 カウンター席が五つと、テーブル席が二つ。

 内装は小綺麗に纏まっているものの、店内は驚く程に狭い。酒瓶の陳列棚が左右から迫って来るような酷い圧迫感に、酔いそうだった。


 客はいなかった。すっと背の高い女店主がせっせとグラスを磨いていた。湊と航の来店に気付くと、女店主は手を止めて、口元に微かな笑みを浮かべた。


 滑らかな鴇色の髪を頭頂部で一纏めに結び、長い睫毛に彩られた瞳は鮮やかな銀朱である。

 優しそうな綺麗な人だ。


 湊と航は昴の隣へ座った。

 女店主はカウンターに肘を突き、甘えるような猫撫で声で問い掛けた。




「何か飲む?」

「アルコールの入っていないものを、二つ」




 女店主は、鈴を転がすように控えめに笑った。

 差し出されたグラスには、青い半透明の液体が入っていた。食欲を減退させる不気味な色合いだ。

 湊は手前に引き寄せつつ、口は付けなかった。航は不機嫌そうに口を尖らせて、隣へどかりと座った。背中を丸めて、酒瓶の並ぶ棚を睨んでいる。


 透明なグラスには、若葉のような模様が浮かんでいた。航は鼻先を近付けて嗅いだ後、やはり、口を付けなかった。




「ウルはどうしたの?」

「仕事」




 世間話のように昴が尋ねると、航がぶっきら棒に答えた。そのまま会話が途切れてしまいそうだったので、代わりに湊は問い掛けた。




「目ぼしい情報はあった?」

「今、この場で話すことは何も無え」




 ああ、そうか。

 湊は頷いた後、女店主へ向き直った。




「ねえ、お姉さん」




 湊が声を掛けると、女店主は手を止めた。

 一括ひとくくりにされた鴇色ときいろの髪が腰の辺りで揺れている。




「お姉さんは、王の軍勢なの?」




 女店主は可笑しそうに口角を釣り上げた。




「いいえ。私はアルヘナ。王の軍勢御用達の情報屋よ」




 宜しくね、おチビさん。

 子供を宥めるように、アルヘナは穏やかに言った。


 情報屋。嫌な響きだ。

 ウルがいなくて、良かった。昴が独りちた。


 航は興味も無さそうに目を背けていた。

 王の軍勢御用達ということは、中立とは言い難いが、敵ではないのだろう。今のところ、アルヘナの言葉に嘘は無い。


 店内に他人の気配は無い。裏取引をするには打って付けの場所なのだろう。湊は提供されたグラスを端に避けて、カウンターに肘を突いた。




「情報屋って、報酬さえ払えば、どんな情報も売ってくれるの?」

「ええ」




 情報は大切だ。


 何を訊こうかな。

 湊が考えていると、航がそれを遮った。




「浄化部隊について教えて欲しい」

「浄化部隊?」




 昴が復唱した。

 湊の脳裏には街で見掛けたストリートチルドレンや浮浪者の姿が浮かび上がった。アルヘナは不遜に微笑んでいた。




「報酬を支払う準備はある?」

「ああ」

「介入する覚悟は?」




 航が答える前に、昴が口を挟んだ。




「待て。猛烈に嫌な予感がするんだけど」

「諦めろ。そういう星の下に生まれたのさ」

「お前等、性質が悪いな」

「正義の味方を名乗ったのは、昴だろ」




 頭痛を堪えるように額を押さえて、昴が呻いた。

 気の毒だが、仕方が無い。湊はポケットから円盤状の魔法具を取り出した。表面には数字が浮かび上がっている。

 キャンサーの街で得た通貨だった。王家に認められてはいないけれど、魔法界の人々が価値を認めている以上、通貨として機能するはずだ。


 アルヘナは数字を見ると納得したように頷いた。




「浄化部隊は、この街に相応しくない、或いは望ましくない集団の抹消を目的に活動する武装組織よ。今のところ、ターゲットになっているのは貧民層の人間ね」

「ということは、浄化部隊は富裕層の人間?」

「恐らくね。この組織のトップにいるのは、街の支配者である富豪よ。確かな証拠も無いし、凡ゆる意味で、貧民層の人間には太刀打ち出来ない相手ね」

「ガードマンでもいるのか?」

「腕の良い魔法使いと、王の軍勢が守ってるわ」

「王の軍勢が守る理由は何だ?」

「彼等は王家へ視肉を提供する従順な後援者なの。強大な魔力を宿した正当な血筋だし、敵対する理由が無いわ」




 視肉とは、人柱のことだ。浄化部隊が提供しているのは、貧民層の人間だろう。

 気分の悪くなる話だ。人間界ならとんでもないスキャンダルだが、報道機関の無い魔法界では、やりたい放題だ。


 湊は、隣の航を見遣った。わざわざ訊くからには、理由があるのだろう。正義の味方を名乗る以上は放って置けない悪党ではあるけれど。




「カストルってガキについては?」

「ストリートチルドレンのリーダーね。街の東西に分かれて、兄のポルックスとストリートチルドレンを纏めていたわ。だけど、ポルックスは三日前に殺された」

「犯人は、浄化部隊なのか」

「そうよ。仲間を庇って殺されたの。正義感に溢れた優しい子だったわ」




 航は黙って考え込んでいた。

 自分たちは言葉が足りない。けれど、弟が何を考えているのかは、手に取るように分かる。




「その富豪の居場所は分かるか」

「おい、航」




 流石の昴も不穏な空気を察したらしく、慌てて止めに入った。




「お前、それを知ってどうするんだ。襲撃でもするつもりか?」

「そんな野蛮なことはしねぇ。でも、情報の真偽を確かめたい」




 航は冷たい無表情で、それまでに入手した情報を話した。

 ストリートチルドレンの消失と、浄化部隊の暗躍。革命軍の情報を手に入れる為に交わした取引。その場にいられなかったことが歯痒い。

 航が慣れない取引をしている間、湊は街の雑踏の中で面倒を起こし掛けていた。これでは、役割が逆じゃないか。


 昴は深い溜息を吐いた。

 湊は苦言を呈される前に言った。




「その富豪のところへ行ってみたい。真偽不明の情報じゃ、取引出来ない。上手くすれば、革命軍の動きを知ることが出来て、心強い味方が得られる。でも、これを黙って見過ごせば、後々面倒なことになる」

「リスクは?」

「俺たちは確かめるだけさ。介入はしない。約束する」




 嘘じゃなかった。

 昴は頭を抱えたまま、胡乱な眼差しを向けて来た。




「お前等、此処に来た目的を忘れてるんじゃないだろうな」

「もちろん」




 湊が答えた時、まるでタイミングを見計らったかのように扉が開いた。

 金色の髪を風に踊らせた碧眼の美女だ。その登場はまるで、夜の街に太陽が昇ったかのようだった。


 ベガ。

 昴が呼ぶと、彼女はそっと微笑んだ。









 17.青い炎

 ⑶不穏









「その富豪って言うのは、ワサトのことね」




 黄金色のカクテルを片手に、ベガは苦々しく言った。

 ジェミニの街の支配者、富豪。嫌な符号ばかりが集まっている。


 与えられる情報が全て真実とは限らない。

 昴は、黙ってベガの話へ耳を傾けていた。




「あまり良い噂は聞かないわ。裏取引で成り上がった下衆な男よ」




 ベガは嫌そうに溜息を吐いた。




「ワサトの屋敷へ行くのなら、私も同行するわ。王の軍勢がいると分かれば、強硬手段には出ないでしょう」

「それじゃ、何の意味も無いだろ」




 呆れたように航が言った。

 その通りだ。仮に、そのワサトという富豪が悪者だとしても、証拠が無ければ何も出来ない。


 昴は暫し考え込むように俯いた。湊はポケットに手を突っ込んで、背凭れに思い切り身体を預けた。反動で椅子が軋む中、湊は白い歯を見せて悪戯っぽく笑っていた。




「行ってみないことには、何も始まらないよ。王の軍勢がいるなら心強い」




 王の軍勢がいると分かれば尻尾は出さないだろう。しかし、王家としても浄化部隊の存在は無視出来ないはずだ。


 湊の横、航が猫のように欠伸をする。

 不良少年に見えるが、彼等の生活は模範的に規則正しい。普段ならもう寝ている時間だ。


 仕方無い。

 ウルと連絡が取れないのが痛いが、ベガがいれば或る程度の騒動は避けられるだろう。




「今夜はもう遅い。明日にしよう」




 ベガは頷いた。


 明日の朝に件の富豪宅を訪問する約束を交わすと、湊が勢い良く立ち上がった。

 傍目に見る限りでは利発で可愛らしい子供なのだけど、内面があまりに成熟しているので、昴はつい庇護対象から外してしまう。


 湊はポケットに手を突っ込んだまま笑っていた。航も眠そうに目を擦り、ポケットへ手を入れている。双子というには似ていないが、ふとした動作が重なる様は見ていて微笑ましい。


 街の西に宿を取っていた。

 ベガと別れた後、三人で並んで歩いていると、浮浪者の恨めしそうな眼差しを痛い程に感じた。


 貧富の差は大きい。昴は人間界で見た被災地を思い出し、遣り切れない思いになる。浮浪者の中には年端も行かない子供もいた。誰も彼も骸骨がいこつのように痩せこけて、ボロ切れみたいな衣服を纏っている。




「他人行儀な同情が、相手を一番傷付ける」




 視線は前に固定したまま、航が言った。

 航らし過ぎる言葉だ。昴は苦笑した。

 湊は遠くをぼんやりと見詰めながら、思い出したように言った。




「この街には教育があるんだね」

「教育?」




 湊は夜の闇に染まる街の向こうを指差した。

 針のような屋根を連ねる大きな建物が並んでいた。今は死んだように静まり返っているが、昼間はそれなりに賑やかなのだろう。




「富裕層の子供はみんな、モヤシみたいだったろ。家に閉じ籠って勉強ばかりしてるんじゃないかな」

「それって、経験談?」

「俺ってモヤシみたい?」




 湊が笑った。

 久しぶりに見る、彼本来の明るく無邪気な笑顔だった。昴は胸の中に痞えていた不安が溶けて行くような安心感を抱き、そっと息を漏らした。




「俺、彼処に行ってみたいな。図書があるなら、読んでみたい」




 そのくらいなら、許可してやりたいと思う。

 湊は大変な読書家らしい。魔法界に図書という概念があるのかは分からないけれど、彼ならば昴以上の収穫を得るだろう。


 明日はワサトの邸宅を訪問する予定がある。

 早めに切り上げて、湊を連れて行ってやろう。

 昴はそんなことを考え、とんがり屋根をぼんやりと眺める湊の肩を叩いた。

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