⑹延長戦

 神様の夢を思い出す。

 雲の中みたいな真っ白い空間で、人が一列に並んでいる。すると、白いひげを生やした神様が現れて、傲慢に言い放つのだ。


 この中の誰か一人が死ねば、他の人は助けてやろう。

 頷く人は誰もいなかった。やがて湊の順番が来る。皆は湊が頷くのを待っている。

 湊はいつも答えられなかった。死にたくないと思う。生きていたいと思う。――けれど、自分が死ねば、皆は助かるのだ。


 この夢の話をした時、父は不思議そうに首を捻っていた。


 お前が嫌なら、頷かなくても良いんだよ。

 皆で協力して、神様をやっつけることだって出来るかも知れない。

 大丈夫。一人では出来なくても、二人なら出来るさ。


 父の遺書を読んだ後、湊は心が擦り切れるような虚しさに包まれていた。


 親父は頷いたの?

 それとも、戦ったの?


 もう、訊くことも出来ない。けれど、きっと、戦ったのだと思う。徹底的に抗戦し、凡ゆる選択肢を試し、それでも抗えず、結局、自分が犠牲になった。


 死んだのは、目的ではなく、ただの結果だ。親父はヒーローだった。俺達はそれを証明する為に、生きなければならない。


 自室を開くと、薄暗い中で航が膝を抱えていた。

 床一面に何かの紙が散乱し、足の踏み場も無い。見れば、それは父に宛てられ、終には届かなかった手紙であった。母国の言葉、英語、フランス語。湊には解読出来ない異国の文字がつらつらと書き綴られ、部屋の中は文字の海のようだった。


 航は身を守るようにベッドの前に小さくなって、床をじっと睨んでいる。手負いの狼みたいだ。湊は手紙を集めながら、航の元へ向かった。


 手紙には、溢れんばかりの感謝が綴られている。

 学生時代、精神科医時代、救命救急医時代、MSF活動時代。生前の父と関わった大勢の人々が感謝を告げ、その冥福を祈る。

 手紙の中に、ハリウッド女優の名前があった。先程の葵くんの話は真実だったのだ。疑ってはいなかったが、何となく、嬉しくなった。


 此処にあるのは、父の生きた証なのだ。

 死んで英雄となったのではない。生きてヒーローであり続けた。彼等の言葉には嘘偽りが無く、一文字一文字に魂を揺さぶるような熱がある。


 誇らしい。――けれど、悲しい。

 これは父の生きた証であり、死んだという事実の証拠でもあった。


 航。

 呼び掛けると、航は眉を釣り上げた。




「お前、納得したか?」




 問い掛けられ、湊は素直に首を振った。

 当たり前だ。自分達は真実が知りたかったのではなく、生きた父に会いたかったのだ。


 だが、世界中の人がどんなに骨を砕き、手を尽くしても、叶わない願いがある。時間は後退せず、死者は蘇らない。




「俺は、誰かに嘘だって、言って欲しかったんだ」




 湊は項垂れた。

 自分には他人の嘘が分かる。気休めなんて無意味だ。それでも、誰かが父は死んでいないと言ったなら、嘘だと分かっていても信じただろう。

 だが、誰もそんなことは言ってくれなかった。父を愛した大勢の人々は、その誇りを守った。安い気休めで汚してはならないと知っていた。




「湊」




 立ち上がった航が、手紙を踏み付けて距離を詰めた。野生動物みたいに足音も無く近付いた航は「誰にも言うなよ」と念押しして、湊の肩に顔を埋めた。


 肩が濡れる。声を押し殺し、航は泣いていた。湊はその体を抱き留め、支え合うようにして涙を落とした。









 13.人間

 ⑹延長戦









 湊は窓の外を見ていた。

 クリスマスを前にした街の中はイルミネーションに彩られ、道行く人は一様に浮き足立っている。街路を埋める真っ白な雪の上に、足跡が一つ。航が玄関の雪掻きをしていた。


 ジュニアハイスクールを卒業した湊と航は、結局三年分の飛び級を決めた。魔法界へ行っていた不在期間の遅れを取り戻し、追い越すことになる。

 母は余り喜んでいないけれど、一応は納得してくれたらしい。


 二人は十五歳になる。父の死から五年。

 湊は、一足先に誕生日プレゼントとして貰った本を読んでいた。ニッコロ・マキャヴェッリの君主論と、孫子の兵法だ。葵くんが自分達に何を求めているのかよく分からない。


 雪掻きを終えた航が、鼻の頭を真っ赤にして戻って来た。白く染まった手袋を投げ捨て、暖炉へ掌を翳す。

 薪の爆ぜる音が響いた。湊は本を閉じ、軽く労いの言葉を掛けたが、無視された。


 航は猫のような目に暖炉の火を映して言った。

 なあ。




「お前、本気で悔しいと思ったことある?」




 湊は隣に並んだ。




「あるよ」

「何?」

「航にバスケでボロ負けしたこと」




 航は笑った。

 湊と航は同じ時にバスケットボールを始めた。航は途中でチームから離れて、ストリートバスケばかりするようになった。一方で湊はチームの練習に参加してはいたが、サーフィンばかりだった。実力差の開きは其処等辺が理由なのだろう。


 サーフィンならば負けないと思う。しかし、湊はバスケットボールで勝ちたいのだ。だって、悔しいじゃないか。


 航は満足そうに笑うと、静かに言った。




「俺もある」




 負けず嫌いで直情的な航が、悔しさを未だに解消出来ないというのは、何だか信じられない。

 その相手が自分だったら良いな、と思った。けれど、航が負けて本気で悔しがるような勝負をした覚えが無かったので、その考えは放逐した。


 航は言った。




「シリウスに、言い返せなかった」




 シリウス。

 湊の脳裏に浮かんだのは、満月みたいな金色の瞳だった。魔法界の地下格闘技大会の準決勝、湊はシリウスと対戦した。

 勝てると思った。それが思い上がりだったことを痛感した。勝負にすらならず、一方的になぶられただけだ。

 そして、航は湊の敗戦後に会話をしたのだと言う。




「あいつ、親父はクズだって言いやがった。何も知らない癖に」

「何も知らないから言ったんだ」

「ぶっ潰してやりたかった。それなのに、お前等は揃って邪魔して、結局、勝負もさせなかった」




 湊は、シリウスの恐ろしさを実感したのだ。止めるのは当然だった。そして、航は昴に止められ、ウルによって強制退場させられた。それが間違いだったとは思わない。


 絶対、許さねぇ。

 噛み締めるように、航が吐き捨てる。湊は何とも言えなかった。航の気持ちも分かるが、命あっての物種だ。

 下手な慰めは航の逆鱗げきりんに触れる。何か声を掛けるべきか悩んだが、湊は黙った。




「此処で折れたら、もう何処へも行けない気がする」




 それは、分かる気がした。

 立ち上がることが出来ないのならば、敗北なんて死ぬも同然だ。死んでも良いとは思わないが、命を懸けてでも貫かなきゃいけないものがある。


 航が湊を見た。オレンジ色に照らされた航は、悪戯っ子みたいな笑みを浮かべていた。




「相談があるんだけど」

「何」

「お前、あの魔法陣覚えてる? 異世界転移」




 湊は答えなかった。

 ろくな相談じゃない。無視するべきだ。だが、湊は苦渋を呑み込んで頷いていた。




「覚えてる」




 魔法界で行使されていた魔法は、数式だった。

 数学は得意だった。湊は一度見たものを忘れない。シリウスの炎魔法も、ウルの風魔法も、理解出来る。湊が唯一解読不能だったのは、昴の犠牲の魔法だけだ。あの夥しい数式は、最大素数を数えるように途方も無く、最早、芸術の域にあった。




「魔法を使うには魔力が必要だ。それは血筋に宿るって言ってただろ。俺達には、何も出来ない」

「葵くんから聞いたんだけどさ、エレメントを呼び出すのは難しいことじゃないらしいぜ。昔、風呂場でウンディーネを呼び出したって」

「……」




 それで良いのかよ。

 航が言うには、ウンディーネを呼び出すには人の手の加わっていない大量の真水が必要らしい。其処に魔法陣を展開することで、エレメントを呼べる。




「だから、俺達には魔力が無いんだ。無理だ」

「お前、本気? 俺が何の根拠も無くこんなこと言うと思ってんの?」




 詰問され、湊は口を噤んだ。

 分かっている。航はもう結論を出している。エレメントを呼び出すことは理論上可能だと言っているのだ。




「そもそも、魔力が血筋に宿るって言うのがおかしい。魔法界では、魔法効果を武器にも付与出来た。それが人間には出来ないって言うのは辻褄が合わない」

「魔法が付与出来るなら、血筋は関係無い」

「そうさ。魔法界は情報操作されてんだよ。実際、昴みたいな規格外の魔法もあるんだろう。でも、誰かの力を借りることは可能なんだ。そりゃ、借り物を自由自在に操るのは難しいだろうけど」




 頭の中で、星のような無数の光が浮かぶ。離れ離れだった点が糸で繋がり、一つの結論を導き出す。

 耳鳴りがした。ランナーズハイ。ゾーン。久しぶりの感覚だった。湊の脳では理性のたがが外れ、凄まじい情報量が津波のように押し寄せていた。




「可能だ」




 湊が言うと、航は不敵に微笑んだ。


 リビングに置かれた裏紙を引っ手繰り、湊は衝動のままにボールペンを握った。A4のコピー用紙は見る見る内にインクで真っ黒に染まる。

 二十枚以上の紙を埋め尽くしたところで、湊は手を止めた。インクが切れたのだ。だが、結論は出た。

 横から覗き込んだ航が嬉しそうに言った。




「お前は最高の兄貴だよ」

「はいはい」

「嘘じゃねぇ。お前なら分かるだろ?」




 湊は口を尖らせた。




「分からないよ」

「他人の嘘が分かるんだろ?」

「他人の嘘は分かるよ。でも、航は他人じゃないだろ」




 湊の嘘を見抜くという能力は、万能ではない。嘘が分かっても心が読める訳じゃないし、家族の嘘は分からない。視覚的情報から違和感を見付けることが出来るだけで、それは経験則によるものだ。湊は、家族に嘘を吐かれたことが無いのだ。だから、分からない。


 航はぽかんと口を開けて、笑った。

 何だそれ。腹を抱えて笑われて、湊は怒りたいような、一緒に笑いたいような妙な心地になった。


 二人で笑い合っていると、洗濯物を抱えた母がやって来た。不気味そうに目を細めるので、湊は「何でもないよ」と意味も無く弁解する。




「作戦会議しようぜ」

「うーん。お母さんに心配掛けるのは、嫌だ」

「クソババアも親父も、俺達が信念曲げて惰性だせいで生きて行く方が嫌だろうさ。本当の悲劇は、魂の内側で死ぬことなんだから」

「お前、最悪」

「何とでも」




 航は演技掛かった動作で肩を竦めた。


 湊は考えた。

 自分達がまた黙っていなくなれば、母は死ぬ程心配する。しかし、相談したところで理解が得られるとは思えない。

 このまま放って置いたら、航は一人でも行動を起こすだろう。航は頑固だから、その意思を変えることは出来ない。


 最悪の事態を想定する。

 湊の想定出来る最悪は、航が一人でいなくなることだ。


 溜息を吐き出して、湊は肩を落とした。




「約束がある」

「約束?」

「絶対に死なないこと」




 俺達は、例え後ろ指差され、汚泥に塗れたとしても、生き抜かなければならない。親父の正義を証明する為に、己の信念を貫く為に。


 航は鼻を鳴らした。

 おもむろに腕を持ち上げ、航は拳を向けた。




「約束する。お前も、約束しろ」




 湊は頷いて、拳を当てた。




「誓うよ」




 それは、自分の心に嘘偽りが無いことを誓うジンクスみたいなものだ。始まりがいつだったのかは覚えていない。何か大切な約束をする時は、必ず拳を当てる。




「俺達は、生きて証明する」




 二人の声は重なっていた。


 俺達はヒーローの息子だ。ヒーローは負けないし、諦めない。親父の正義を受け継ぐ覚悟は決まった。


 どんな勝負も諦めた方が負ける。ピリオドが打たれるまでは結果は分からない。だから、面白い。




「人間も中々やるじゃんって、教えてやらなきゃな」




 湊が笑うと、航も笑った。

 俺達は双子だった。一人では出来なくても、二人なら出来る。常識も価値観もぶっ壊してやる。


 さあ、延長戦の始まりだ。

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