⑸開幕前夜
試合を翌日に控え、四人は街の外で野営を行った。治安の悪いスコーピオで宿を取るよりは安全だ。
湊はウルを引っ張って、街中を探索に出掛けた。止まることを知らない好奇心の塊だ。放って置けば死ぬだろうが、ウルがいるのならまず安心だ。
身を切るような極寒の夜だった。
澄んだ空気に包まれ、砂漠の夜は青白く染まって見える。昴は悴む手を焚火に翳していた。側では航が見様見真似でナイフを研いでいる。
航は意外と口数が少ない。湊のように言葉で説明する
穏やかな静寂の中で、薪が爆ぜる。
昴はオレンジ色に照らされた航の横顔を見ていた。
ヒーローの生き写しみたいな湊とは違う。航の釣り上がった大きな眼は猫に似ている。
昴の視線に気付いた航が、訝しむように眉を跳ねさせた。
「何」
「いや、君等って、双子って言う程似てないなと思って」
「あんな精神破綻者と似てる筈無いだろ」
それが湊を指しているのか、父親を指しているのか、昴には分からなかった。
航はナイフを丁寧にしまうと、入眠の支度を始めた。昴はその小さな背中を眺めながら、ぼんやりと問い掛けた。
「和輝って、どんな父親だったの?」
航は背を向けたまま、何でも無いみたいに答えた。
「多分、一般的には駄目な父親だったよ。殆ど家にいなかったし、帰って来たと思ったら死んでるし」
「そっか……」
「でも、俺にとっては、最高の父親だった」
吐き捨てるような口調でありながら、航の声には揺るぎない芯があった。
「世界中の誰が否定しても、それは変わらねぇ。親父はヒーローだった」
初めて会った時、航は父親の死を受け入れていなかった。そして、それは今も変わらないのだろう。
航はぼうっと空を眺めながら、問うた。
「湊と親父って、他人から見ても似てる?」
「顔はね」
「性格は?」
昴は唸った。
振り返ってみると、彼等と過ごした時間は決して長くない。彼等の本質を、昴は知らない。
「似てるところもあるけど、似てないところもあると思う」
「例えば?」
「言葉にすると難しいんだけど、和輝は言葉で説明するよりも、行動で示すタイプだった。湊と航を足して出来た最大素数が和輝」
「分かんねぇ」
口角を釣り上げて、航が喉を鳴らすようにして笑った。
説明が難しい。昴は首を捻る。
昴は思い付くまま、彼等の父親の話をした。出会った時のこと、魔法使いに襲撃された時のこと、イデア界のこと。地下空間で怪物と戦った時の話をすると、航は
矢継ぎ早に問い掛ける航に促されて、昴は次々に語った。自分でも思うよりも、ヒーローと過ごした日々のことを鮮明に覚えていた。
自分ばかり話すのも気が引けて、昴は問い掛けた。
「葵は元気?」
「葵って、神木葵?」
「そう」
昴は頷いた。
ずっと気になっていた。
航は逡巡するように視線を
「多分、元気。あの人、元気とか活発とか、そういうタイプじゃないでしょ」
「そうだね」
「だけど、俺等のこと気に掛けてくれて、いつも親父に説教してた」
昴は声に出して笑った。
人間界を去った後も、彼等が変わりなく過ごしていたことが何より嬉しかった。これでヒーローさえ生きていれば、昴は手放しで喜ぶことが出来た。
航は、最後に葵と会った時のことをよく覚えていないらしかった。父親の死を聞いてからの記憶が曖昧で、自分が何処で誰と話したかも分からないと言う。
自分が自分であるという証明を過去に依存するのなら、今の俺は幽霊と同じだ。
嘗て、ヒーローが言っていた。
もしかすると、彼等も同じなのかも知れない。
昴が懐古していると、航は唐突に言った。
「この世界はゴミで出来てる」
「えっ?」
「でも、ゴミが無価値とは限らない」
何のことか分からない。
航はごろりと横になると、空を見上げた。
「親父が言ってた。よく分かんねぇけど、すごく大事なことを言ってたんだと思う」
親父に会いてぇ。
独り言みたいな微かな声だった。
航はそのまま目を閉じた。追及することは出来なかった。
11.くるみ
⑸開幕前夜
夜のスコーピオの街は酔狂な喧騒に包まれていた。
昼間の凶悪な日差しが消えて、
客を呼び込む売女の誘い、酔っ払いの喧しい罵声、安っぽい音楽が混ざり合っている。
歓楽街というものを知らない湊は、人混みに酔いそうだった。
明日に備えて、航は早々に眠りに着くと言った。湊はそれでも良かったのだが、昼間と異なる夜の姿に好奇心を強烈に刺激され、殆ど衝動的に街へ繰り出していた。
興味のままにふらふらと出歩く湊は、奇異の眼差しを向けられ、或いは絡まれ、その度に保護者代わりにのウルに引っ張られた。
「もう戻ろうぜ」
何度目とも分からないウルの言葉を聞き流し、湊は気になるものを見付けては片っ端から尋ねた。
酒場を覗くと、浮かれた酔っ払いが湊を誘った。応えようすると、ウルが後頭部を叩いた。
夜の街は危険だと、ウルが忠告する。だが、湊にとっては、欲望に従順な彼等の中にいると、逆巻く波の中を滑るような心地良い孤独感に浸ることが出来た。其処では取り繕ったり、顔色を窺ったりしなくて良い。
その時、湊の目の端に、嫌なものが映った。
街の明かりの届かない路地の影、痩せた男が壁に話し掛けている。目を向けると、壁と男の間に、女の子がいた。殆どボロ切れみたいな衣服を引っ掛けて、子兎のように身を震わせている。
聞き耳を立てると、男は抵抗の術の無い少女を脅し付け、力に物を言わせて悪戯しようとしているようだった。見た目も醜ければ、内面も腐っている。
湊は突き進むように割って入っていた。ウルが止める間も無く、動揺する男の首筋に刃を突き付けた。
「失せろ」
迫るような低い声が出た。
男は
小悪党過ぎて、殺す価値も無い。
転がるように逃げ出す男が、街の中へ消えて行く。湊はナイフをしまい、怯える少女へ目を向けた。だが、その時、後ろから怒気を含んだ声が響いた。
「――てめぇ、何してくれてんだ!」
路地裏の闇から、弾丸のように何かが飛び出した。湊は咄嗟に身を翻し、少女を壁へ押した。
何かは二人の間を猛牛のように駆け抜け、つんのめったみたいに急ブレーキを掛けた。
赤味を帯びた紫色の髪が、街の明かりに照らされて不気味に映える。自然界ならば、毒を警告している。
地を穿つようにして足を踏み鳴らし、湊の倍程もある男が迫る。少女が悲鳴を上げたので、殆ど反射的に道を塞ぐようにして湊は躍り出た。
胸倉を掴まれると、咽せ返るような酒精が漂った。
「俺が、俺が助けようとしていたのに!」
湊は、ナイフを掴んでいた手を離した。慌ててウルが駆けて来て、間に入った。
少女が闇の中へ逃げて行く。男は名残惜しそうにその後ろ姿を見詰め、湊を睨んだ。
獣のように荒く息をする男は、酔っているらしい。酒に酔っているのか、自分に酔っているのかは、よく分からない。だが、嘘は吐いていない。この男は、独善的だが、湊と同じように少女を助けようとしたのだろう。
「それは、悪い事をしたね」
「全くだ! ガキは家に帰って寝てろ!」
「そうするよ。だから、手を離してくれ」
湊は乱暴に男の手を振り払った。
「このクソガキ!」
再度、男が手を伸ばした時、湊は脊髄反射のようにナイフを抜いていた。切っ先が男の太い中指を切り付けて、赤黒い血液がじわりと滲む。
しまった、と思った。男の目が怒りに濁るのが見えた。だが、その時、ウルが掌を翳した。
真っ白い魔法陣が広がる。その矛先は紫色の男に定められている。
「もう良いだろ。悪気は無かったんだから」
仲裁をする風を装いながら、ウルは恫喝している。その凄みのある声は、普段の彼からは想像も出来ない程に低い。
男は幾分か冷静さを取り戻したようだったが、赤い瞳には怒りの炎が燻っていた。
「てめぇ、名前は?」
「無い」
「嫌いなタイプだ」
唾を吐き捨て、男が言った。
ただの小悪党ではないな、と思った。酒に酔いながらも、体幹はぶれず、引き締まっている。意志の強そうな眉は釣り上がり、顔は嫌悪に歪んでいた。
興醒めだと、男は苦虫を噛み潰したように背中を向けた。その姿が見えなくなるまで、ウルは魔法陣を広げていた。
やがて潮が満ちるように、街の喧騒が戻って来た。ウルは緊張感が解けたのか、風船が萎むようにしてその場に蹲った。
「お前はもう、余計なトラブルに首突っ込むなよな……」
「不可抗力だよ。俺、悪い事した?」
「したよ、したした。だから、あんなことになったんだろ」
「じゃあ、ウルが助けてくれたから、結果オーライだね」
湊は笑って、手を差し伸べた。
ウルは溜息を吐き出して、立ち上がる。その目に映るのは労わるような優しさだった。湊はその視線を避けるようにして、歩き出した。
湊は、他人の嘘が分かる。
父はそれを善悪の基準にしてはいけないと言ったが、或る程度の判断基準にはなると思った。正直者が善良とは限らないし、嘘吐きが邪悪とも限らない。けれど、隠し事をしている人間を信用するというのは、到底無理な話だ。
湊が見る限り、昴もウルも嘘は吐いていない。
エレメントもシリウスも本当のことを話していた。――ただし、全ての真実を開示している訳ではない。
他人の心の内を暴きたいとは思わないが、その隠し事が、いざという時に死に直結する可能性がある。航はそういう遣り方を非難するが、最悪の事態を想定すると、打てる手は全て打って置きたい。
一通り街を歩くと、湊は満足して来た道を戻り始めた。胸を撫で下ろすウルを横目に、湊は問い掛ける。
「ウルって、何者なの」
なるべく平静を装い、何でもない世間話みたいに言った。嘘の吐き方は心得ていた。
ウルは問い返した。
「どういう答えを求めているんだ?」
一筋縄ではいかないか。
胸の内で湊は呟いた。
「ウルは顔も広いし、頭も良いだろ。一人で生きることも出来るし、処世術もある。何でわざわざ、魔法界で一番勢力の弱い昴の味方をするの?」
「褒めてる?」
「俺はお世辞は言わないよ」
お世辞を言うのも、
出来るかどうかと、やりたいかどうかは別の話だ。
ウルは頭の後ろに手を組んで、口笛でも吐きそうな上機嫌だった。
「お前、性格悪ぃだろ」
「そうかな」
「でも、そういう奴は嫌いじゃねぇ。頭良い癖に、分かってて
嘘吐きには、嘘吐きが分かるらしい。同類相求とでも言うのだろうか。
湊は横目にウルを観察しながら、空を見上げた。青白い夜空に星が輝いている。人間界に比べると、文明の違いなのかやけにはっきりと見えた。
「昴が一番、マシだった」
ウルが言った。
「王族の
これが答えだな、と湊は悟った。
ウルの過去を詮索するつもりは無いが、恐らく、彼は嘗てどちらかに属していた人間だ。そして、何かがあって離れた。その何かで得た教訓が、形無き正義なのだろう。
街を外れると、人は
今頃、航は寝ているだろうか。
湊がぼんやりと考えていると、ウルが立ち止まった。
「俺の前では、嘘を吐かなくていいぜ」
湊は振り返った。
ウルが不敵に笑っている。其処には嘘や打算は無い。微かに滲むのは労りだ。
「お前が貧乏籤を引かなきゃならねぇ時は、相談しろ。一緒に泥舟に乗ってやるからさ」
「無理心中は本望じゃない」
沈むなら、独りで沈む。
親父がそうだったように。
「難しく考えるなよ。共犯者になってやるって言ってんだ」
「犯罪を起こす予定は無いんだけど」
「いいや、お前はいつか、手を汚す」
「それって、予言?」
「ああ」
「当たらないといいなあ」
湊は軽薄に笑った。
街外れの砂漠に、炎が見えた。寝ているのか航が横たわり、その側で昴がぼんやりと空を見上げている。
夜の喧騒から切り離された静寂に心が凪いで行く。二人を見ていると安心する。今の湊にとって、最も優先すべきは生命の安全であり、その対象は弟の航だ。湊が守らなければならないものだ。
もしも――。
もしも、航に危険が迫り、手を汚さなければならない日が来た時、自分は刃を握れるだろうか。
考えてみても、分からない。人を殺さない。それは湊の中にある最低限のルールだ。けれど、それをしなければ守れないという場面で、行動を起こせるか?
最悪の事態を想定して置かなければ、いざという時に動けない。
湊は振り返った。ウルが驚いたように足を止めた。
「約束だよ。もしもの時は、ウルを頼る」
拳を向けて、湊は笑った。
四大精霊会議でも、航が同じことをした。それは父の真似だった。何かを誓う時、その心に嘘偽りが無いことを示すジンクスみたいなものだ。湊と航は、このジンクスをする時には、嘘は吐かないと決めていた。
ウルは少しだけ笑って、拳を当てた。
乾いた拳の感触が、やけに鮮明だった。
ウルは拳を当てたまま、唐突に言った。
「俺からも約束がある」
「何?」
「死なないこと」
何かを見透かされているな、と湊は思った。
「死ぬ気は無いよ」
「違ぇ。死ぬ気が無いことと、生きようとすることは違ぇんだ」
ウルの声には、縋るような懸命さがあった。
「どんな状況でも、生きようとすることを諦めんな。きっと、ヒーローはそうだっただろう」
その言い方は、ずるい。
そう言われると、湊は首を振れない。
「分かったよ」
湊が答えると、漸くウルは満足したように肩を落とした。力の抜けた腕がだらりと下げられる様を見て、随分と心配を掛けたことを知る。
湊は、父の言葉を思い出していた。
どちらか一方を選ばなくても良い。両方を選ぶ為の努力をしても良い。
湊の目には時々、
きっと、同じ場面は幾度と無くやって来て、決断を迫るだろう。その時、自分は正しい選択が出来るだろうか。
親父なら、何と言っただろう。それで良いよと背中を押しただろうか。それとも、それは駄目なんだよと
「親父に会いたい」
ぽつりと零れたのは、独り言だったのかも知れないし、弱音だったのかも知れない。けれど、その呟きを拾い上げたウルが、そうだな、と言って慰めるように頭を撫でた。
泣く訳にはいかない。
湊は乾いた頬に触れ、明かりの元へと歩き出した。
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