⑶裏切り者
浮雲に似ている。
昴はそう思った。対峙する青年は
トーナメントで航と対戦した時も、やけにあっさりと降参した。その時の航が酷く辛そうな顔をしていたから、何か状態異常を受けたのかも知れない。
得体の知れない不気味さがあるのに、敵意は微塵も無い。そういうところも、気味が悪い。
リゲルは、青い瞳を煌めかせて微笑んでいる。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
「そうだね」
昴は答えた。
自分達は仲間が欲しい。あのトーナメントと所信表明を見て、仲間になりたいと言うのなら、拒む理由は何も無かった。
リゲルは昴の隣の席を引いて、さも当然のように座ろうとする。だが、警戒を滲ませたまま、ウルが低く言った。
「革命軍が何の用だ」
その瞬間、まるで蝋が溶けるように、リゲルの柔和な笑みは陰湿で嗜虐的なものへ変わった。
革命軍ーー。
王族支配に警鐘を鳴らし、民衆に武装蜂起を促す革命軍。リゲルは、その一員だと言うのか。
昴が言葉を失っていると、リゲルは意地の悪い笑みを貼り付けて言った。
「これはこれは。王家の裏切り者、元王の軍勢のウルさんじゃないですか」
王家の裏切り者?
昴は耳を疑った。
王の軍勢は、王家に従う魔法使いの軍隊だ。昴が人間界にいた頃も、魔法界へ戻って来てからも、彼等は人を人とも思わぬ傲慢な態度で、民衆を虐殺して来た。
ウルは顔を顰め、口汚く舌打ちした。
否定しない。本当のことなのだ。ウルは、あの非道な王の軍勢の一員だった。
余りのことに何も言えずにいると、リゲルは小首を傾げ、楽しそうに続けた。
「おや? 言っていなかったのかい?」
昴もウルも、黙り込んでいた。
酒場はお祭り騒ぎなのに、周囲だけが水を打ったように静まり返っている。
「王直属の諜報部隊。
なんだそれ。
此処に透明人間がいたら、鼻で笑っていたのではないだろうか。
ウルは苦々しい顔で目を逸らした。昴は追求することが出来なかった。
王家の裏切り者。元諜報部隊。暁の蝙蝠。これまで正体不明だったウルの情報が一度に加えられて、全く理解出来ない。
リゲルは
「裏切り者が里帰りかい? 懐かしの故郷はどうかな? 人は
何だ。彼等は何の話をしているのだ。
自分を挟んで投げ掛けられる悪意に満ちた
「ウル、行こう」
昴はウルの手を引いた。
此処は安全じゃない。今の自分達には戦う手段が無い。少なくとも、こんな訳の分からない青年の心無い言葉になんて耳を貸す道理は無い。
顔色悪く俯いたウルの手を引き、酒場を出る。その背中で、リゲルが言った。
「気を付けるんだよ。その男は蝙蝠なんだ。裏切りはお手の物さ」
扉が閉じた。
14.悔ゆる道を辿る
⑶裏切り者
ウルは何も言わなかった。
説明も弁解もしない。追求するべきなのかも知れない。だが、自分は仲間だ。信じる覚悟無く、信じて欲しいだなんて言ってはいけない。
例え、過去に何があったとしても、ウルを信じる。
二人で街を彷徨った。
夜の街は、昼間とは異なる活気に包まれている。酒精を漂わせた男達が肩を組んで歩き、鮮やかなドレスを纏った踊り子が泳ぐようにステップを踏む。女主人の威勢の良い声が酒場から飛び出して、街路はオレンジ色に照らされていた。
二人は喧騒から離れ、街を見下ろす階段の上に並んで座った。湿気を帯びた夜の風が頬を撫で、肌寒いくらいだった。
ウルはむっつりと口を噤んでいた。昴も掛ける言葉が無い。自分に出来るのは、虚勢であっても、普段通り振る舞うことだけだ。
ウルは膝を抱えていた。それはまるで、親に叱られた子供のようだった。
夜の闇が深くなり、街から人が消えた頃、漸く二人は宿屋へ戻った。女主人は寝巻きのまま、掌に灯を浮かべて出迎えてくれた。寝惚け眼を擦りながら夕飯が残してあると教えてくれた。昴もウルも、食欲は無かった。
昴が風呂に入り、就寝の支度をしていた頃、ウルはぼんやりと窓の外を眺めながら酒を
仕方無く酒を取り上げた。ウルは驚いたように瞬きをしたが、何も言わなかった。
幻の魔法は解けているはずなのに、崩れ落ちるように机に突っ伏す様は、本当に幻でも見ているみたいだった。
耳まで真っ赤にしたウルが、
「……何処まで行っても……いつまで経っても……過去が追い掛けて来る……」
「ウル?」
微睡んだ赤い目は、焦点を結んでいない。
半分意識を落としながら、ウルは縋るように昴の腕を握った。
「俺は……絶対に見捨てねぇ……」
其処で、ウルの手は解け落ちた。
寝息が聞こえる。勝手なものだ。
昴はウルの身体を引き摺ってベッドへ押し込んだ。
翌朝、ウルは二日酔いに
たらふく水を飲んで、昨夜の夕飯を食べた。出来立てでも美味くないのに、冷えてしまうともう食べられたものではない。
魔法界の主食は視肉と呼ばれる魔法生物の肉と、芋類だ。冷えてぼそぼそになったハッシュドポテトみたいなものを水で流し込み、昴は溜息を零した。
食後のドリンクを啜りながら、ウルは三日三晩歩き続けたかのような疲労感を滲ませて言った。
「この街から出よう」
昴は迷った。
革命軍がいたということは、安全ではないということだ。だが、王族も革命軍もいない場所なんて無いのではないだろうか。
思い浮かぶのは、アルゲティの雑貨屋だ。ウルの知り合いならば一先ず信じてみても良い。彼がもしも裏切るのならば、ウルの転移魔法で逃げて、精霊界で態勢を立て直したって構わないのだ。
ウルもそんなことは分かっているだろう。
それでも此処を嫌がるのは、やはり、昨夜のリゲルの言葉が関係しているのだと思う。何処までが真実なのか分からないが、此処がウルの故郷というのは、嘘じゃないのかも知れない。
こんな時、湊がいたら良いのだけど。
そうしたら、アルゲティの提案の言質も取れる。リゲルの言葉の真偽も探れる。それが万能なものかは知らないが、まるで砂を掴むような現状は打破出来ただろう。
いないものは仕方無い。
昴はドリンクへ口を付けた。ーーその時だった。
入口から凄まじい爆音が鳴り響いた。店内は爆風と熱波によって吹き飛ばされ、昴は受け身を取ることも出来ず床へ投げ出された。
悲鳴が木霊し、高温に視界が歪む。何かの焼ける嫌な臭いが漂う。遠退き掛けた意識は、足並み揃えた
白銀の群れが迫っていた。怯えた客や従業員が逃げ惑い、辺りは
王の軍勢だ。五芒星のエンブレムが鋭利な光を放ち、一糸乱れぬ統率された動きで建物を包囲する。指揮官らしき男が、恫喝するように昴を見下ろしていた。
「見付けたぞ」
ぞわりと、背筋に冷たいものが走る。
咄嗟にナイフへ手を伸ばす。だが、先程の襲撃で吹き飛ばされたのか、其処には何も無かった。
男の踏み鳴らす足音は地響きのようだった。昴は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
何故だ。何故居場所が分かった?
自分達の正体は明かしていない。行方だって告げていない。リゲルや王の軍勢は、どうして此処にいる?
爆風によって、自分に掛かっていた幻も消えてしまったようだった。多勢に無勢な上、丸腰だ。抵抗の手段が何も無い。男の手が伸ばされる。
昴の目に、赤い光が見えた。それは一瞬で男の頭を掴むと、瓦解したカウンターへ叩き付けた。堪らず悲鳴を上げた男の顔面には、割れたグラスが幾つも突き刺さっていた。
「逃げるぞ!」
ウルだ。
小さなナイフを片手に、ウルが叫ぶ。王の軍勢が魔法陣を展開し、壁のように取り囲む。ウルは獣のように身を低くしてその足元をナイフで払った。
血飛沫が舞う。街の被害なんて取るに足らないと言わしめるように、広範囲の爆撃が放たれる。ウルは紙一重で躱しながら、確実に包囲網の外へ近付いていた。昴はその後を追った。
店を飛び出した昴は、巻き込まれまいと逃げ出す住民の恐怖の目に晒された。酒場も宿屋も最早跡形も無く崩壊し、襲撃に巻き込まれた客が血を流して倒れている。
自分が巻き込んだ。
苦い後悔が押し寄せる。しかし、立ち止まる訳にはいかない。昴が地面を蹴った瞬間、誰かが叫んだ。
「裏切り者のウルだ!」
ウルは、急ブレーキでも掛けられたみたいに足を止めた。そのほんの僅かな
ウルの呻き声が聞こえた気がした。
昴の身体は見えない鎖に巻き付かれたかのように動かなくなり、瞬きする間も無く拘束されていた。
王の軍勢が取り囲み、鬨の声を上げる。昴は街路に叩き付けられながら、周囲へ視線を巡らせた。
幼い少女が、血塗れの母へ縋り付いて泣き叫ぶ。
崩壊した酒場を前に、女主人が絶望の顔で膝を突く。
臓物を零す夫を呼び掛ける妻が、悲壮な悲鳴で揺り動かす。
此処は地獄だ。
昴は、勇み喜ぶ王の軍勢に、殺意にも似た憎しみを抱いた。
ウルはいなかった。間一髪のところで逃げたのかも知れない。そう願ったが、昴の耳元で、此処にいない少年の声が蘇った。
ーー親父は中東の紛争地で活動中、拠点を空爆されて、消し炭になった。帰って来たのは、左手首から先だけだった。
嘘だろ。
昴は零した。そんなはずは無い。ウルは要領が良い。きっと無事だ。そう思うのに、
縄を打たれ引き倒されながら、昴は懸命に辺りへ目を向けた。畏怖、同情、悲嘆、憎悪。あの赤い瞳は何処にも無い。街の住民が遠巻きに眺めている。
あれがスバル?
第三勢力の?
正義の味方?
疑念が彼方此方で芽を出している。王の軍勢は大口を開けて笑っている。
自分が下手を踏んだこと、その報復を受けることは構わない。だが、どうして無関係な人々が傷付かなければならないのだ。
王族が武力で抑え込もうとする程に民は離れ、革命軍は力を増す。血の流れない革命なんてものは理想論だ。犠牲になるのはいつの時代も弱い人々なのだ。
彼等にとっては取るに足らない路傍の石なのだろう。けれど、彼等にも人生があり、生活があり、大切な人がいる。どれだけ大きな力があっても、どれだけ多くの部下を従えても、それを踏み躙って良い理由にはならない。
どうして、それが分からない!
街路の向こうの建物の上に、リゲルが立っていた。
「だから、言ったでしょう」
青い瞳は、そう言っているように見えた。
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