⑵蜘蛛の糸

「あんな雑魚、勝って当然だ」




 初戦を快勝した航が席へ戻ると、昴とウルは形容し難い奇妙な顔で出迎えた。賞賛なんて求めてもいなかったが、反応に困る微妙な表情だった。

 肩に担いでいたパルチザンをかたわらへ立て掛け、二人の間の空席へ腰を下ろす。入れ違いになったのか、湊の姿が無かった。試合に備え、控え室に移動したのだろう。




「無事で良かったよ」




 昴がよく分からない感想を言った。航は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 見た目は若くとも、彼等は大人なのかも知れない。だから、自分たちを子供扱いする。


 人間界にいた頃、航は専らストリートバスケに参加していた。コートの中には人種や年齢の違いは無く、有るのは純然たる実力差だけだった。


 それに比べたら、あんな枯れ木みたいな男、争う価値も無い雑魚だ。


 昴が何かを言おうとした、その時。

 観客席はどっと湧き上がった。囃し立てる観客と煽るアナウンス。擂鉢状の会場の中心地に、一際小さな子供がいる。


 自分もこんな風に見えていたのだろう。

 嘲る人々の揶揄いを横に、航は入場した双子の兄を見詰めた。


 航が試合をした時のような醜い罵倒は聞こえない。余程、航の勝利は番狂わせだったのだろう。


 緊張感の欠片も無い穏やかな笑みを浮かべ、湊が中央まで歩み寄る。悪意を滲ませる紹介を受けながら、湊は、舞台演者のように折り目正しく礼をした。――そういうところが、嫌いだ。空気を読まず、予定調和的に物事を自分本意で推し進める。


 不遜な航と異なる湊の姿に、膨れ上がった悪意は見る見る内に鎮静化した。


 湊は、他人の嘘が分かる。

 親父もそうだった。あの濃褐色の瞳の前に立つと、自分の何もかもを見透かされているような無力感を突き付けられる。


 きっと、対戦相手もそうだろう。

 航が視線を移すと、其処には豊満な肉体の女がいた。夏場の娼婦のように肌を露出し、薄く透けた下着のような衣服を纏っている。波打つ長髪は鮮緑色で、会場の熱気を受けて柔らかに揺れた。


 しかし、その深藍色の双眸には好戦的な光が宿り、肉食獣が獲物を狙うかのように爛々と輝いている。


 地下格闘技という性質上、異色の組み合わせだった。

 女の色気に当てられた下衆な男が揶揄し、辺りは夜の繁華街を思わせる湿気った嫌な雰囲気に包まれていた。


 彼等は一言二言、何か会話をしたようだった。けれど、遠く離れた航には聞き取れない。ただ、湊が淡白な顔で何かを言うと、女は遠目に分かる程に表情を強張らせた。




「何を言ったんだろう……」




 心配そうに、昴が呟いた。航は何となく察しが付く。


 湊は気にも留めず、肩に担いでいた洋弓を下ろした。淡く発光する弦がガラス片のように煌めいている。

 その武器にどんな魔法効果があるのかは分からない。互いに手の内を晒すような真似はしない。この試合の中で拝めれば僥倖だ。


 試合が始まる刹那、昴が言った。




「湊って、変わってるよね」




 航は視線も向けなかった。昴がどんな思いで口にしたのか分からないが、空気を読まない彼の話には興味も無かった。


 昴は、いつもそうだ。力がある癖に使いもせず、言い訳ばかり並べて被害者でいようとする。航は弱い者が嫌いだ。弱者は徒党を組んで強者を弾圧し、悪者にする。




「湊はどんな時も理性的だけど、得体の知れない不気味さがある」




 昴の評価を聞いて、航は吐き捨てるように嗤った。

 湊が不気味だなんて、生まれた時から知っている。航は時々、双子の兄が人の皮を被った化物なのではないかと疑念を抱いたくらいだ。


 湊の言葉には、熱が無い。相手の理解を求めていない。兄の世界には誰もいないのだ。血を分けた双子の弟である航さえも、彼の視界には入っていない。


 もしかすると、父もそうだったのかも知れない。だから、家族を置いて海の向こうで他人の為に死んだのかも知れない。


 鬱々と考え込んでいると、庇うようにウルが言った。




「悪い奴じゃないと思うぜ。理解しにくいだけで」




 その声で、航は沈みそうな意識を取り戻した。


 彼等の話は根本的にずれている。航は面倒になって、早々に会話を無視した。









 12.かたちなき正義

 ⑵蜘蛛の糸








 俺の世界は狭いな。

 対戦相手を見て、湊はそんなことを思った。


 戦いに挑む時、それがどんな規模であっても武装することが前提だと思っていたからだ。けれど、対峙する女性は、凡そ戦闘には向かない服装をしながらも、確かに戦士の目をしていた。


 魔法を前に、防具というものは殆ど意味が無いのだ。攻撃こそ最大の防御なのだろう。導き出される結論は、先手必勝。魔法を使えない自分に出来ることがあるとするのならば、それは一つしか無かった。




「こんな可愛らしい坊やが相手なんて、遣り難いわ」




 妖美に肢体をくねらせて、女が言った。

 湊の目には、彼女の嘘が見えた。見縊みくびっているというよりも、挑発に近い。


 彼女が腕を組んで胸を強調すると、観客席からは鼻の下を伸ばした男たちの感嘆の息が漏れる。しかし、十歳の湊は意図せず、率直な感想を述べた。




「お母さんの方が大きかった」




 湊が言った瞬間、彼女が青筋を立てた。

 空気が凍り付き、湊は自分が地雷を踏んだことを瞬時に悟った。


 女心は、難しい。

 湊は弁解するべきか迷ったが、そんな義理も無いので黙った。




「このクソガキ!」




 開始の合図が頭上から響き渡り、女は掌を翳した。

 湊は素早く矢をつがえ、合図と同時に弦を放った。


 幾何学的に広がる魔法陣には無数のルーン文字が刻まれている。


 炎に似ているが、違う。これは、熱だ。

 空気は温まると膨張し、冷えれば萎縮する。構造が分かれば、どんな攻撃が放たれるのか読み取れる。


 淡く発光する矢は、空気抵抗を物ともせず突き進んだ。湊は同時に弧を描くように走り出し、腰に差したナイフへ手を伸ばした。だが、次の瞬間、魔法陣から凄まじい熱風が噴出し、湊は軽々と宙へ浮き上がっていた。


 硬い石の床に叩き付けられながら、湊は女の一挙一動を具に観察していた。ウルと同じだが、違和感がある。見たことの無い情報が目の端に映ったのだ。


 微かな熱を感じ、腕を見遣った。

 半袖シャツから伸びる腕は、炎に炙られたかのように焼けていた。薄い皮膚が捲れ上がり、滲み出す組織液が嫌な既視感を抱かせる。




「あらあら、可哀想に」




 嘆くように口を覆って、女が言った。

 湊には、それが嘘だと分かる。




「切り刻んであげましょうか。それとも、黒焦げがお望み?」




 何処の猟奇殺人鬼だ。

 湊は腕を庇い、立ち上がった。


 吹き付ける風は目に見えない。けれど、術者である彼女の動作や仕草を見れば、凡そのことは推察出来る。


 魔法の規模、方向。常に次を予測し、最良の手段を考える。立ち止まれば、熱波によって焼き尽くされる。凄まじい熱波の直撃を紙一重で躱しながら、湊は思考を巡らせた。


 先の試合で、航も風魔法と対峙した。風魔法は応用性の高い大衆向けの魔法なのだろう。

 魔法は四元論によるエレメントの加護を受けた属性攻撃を可能とする。


 これは湊の推測であるが、術者は無意識的に異なる属性の力を複合して行使している。

 風とは大気の流れであり、それを起こすのは熱だ。彼女の操る魔法は風魔法と呼ぶよりも、炎による熱波だろう。術者次第で、鎌鼬にも爆風にも変化する。


 熱源である魔法陣に近付くことはリスクが高い。湊は距離を置いて矢を放つが、どれも彼女へは届かず、吹き飛ばされる。


 ――どうする?


 この相手は、戦闘の定石に則ってリスクの低い戦法を選んでいる。此方の出方を窺いながら、戦意を削ぐ遠距離からの広範囲攻撃。


 つまり、近接戦闘に弱い。非力さの証明だ。


 問題は、彼女の懐へ潜り込む術が無いということだ。航のような一点突破能力は無い。ウルのような柔軟な魔法も無い。昴のような反則級の一撃必殺の技も無い。


 無い物ねだりは、しない。

 自分の出来る最善を尽くし、戦う術を見付けなければならない。不条理や理不尽を嘆くくらいなら、地を這ってでも前へ進む。此処で立ち向えなければ、この先、湊は戦力として成り得ない。


 僅か数分の内に、湊の身体は焼け焦げ、裂傷により血塗れになっていた。痛みは感じなかった。脳内でドーパミンが過剰に分泌され、一種の興奮状態に陥っている。


 憐憫するような倫理観のある人間は此処にいない。嬲る女を褒めそやし、不甲斐ない湊を罵倒する。




「降参する? 今なら、謝る時間をあげても良いわ」




 鋭利なかかとを鳴らして、女が嗜虐的な笑みを浮かべる。


 湊は矢筒から次の矢を取り出したが、それは呆気無く吹き飛ばされた。闘技場には闇雲に放った無数の矢が、虚しく散らばっていた。




「ほら、良い子だから」




 嘘だな。

 湊は女の顔をじっと見詰めた。美醜に頓着は無いが、一般的には美女の類に入るのだろう。妖艶とか婀娜あだっぽいとか、夜の蝶みたいな儚さの中に逞しさがある。だが、其処に慈悲の心は無い。弱者を甚振ることに愉悦を感じるだ。


 湊は吐き捨てるように笑った。

 降参、だなんて。


 その時、金属を引っ掻いたような耳鳴りに襲われて、途端に辺りの色が失われて行くのが分かった。魔法効果ではない。これは、湊が持つ特性だった。

 極度の集中状態に入ると、必要外の情報が遮断され、時間がコマ送りにみたいにゆっくりと流れ始める。


 意識は会場を鳥のように俯瞰ふかんする。モノクロに染まる視界の中で、観客席がクローズアップされる。点を打ったように、双子の弟だけが色を持って浮かび上がっていた。


 怒っているような、泣き出しそうな、何かを言いたげな顔だった。きっと、側にいたら殴り合いになっている。


 何で、お前がそんな顔するんだよ。




「馬鹿だなあ」




 少しだけ笑って、湊は呟いた。

 女は眉間にしわを寄せた。湊は弓を握った。遠距離からの攻撃を想定したのは、大切な人を守る為だ。自分が死ねば悲しむ人がいる。――それがどれ程、自分を奮い立たせるか。




「徹底抗戦は、得意なんだ」




 女の顔が、怪訝そうに曇った。




「それなら、お望み通り、細切れにしてあげる!」




 血のように真っ赤な唇が弧を描き、魔法陣が広がった。それまでの攻撃が遊びに思える程の大きな魔法陣だった。だが、それが放たれる瞬間、湊は淡く発光する弦を弾いた。


 何処かで空気を切り裂く細い音が響いた。

 それは一筋の閃光となって闘技場を横断し、女の右頬を鋭く切り付けて行った。


 湊は、自分の手に戻って来た矢を見て、腹の底から込み上げる愉快な思いに、笑みを零していた。




「な、何?!」




 動転する女は、後方からの予想外の反撃に身を翻した。湊はもう一度弦を弾いた。再び光の刃が女を切り付け、床には鮮血が迸った。


 掌に戻った矢を握り、湊は駆け出した。

 女が応戦しようと構える間を与えず、湊は弦を弾く。死角からの斬撃に女は堪らず身を守る。惜しげも無く晒された肌が、彼方此方から容赦無く切り刻まれて行く。


 それは宛ら、蜘蛛の巣に掛かった蝶のようであった。足掻けば足掻く程に絡め取られ、身動きが封じられる。


 湊は後方へ流れるモノクロの景色の中で、アレスと話したことを思い出していた。

 武器を作るに当たり、始めに考えたのは如何いかに近接戦闘を避けるかということだった。強大な力を持つ魔法使いと子供の自分では勝負にならない。それなら、なるべく安全な遠距離からの攻撃を想定するべきだ。


 アレスが提案したのは、弓だった。

 ブーメランに比べると手数が多い分、扱いが容易である。しかし、矢の数には限りがある以上、長期戦には向かないだろう。


 其処で、魔法効果を付与してもらった。射た後に回収出来るよう、矢の末端に糸を付けたのだ。目に見えない程に細く、けれど強靭な糸は弓の弦から伸びる。弦を弾けば、糸に引っ張られて矢は手元に戻るという算段だ。


 戦闘終了後の回収の為の魔法効果だった。それがこんなところで力を発揮することになるとは、作り手も考え付かなかっただろう。


 湊の目には、闘技場の全ての情報が見えた。

 自分の状態、矢の落ちている場所、相手の動き。自分が何処でどのように動けば良いのか、手に取るように分かる。容赦無い攻撃に女は防戦一方を強いられ、湊の動きを予測する余裕も無い。


 父は、焼夷弾で死んだ。

 左手以外は見付けられなかった。

 痛かったのかな。苦しかったのかな。父は生きながら身を焼かれた。せめてその最期の瞬間が、一瞬であったことを祈るしかない。


 ――それに比べたらこんな傷、痛みの内にも入らない!


 怯える女を押し倒し、湊はその勢いのまま、眼前にやじりを突き付けた。恐怖に染まる深藍色の瞳に、血塗れの自分が映っている。




「降参するなら、時間をあげるよ。俺はどっちでも構わないからね」




 鏃は、女の右目を捉えていた。

 湊はどちらでも構わなかった。女が降参するのなら手を引くし、抵抗するのなら串刺しにする。


 まずは目玉だ。

 視力を奪った後は、身体の端から切り刻む。彼女はどの段階で諦め、許しを乞うだろう。


 女は喉を震わせた。生唾を吞み下す音がやけに鮮明に聞こえた。




「私の負けよ」




 振り絞るような微かな声で、女が言った。

 だが、湊は審判が下るまで、その手を引かなかった。


 数秒の沈黙の後、審判は湊の勝利を宣告した。会場がどっと湧き上がり、僅かなブーイングは歓声に掻き消されて行った。


 湊は手を下ろした。

 集中が途切れ、身体中が軋むような痛みを感じた。起き上がる女とは対照的に尻餅を着き、立ち上がることも困難であった。

 悲喜交々の中、女は肩を竦め、手を差し伸べた。湊は痛みに呻きながら、その手を取った。


 立ち上がった湊は、歓声の中で覚えのある声に耳を傾けた。観客席の中でウルが何かを叫んでいる。その隣には双子の弟が、あからさまにほっとしたように表情を和らげている。


 馬鹿だなあ。

 湊は苦く笑い、拳を向けた。訳も知らない観客が声を上げる。その中で、航は目を釣り上げて拳を向けた。


 その様を横で見ていた女は、やれやれといった調子で溜息を零した。




「あんた、名前は?」




 問われて、湊は逡巡の後に答えた。




「湊」

「……覚えておくわ」




 そう言い捨てて女は背を向けた。袈裟懸けに裂傷が走っていた。自分のしたこととは言え、悪いことをしてしまった。


 湊が居心地悪くその後ろ姿を眺めていると、ぷつりと何かの切れる音がした。あっと言う間も無く、女の下着みたいな上衣は落下した。


 男たちの喜色に染まった驚嘆の声が漏れる。女が短い悲鳴を上げて、咄嗟に胸を覆う。湊は痛みも忘れて駆け寄った。


 血塗れのシャツを脱ぎ、自分よりも大きな女の体に掛けてやった。女は驚いたみたいに目を丸めて、笑った。




「あんた、いくつ?」

「十歳」

「まだガキね」




 その目に嗜虐的な色は無かった。聞き返すべきか迷ったが、試合開始前のことを思い出して、結局は黙っていた。代わりに、名前を尋ねた。




「貴方の名前は?」

「デネブよ」




 星の名前だ。

 湊は何となく嬉しくなった。デネブは血塗れのシャツを強引に被り、再び背を向けた。




「またね」




 半身で振り返ったデネブの瞳が、美しく輝いて見えた。湊は不思議に思った。

 彼女は嘘吐きだった。嘘を吐くのは悪いことだ。けれど、どうしてか、彼女が悪人には見えなかった。


 湊は、父の言葉を思い出していた。

 全ての嘘が悪い訳じゃない。


 俺の世界は狭いな。

 改めてそんなことを痛感して、湊は感謝と敬意を込めて言った。




「またね、綺麗なお姉さん」




 振り向いたデネブが、少女のように悪戯っぽく笑っていた。湊は、其処に天空の星の光を見た気がした。

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