14.悔ゆる道を辿る
⑴カプリコーン
夢を見た。
人間界の2LDK一階家屋で、仏頂面の透明人間が黙々と読書に勤しんでいる。キッチンからは食欲唆る香ばしい匂いが漂って、家の中は微温湯のように静かで穏やかな日常に包まれている。
キッチンではヒーローが食事の支度をしていた。昴の視線に気付くと、彼はいつもの輝くような笑顔を浮かべ、少年みたいな声で言った。
「これは夢だよ」
柔和な表情から掛け離れた絶対零度の声は、空気に
闇の中に取り残された昴は、堪え難い孤独感に寒気を覚えた。辺りはしんと静まり返り、人の気配も無い。何処かから夜明けのような光が差し込み、周囲を朧に照らし出す。四方を石壁に囲われた其処は、牢獄だった。
何処かで水滴の落ちる音が聞こえる。壁には爪を立てた赤い筋が無数に走る。冷たい地面には、昴が過ごして来た牢獄の日数が刻まれていた。
逃げ場の無い絶望の淵に、一本のロープが差し出される。轟音と共に壁は破壊され、零れ落ちる紅蓮の炎が網膜を焼く。
激しい炎の中で、真紅の瞳を輝かせたロキが手を伸ばした。昴がそれを取る刹那、彼は愉悦に口角を釣り上げて言った。
「これは夢だ」
転落感。
次に昴が見たのは、陽の当たらない王宮の一室だった。寒気の吹き込む窓辺に置かれた天蓋付きベッドには、傷んだ藍色の髪を垂れ流す女性がいた。
昴の存在を知覚した彼女は、美しい面に隠しようの無い疲労感を滲ませて微笑んだ。夜空に似た瞳が自分を映している。見たことも無いはずの幼い姿だった。
痩せた掌が昴の頭を撫でて言った。
彼女――母は、この世の不幸を一身に背負ったような絶望に打ち
「これは夢よ」
木枯らしが吹き込んでいる。
紅葉した落ち葉が舞い起こり、目の前の全てを覆い尽くす。吹き付ける風から身を守り、昴が腕を下ろすと、其処には豪奢な王宮の赤絨毯があった。
煌びやかな王の間は、屈強な近衛隊によって包囲され、最早鼠一匹逃れられはしない。蝋燭に灯るオレンジ色の光が玉座を照らしている。
昴が顔を上げると、首に繋がれた鎖が鳴った。腕は煙突掃除でもした後みたいに煤で汚れ、美しい広間の中で異質な汚点になっている。
玉座では、透き通るような金糸の髪を持つ少年が、退屈そうに足を組んで見下ろしていた。藍色の瞳には、まるでヘドロを見るような侮蔑と嘲笑が残酷に浮かんでいる。
玉座に座る少年、レグルスは昴を冷ややかに見て言った。
「これは夢さ」
途端、足元には穴が空いた。重力に従って落下する昴を、レグルスが嗜虐的な笑みで見ている。
昴には、何が夢で現実なのか解らなくなっていた。全ては昴の過去だ。自分が見ているのは過去の投影、夢なのだ。
覚醒を求めて足掻くが、指先は虚空を裂き、何も掴まない。胃の中が引っ繰り返るような浮遊感と絶望感。昴はそれでも手を伸ばすことを止められなかった。
全ての思い出が遠去かった闇の中、昴は赤い光を見た。水色の髪を逆立たせた青年が、藻掻くばかりだった昴の腕をしかと掴んでいる。
ウルは、口の端に挑発的な笑みを浮かべていた。
「起きろよ」
その瞬間、昴は覚醒した。
机に突っ伏して眠っていたらしく、身を起こした反動で大きな音が鳴った。隣に腰掛けていたウルは、夢の中と同じ赤い瞳を真ん丸にしていた。
びっくりした。
ウルの独り言を横に、昴は酷い気怠さに額を押さえた。
湊と航を人間界へ送還し、昴は今後の作戦を立てる為に精霊界へ来ていた。
エレメント以外には存在しないという美しい世界は、幻想的でありながらも何処か牢獄に似た虚しさを感じさせた。
精霊会議で使用した屋敷の応接室が、取り敢えずは自分達の本拠地だった。此処ならば王族も革命軍も攻めては来られない。
魔法界に蔓延する王族信仰と、それを打ち倒そうとする革命軍。どちらにも正義があり、信念を貫こうと血を流している。王族が勝てば、革命軍は粛清され、支配は続くのだろう。革命軍が勝てば、王族信仰の洗脳は解かれ、取って代わるのだろう。
だが、昴は其処に疑問を抱く。
殺し合いしか無いのだろうか。犠牲は必要なのか。支配者のいらない世界は成立しないのか。
根拠の無い理想論だ。しかし、昴は、人間界からやって来た二人の少年に可能性と言う名の光を見た。
引き金を引かせない、救済を必要としない社会。
実現する力があれば、それは夢物語ではない。
スコーピオの地下格闘技大会で所信表明を果たした昴は、その余波をまだ確認していない。王族でも革命軍でもない第三勢力は、魔法界でどのように認識されているのだろう。
道化と思われているかも知れないが、あの時に見せた昴の魔法陣は本物だ。決勝戦まで善戦した双子の存在は、あの場にいた観客全てが知っているはずだ。正義の味方と名乗った自分達の戦力は、底知れないものと思っただろう。
湊と航がいないので、実質二人きりなのだが、形式上はエレメントも味方に付けている。後は、その名に恥じない活躍をするしかない。
「ジェミニの街へ行こう」
魔法界の地図を指して、ウルが言った。
コインのような魔法界の東は、風のエレメントであるシルフが統治する地域だ。死の砂漠に囲まれた最悪の治安のスコーピオに比べ、東は王族に近い分だけ穏やかだと言う。王族に弓を引く自分達にとっては敵地に等しいが、だった二人しかいない分、引っ掻き回すには身軽で丁度良い。王族もまさか、いきなり懐へ飛び込んで来るとは思うまい。
円卓の向こうでは、何を考えているんだか解らない顔でロキが腕を組んでいた。
湊と航がトーナメントで善戦したことを聞いても、ロキは不敵に笑っていただけだった。自分達の戦力は、はっきり言ってエレメント頼みだ。湊と航の送還は痛手ではあるが、子供の彼等に期待してはならない。
「東を攻めるには、戦力が乏し過ぎるぜ」
ロキが言った。
ウルは苦い顔で口を結ぶ。昴が代わって言った。
「戦力の乏しさは解ってる。だからこそ、拡大する為に行動を起こさなきゃいけない」
「お前は馬鹿だなあ。あのガキ共の方が、まだ察しが良いよ」
意外にも、ロキはあの二人のことを高く評価しているらしい。特異点と呼ばれるだけの存在なのだから、当たり前のことなのかも知れないが。
「南で派手にやったから、今度は全く別の場所に行きたいんだろ。だが、東は王族の支配が強い。革命軍に喧嘩を売ったその足で、今度は王族の元へ行くのか?」
「じゃあ、ロキはどうしたら良いと思うんだ。代替案の無い反対意見は野次と同じだ」
湊と航が言ってた。
ぽつりと付け足すと、ロキは呆れ切ったような深い溜息を零した。
ロキは立ち上がり、地図を指差した。
「南は革命軍の本拠地で、絶望的に治安が悪い。北は殆どが魔獣の住処で、戦力拡大には適さない。選ぶなら、西だ」
「西なら行ったことあるだろ。王族と戦闘になったのも西だ」
「だからこそ裏をかける。俺が王族なら、所信表明の勢力がある内に攻めて来ると思うから、東を警戒する」
まあ、実際のところ、勢力も何も、肝心の戦力が無いのだけど。
ウルは、昴とロキの話に入って来なかった。
何となくだが、ウルは西が好きではないように感じる。初めて会ったのは北のアクエリアスという街で、昴が西へ案内して欲しいと言った時も、はぐらかして断られた。
何か理由があるのだろう。ウルが話す時まで、昴は追及しないと決めている。
たった一人の仲間だ。ウルの意見を蔑ろには出来ない。昴はロキの説明を受けながら唸って、代替案を考えていた。
その時、沈黙を守っていたウルが漸く口を開いた。
「西へ行こう」
何か、悲壮な覚悟を決めたような声だった。
宣言すると、ウルはそれまでの沈黙が嘘みたいに、てきぱきと作戦を話し始めた。昴は聞きながら、張り詰めた糸のようなウルの横顔を見ていた。
14.
⑴カプリコーン
風の魔法を操るコソ泥。
それが昴の初めての仲間の認識だった。
容姿も言動は軽薄だが、博識で旅慣れている。転移魔法を使い、常に冷静で思慮深い。嘗ては革命軍に勧誘されたこともあるらしいが、リーダーが好きになれなかったと言って断った。
話こそ聞いているが、実際のところ、昴はウルのことを殆ど知らない。
湊と航の手綱を取っていたのもウルだった。昴一人なら、彼等を人間界へ生還させることも難しかったと思う。
旅支度を整えるウルは、何処か遠くをぼんやりと見ていた。西へ行くことが決まってからずっとそうだった。彼は西の孤児院で育ったと言う。詳細を知らないので、帰郷となるのかは解らないが、何か思うところがあるのだろう。
支度を終えたウルは、昴の視線に気付いて力無く笑った。苦しさを押し殺して無理矢理笑っているように見えた。
昴は様子を窺いながら言った。
「ウルの気が進まないなら、目的地を変えても良いよ」
「いや、良いよ。本当はこれが最善だって解ってた」
でも、嫌なんだろう。
昴は口を噤んだ。何も知らない自分が、土足で踏み込んでいいことでは無い。
ウルは気丈に振る舞っていた。その姿は何処か痛々しい。湊なら優しく労わることが出来るのだろう。航なら不器用ながら叱咤激励出来たのだろう。しかし、二人は此処にはもういない。
結局、黙って庭へ出た。
白く細い木々が辺りを柵のように囲み、白銀の単葉が弱い日差しを受けて輝いている。七色に光る池には、龍に似た名も知らぬ魚が身をくねらせて泳いでいた。魔法界で何が起きているかなんて知りもしないのだろう。
呑気なものだな。
羨望とも嫉妬とも付かない思いで眺めていると、ウルが掌を翳した。転移魔法の金色の光が足元から立ち上り、周囲を夜明けの色に染め上げる。
エレメントは留守番だ。
ロキが言うには、自分達が行っても出来ることは何も無いだろうとのことだ。基本的にエレメントは不干渉で、魔法界で何が起きても見守っている存在だ。精霊界から様子を伺っているから、何かあれば助けてくれるらしい。
何が起こるか解らないからこそ、絶対的な力を持つエレメントには一緒にいて欲しかった。
今更、何を言っても仕方無い。
昴は溜息を吐いた。背中を向けていたウルが、唐突に言った。
「俺達は、仲間だからな」
「うん?」
「俺は絶対に、見捨てねぇ」
自分が何を言われたのか解らなかった。
ウルは自分に言い聞かせたのかも知れない。昴が追及する間も無く、視界は金色の光に埋め尽くされ、精霊界の風景は消え失せていた。
昴が目を開けると、其処は鬱蒼とした森の中だった。
それまで灼熱の砂漠にいたせいか、湿気と酸素で息苦しさすら感じた。何処かで鳥の
ウルは小さな魔法陣を広げた。金色の魔法陣から微かな風が吹き、ウルは目を閉じて耳を澄ましているようだった。
こっちだ。
風魔法の探索能力を活用して、ウルは危険を避けて道を選ぶ。頼もしさに涙が出そうだ。
森を進む時も、ウルは足音を立てず慎重だった。それでも道中は会話が途切れず、化物との遭遇に怯えることも無かった。
彼は何者なんだろう。
ウルが語るまでは詮索しないと決めていたのに、余りの手際の良さが気に掛かる。
森を抜けると、美しい翠の草原が広がっていた。砂丘のような緩やかな起伏の中、白い砂利道が何処までも伸びている。
ウルは地図を手にして道の先を指差した。
「この道をずっと行くとカプリコーン。王都との貿易の拠点で、比較的安全で栄えた街さ」
その言葉に昴は期待を膨らませた。
これまで昴が見て来た街は貧困に喘いでいたり、治安の悪さに暴力が横行していたりして、殆ど街とは名ばかりの有様だった。
ウルの浮かない表情は気に掛かるけれど、昴は久々に胸を躍らせていた。
白い砂利道は砂漠に比べると歩き易い。
昴の顔は思ったよりも知られていないらしく、擦れ違う馬車の御者や旅人が軽く会釈して行った。喜んでばかりもいられないが、大手を振って歩けるというのは清々しい。
足取りは軽く、目的地まではあっという間だった。
到着した先には、真っ白な壁に囲まれた街があった。魔法界の街は魔獣の脅威に備えて壁に囲まれている。その壁が高い程に栄えている証拠でもある。
街の入口には関所があった。流石に素通りはさせてくれないだろう。どうしようかと思案を巡らせていると、ウルは手荷物の中から小さな麻袋を取り出した。問い掛ける間も無く、ウルは中身を自分と昴へ振り掛けた。
白い粉だった。頭から被った昴は犬のように身震いした。何をするんだと憤慨したが、目を上げた昴は驚いた。
目の前にいたのは、何処にでもいそうな中年の
「風魔法の応用だよ」
声はウルだった。
芯のある声が髭親父から聞こえるので、ちぐはぐで居心地が悪い。鏡が無いので自分がどんな姿になっているのか解らない。
それは変装と言うよりも、幻のようなものらしい。先程の粉を媒介に、光を屈折させて幻を見せているのだとウルは説明した。だから、ウルには髭も生えていなければ贅肉も付いていない。
触られたら暴露るから気を付けろよ。
ウルはそう言ってぐいぐいと進んで行く。コソ泥には必要な技術なのかも知れないが、彼が何者なのかという謎は一層深まった。
関所はあっさりと突破した。
検問官は旅商人だと言うウルの言葉を信じたようだった。肩透かしなくらいだ。昴が通過すると声を掛けられたので焦ったが、検問官は慈愛に満ちた声で労ってくれた。どうやら、自分は死に掛けの老人にでも見えているらしい。
薄暗いトンネルを抜けると、途端に辺りは開けた。
色取り取りのテントが囲む商店街、活気ある声、異国の出で立ちをした旅人。白い日差しに照らされた街は、少なくとも昴が知るどんな街よりも鮮やかに見えた。
道行く人々の顔は明るい。子供達が笑顔を見せて駆けて行く。見たことも無い果物や魚に目を奪われ、昴は殆どウルに引き摺られる形で道を進んだ。
擦れ違う人々が労わり道を譲り、目移りする昴に優しい声を掛けてくれる。自分がどんな姿になっているのか気に掛かる。
魔法界の人々は冷たいと思っていたが、案外そうでも無い。昴がこれまで会った人々は生活が
「良い街だね」
「そうだな」
ウルが素っ気無く答えた。
昴の目には小憎たらしい髭親父にしか見えないので、ウルがどんな顔をして言ったのかは解らなかった。
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