⑸真実

 それが見付かったのは、父の葬儀から一週間が経過した頃だったと言う。


 父の書斎を整理していた母が、一通の封筒を見付けた。蚯蚓みみずがのたくったような酷い悪筆だったが、その筆跡は間違いなく父のものだった。


 何故か毛筆で記された宛名は葵くんだった。湊は一応断りの言葉を告げて、封筒を手に取った。ろうで封をした厳重な手紙に、心が激しく乱される。急くように開封すると、中には飾り気の無い便箋びんせんが二枚、入っていた。


 父の性格上では考えられないが、それは所謂、遺書であった。一枚目の便箋には当たり障りの無い挨拶に続き、父が隠し続けた真実が確然と記されていた。


 中東の複数の国で、一万発の核兵器が使用される。

 それは脅迫や警告ではなく、予告だった。


 核兵器による爆風は地表の凡ゆる建物を吹き飛ばし、その放射能は全ての生物に甚大な影響を及ぼす。空は死の灰に包まれ、地球の温度は著しく低下し、作物は壊滅し、絶望的な飢饉ききんが起こる。地球は死の惑星となるのだ。


 父のやろうとしていたことは、第三次世界大戦となるであろう核戦争の抑止であった。人道援助によって、中東における命の価値を均一化させ、間も無く始まる地獄のような戦乱を止めようとしたのだ。


 そして、それは自分が生きている間には、達成出来ないだろうということにも言及されていた。今の自分には出来ないかも知れない。けれど、自分の意思を継いだ人々が、その骨を拾い、愛する者の為に闘う覚悟を決めるだろう。祈るようにして、父は紛争の中に身を置いた。


 ――全ては、愛する者の為に。


 読み終わった時の絶望感と遣る瀬無さは、湊と航が時を忘れ、この世から消えてしまいたいと思う程だった。


 手紙の最後は、家族を頼む、と、父らしくもない文言で締められていた。

 その言葉を書いた時の父の胸中を思うと、遣り切れない。父はこうなることを、予期していたのだ。


 二枚目の手紙は、湊と航に宛てられていた。

 便箋のらんを無視した力強い毛筆で、悲しい程に端的であった。


 ――俺はいつでも、お前等の味方だ。


 長々と美しい文章を書くよりも、敢えて短く分かり易い言葉を選んだのだろう。其処には自分達への愛が痛い程に刻まれていた。




「……何だよ、それ」




 航の声は震えていた。

 湊は目を伏せた。エネルギーが充填されたかのように活力に満ちているのに、胸が潰れそうに痛い。




「なんで親父が! そんなもの背負わなきゃいけないんだ!」




 湊は血を吐くように叫んだ。俯いた母は、全ての真実を知っていた。しかも、それは結婚当初から話し合い、決めたことなのだと言った。




「皆の幸いの為ならば、僕の体なんか百遍ひゃっぺんいても構わない」




 宮沢賢治の銀河鉄道の夜。

 ジョバンニの言葉を引用して、母が酷くやつれた顔で言った。

 湊は心臓が握り締められたみたいに、苦しくなった。


 父は、愛する者を守る為に、孤独な戦いを選んだ。目先の平穏ではなく、家族の未来を守ろうとした。

 この事実を知るのは、フィクサーと呼ばれる各界の重鎮と、MSFに所属する極僅かな人間だけであった。そして、父の父――祖父はそのフィクサーの一人だったのだ。


 フィクサーも一枚岩ではない。戦争を推進する鷹派に対抗する穏健派は、何としてでもそれを止めようとしていた。事実を知った父は、自分に出来ることを探し、奔走した。


 財界の知人を頼り、官僚職の友人に託し、凡ゆるコネクションを総動員しながら、自分は死ぬかも知れない紛争地へ身を置いた。


 自分がやると決めたことに対して、全力を尽くすことに躊躇いが無い。その融通の利かない正義感は、確かに世界を動かした。

 各界は核兵器の所有を放棄しない。紛争は各地で続く。それでも、父は抗うことを止めなかった。一人でも多くの命を救う為に、愛する家族を守る為に。




「ヒーローになんて、ならなくてもいいって、言ったのにな」




 葵くんは一粒だけ、涙を落とした。

 手紙を見ながら、湊と航は知らぬ間に、手を握り合っていた。一人では、堪えられないと思った。


 父は選んだのだ。

 自分の命と、家族の未来をはかりに掛けて、後者を選んだ。他の選択肢は無かった。それが父に選べる最善だった。




「昔、あいつに訊いたことがある。ヒーローとは何かって。和輝は、勇気を配る者だと言っていた」




 生きていた頃の父の言動は、点と点が繋がるように、その死によって証明されて行く。


 死ぬ気は無かったのだろう。彼は生きてヒーローであり続けた。葵くんが見誤ったのは、父の覚悟の強さだった。父は命を懸けて、ヒーローになったのだ。


 ヒーローの残した希望が、葵くんを生かした。そして、その死によって世界は異なる結末を進み、湊と航の未来も守られた。――けれど、それでは余りにも、余りにも、蜂谷和輝という一人の人間が救われないじゃないか。


 父はヒーローだった。だが、迷いもすれば、落ち込みもする。腹を抱えて笑うこともあれば、不甲斐無さに涙も零す。ヒーローとしての父が賞賛される程、蜂谷和輝という弱さを抱えながら生き抜いた人格は消えてしまう。


 父はヒーローだった。けれど、人間だった。

 湊と航は、束の間の安寧を喜ぶ世界中の人間に向かって、叫びたかった。


 父が本当に成し遂げたのは、高々一国の停戦ではない。本当に、世界を救ったのだ。父はそれを隠した。けれど、葵くんには遺書という形で残した。それは何故なのだろう。母でも湊でも航でもなく、葵くんに。




「託されたんだよ。いつか、この真実を伝える日が来る。その時の為に、和輝は手紙を残したんだ」




 全ては、湊と航の為だった。

 父は、家族の未来を守る為に命を懸けた。それだけが、真実だった。


 葵くんは薄く充血した目を伏せて、嘆くように言った。




「和輝は、死んだんだよ。死んだ人間は生き返らないし、過去には戻れない。和輝だけが特別だなんてことは、無い」




 まるで、足元が崩落して行くような絶望感だった。


 湊と航は、犠牲の魔法を求めて魔法界まで行った。父が生きて帰って来てくれるのなら、他人が幾ら死んだって構わなかったからだ。


 父は、死んだのだ。

 死んだ人間は生き返らない。そんなこと、分かっていたのに。




「死の瞬間に何を思ったのかなんて、もう誰にも分からない。でも、少なくとも俺は、恐怖や後悔なんかじゃないと思う。和輝は無駄死じゃなかった。和輝は生きてヒーローになり、死んで世界を変えた」




 分かっている。そんなこと、分かってる!

 湊は拳を握った。爪が食い込み、掌の皮膚を破く。滲み出した血液が、テーブルの上に雫となって落ちた。




「じゃあ、親父は犠牲になったのか」




 航は、感情が抜け落ちたような顔付きだった。

 葵くんは何かを堪えるように目を伏せた。




「分かってやれとは、言わない。だが、あいつはただ、お前等が大切で、それこそ、命に替えてでも守ろうとしたんだ。今お前が生きていることが、その証拠なんだよ」




 テーブルに拳を叩き付け、航は項垂れた。

 葵くんは冷めた眼差しで続けた。




「和輝の行為が正解だったのか不正解だったのかは、分からない。残された人間が勝手に解釈するしかない。もう過去の人間だ。過去は動かせない。だけど、あいつは家族の為に生きた。それだけが真実だ」




 葵くんの目には冷たい炎が灯っていた。

 それが怒りなのか悲しみなのか、湊には分からなかった。




「お前等が無意味だと思うなら、そうなんだろう。あいつは栄光とか名誉とか、他人の評価を必要としない変人だったからな」




 他者評価を求めない完璧主義者のエゴだ。

 俯いた湊は、唸るようにして言った。




「無意味じゃなかったよ」

「俺もそう思う。それ以上の真実に、意味は無いんだよ」




 リビングを沈黙が支配する。

 父の死から四年。漸く明かされた真実は、湊や航の求めるような答えではなかった。

 自分達は、何を求めていたのだろう。父が世界平和の為に命を懸けたと言われても、きっと納得出来なかった。家族を守る為に命を懸けたと言うのなら、最早、それは反論する意味も無い。




「昔から、よく言ってたよ。何でも救えるとは思わない。でも、目の前の一つくらいなら、救えると信じたいじゃないか」




 父の唯一、それが湊と航だった。

 普通の父親は、こんな風に命を懸けないと思う。中東の核戦争の予告を聞いたなら、家族を連れて逃亡するだろう。しかし、この予告では地球上全てが危機に晒されて、逃げ場は無かった。


 葵くんは泣きそうな顔で笑った。




「もしも、もう一度だけ和輝に会えるなら、俺はあいつを殴る」

「なんで」

「子供に、こんな重荷を負わせるなって」




 葵くんの声は、掠れていた。

 父は、湊と航が助け合って生きていけるように育てて来たのだ。自分が一緒に生きられない可能性を知っていた。

 父には他に選択肢が無かった。選べる中で最善の選択をして、最善を尽くした。それが分かっていても、遣り切れない。




「――ふざけんな!」




 航が怒鳴った。立ち上がった反動で椅子が倒れ、耳障りな音が響く。




「こんなの、納得出来る訳ねぇだろ! これじゃあ、親父が俺達の為に死んだみたいじゃねぇか!」

「逆だよ。和輝はお前等の為に生きた。死んだのは結果だ。もう其処に意味は無い。悪かったのは時代と社会だ。あいつはそれを変えようとして、理想に殉じた」




 誰のせいでもない。

 葵くんは冷静に言った。




「和輝は選択肢を作ったんだ。滅亡しか無かった世界に、平和な道という選択肢を。和輝の行為を証明するのなら、残されたお前等が生き抜かなければならないんだよ」




 航は顔を真っ青にして、今にも倒れそうだった。

 そのまま母の制止を振り切って、逃げ込むようにして自室へ篭った。扉の閉じる音がやけに大きく聞こえた。









 13.人間

 ⑸真実









「結局、俺は親父のこと、何も理解出来なかった」




 湊は、魂まで吐き出すような深い溜息を吐いた。

 父は命を懸けて自分達を守ったのだ。それ以上の事実は無い。

 父のようになりたいと思っていた。だが、父の生き方は憧れても、目指すべきものではない。


 はあ。

 湊は額を押さえた。


 ストルゲー、キリスト教では家族愛のことだ。愛とは、互いに慈しみを持ち、感謝を捧げること。

 そして、古代ギリシアでは火、水、風、土を結合させる愛であった。まるで、魔法界のエレメントだ。此処は人間界だというのに、訳が分からない。




「俺に何が出来るかな。親父の為に、何が出来るだろう」




 命を懸けて自分達の未来を守ってくれた父に、何を返すことが出来るだろう。生きること、生き抜くこと。それだけが、父の生きた証。


 本当に、それで良かったのかよ。いや、それで良かったんだろうな。それ以上の最善なんて、無かったんだから。


 黙っていた葵くんは、感情の乏しい声で言った。




「和輝は多分、理解者が欲しかったんじゃないんだよ」




 湊は顔を上げた。

 唐突な話題の切り出しにも驚いたが、それ以上に内容が気に掛かった。




「誰かに理解して、評価して欲しかったんじゃない。競い合う誰かが欲しかったんだよ」




 父は、他者評価を求めない変人だった。

 そんな父が本当に欲しかったもの。




「前も見えない闇の中を、あるかどうかも分からないゴールを目指して、一緒に走ってくれる誰かが欲しかったんだ」




 ゴールの見えない持久走。

 湊には、それが、分かる。




「でも、いなかった。だから、全部一人で決めて、一人で抱え込んで、死んだ」




 死ぬかも知れないと知りながら、見返りを求めず、愛する者の為に生きられるか。そういう人間は少ない。どうしたって、欲が生まれる。承認欲求、獲得欲求、自己顕示欲求。其処に一つの野心も混ぜず、家族を守るということに命を懸けられるか。湊には分からない。


 葵くんは天岩戸あまのいわとの如く閉ざされた二階の扉を見上げ、小さな声で言った。




「航を見てると、俺は怖いよ。和輝と同じ道を辿ってしまいそうで」




 葵くんは、教師のように素行や態度の悪さ、協調性なんて責めない。葵くんは航の最大の理解者だ。


 滔々と、葵くんは言った。




「お前等って、何で双子だったんだろうな。兄弟でもなく、幼馴染でもなく」




 なんでなのかな。

 生命の神秘だね、なんて冗談は言えなかった。


 親父に出来なかったこと。成し遂げられなかったこと。俺達には、それを果たす義務がある。


 世界平和なんて目標は、子供の自分達には高過ぎる。でも、二人なら、出来るのかも知れない。親父に無かった、競い合える大事な双子の兄弟がいる。




「和輝が言ってたよ。湊が航の壁を壊し、航が湊の引いた線を越えて行く。二人で助け合って生きて行けるって」

「死亡フラグじゃん」

「今思えばな」




 はあ。

 三連続の溜息は自己ベスト更新だ。

 全く嬉しくもないけれど、気力は満ちた。後は、航をどうにかしないといけない。今頃、不貞腐れていじけてる。涅槃ねはんに入りそうな航を引っ張り出すのは中々骨が折れる。久々に殴り合いにでもなるかも知れないな。


 準備運動をしながら、湊は扉を開け放った。

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