⑷夢の中

 レグルスの藍色の瞳が、ぼうと音を立てて燃え上がる。昴は喉元のどもとに刃でも突き付けられているかのように言葉を失っていた。


 レグルスの後ろには武装した王の軍勢がずらりと並んでいる。まるで崖の先端に立たされているかのような、圧倒的に不利な状況だった。


 その時、ロキが庇うように正面に立ち塞がった。




「お前は選ばれなかった」

「黙れ」




 地を這うような低い声だった。


 レグルスはロキを蛇蝎だかつの如く睨み付け、掌を向けた。其処に浮かんだ魔法陣は、これまで昴が見て来たものとは一線をかくす複雑で難解な数式だった。金色に発光する情報の渦が、肌を刺すような威圧感と共に目の前に迫る。




「お前等は異端者だ。平和を脅かす歴史の汚点だ」




 ちくりと、小さな痛みが胸に走る。

 その痛みの正体も分からぬまま、昴は顔を上げ、強く睨み付けるレグルスと対峙していた。




「平和なんて、何処にあるんだ!」




 脊髄反射的に、昴は叫んでいた。喉の奥から血の塊が零れ落ち、草の海を黒く染めて行く。それでも、訴えなければならないと思った。


 ピスケスの街の人々を殲滅せんめつした王の軍勢の狼藉ろうぜきを、弱者をあざける強者の醜悪を、他者をおもんばかることもせずに力を欲する王族の愚行を、何としてでも弾劾だんがいしなければならなかった。




「こんなものは、平和じゃない。助けを求めて伸ばされた手を踏みにじるような王家ならば、滅んでしまえばいい!」




 昴は身体を支えきれず、その場に膝を突いた。

 咳き込む度に血が滲み、意識が舞い落ちる木の葉のように揺れ動く。


 レグルスはいぶかしむように眉を跳ねた。




「お前に何が分かる? 歴史から学ぶこともせず、その場の空気に流されるだけの家畜かちくが」




 黄金色に輝く光の粒子が、火取虫のように魔法陣に集結して行く。風が唸りを上げて吸い込まれ、大気そのものがびりびりと震えていた。


 押し潰されそうな威圧感を放ち、レグルスは振り絞るように叫んだ。




「与えられた力を知りもせず、感情のままに突き動かされ、命を犠牲にすることしか出来ない兵器の分際で、――知ったような口を利くな!!」




 凄まじい怒気と同時に、魔法陣から爆風がほとばしった。


 ロキが睨み付けるような神妙な顔付きで掌を払った。途端、真っ赤な炎が防壁のように燃え盛る。草原を火の海と化す煉獄の炎は、夜空を夕焼けのように染め上げた。


 苛烈な熱波は、昴すらもろうのように溶かしてしまいそうだった。


 昴はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながらも、目の前で起こる大規模な魔法の攻防戦を網膜に焼き付けようとした。


 きっと、いつか同じ戦いが繰り返される。

 いつも都合良くロキが助けてくれるとは限らない。今は一つでも多くの魔法を見て覚え、対抗手段を持たなければならない。守られるばかりではなく、本当に大切なものを守る為に。


 視界一杯を覆う炎が、ひびでも入るように少しずつ崩れ落ちる。空には星の数程の魔法陣が浮かんでいた。王の軍勢による援護が、絶対的強者である筈のロキの炎を押している。


 ロキは舌打ちを一つ零し、もう一度掌を払った。地表が沸騰ふっとうし、彼方此方あちこちから炎の柱が噴出する。けれど、金色の魔法陣は際限無く蘇る。圧倒的な実力差を数で埋める王の軍勢は、レグルスの暴風に続くように何度でも展開された。




「シルフの加護だな」




 吐き捨てるように、ロキが言った。

 その時、ウルが小さな魔法陣を広げた。それは目の前の自然災害のような戦いと比べ、あまりにも小さく、風前の灯火のように弱々しかった。


 ウルは薄氷を裸足で歩くような、険しい顔付きをしていた。




「離脱するぞ」




 背を向けたまま、ロキが頷いた。




「早く行け」




 気付くと、昴の足元には小さな魔法陣が描かれていた。転移魔法だ。それはウルの魔法陣と呼応し、仄かに光った。その時、ロキが言った。




「死ぬんじゃないぞ」




 背を向けた彼が、笑ったような気がした。


 空間が歪み、この世の終わりのような世界が霞んで行く。昴は手を伸ばした。けれど、それは取られることも無く、全ては意識と共に闇の中へ消えてしまった。








 9.閉塞

 ⑷夢の中








 温かく柔らかな泥濘ぬかるみに、足元からずぶずぶと沈み込んで行くような感覚だった。


 このままでは窒息してしまう。頭の冷静な部分が警鐘を鳴らす。慌ててもがく程に身体は沈んで行き、頭まですっぽりと埋まってしまった。けれど、昴は呼吸が出来ることに気付いた。そのお蔭で、これは夢だと分かった。


 泥沼を抜けた先、真っ白な空間が広がっていた。

 自分は泥の中を抜けて、地平線も見えない広大な白い領域にいる。


 寒くはない。

 生暖かく、ずっと此処にいてもいいような気がした。


 その時、白亜の向こうから、誰かがやって来た。

 小さな黒い影が硬質な足音を響かせて、堂々と歩いている。昴は咄嗟に身構えたが、それが目の前に現れた時、叫び出したい程の歓喜に震えた。




「和輝!」




 人間界で別れた筈のヒーローが、目の前に立っている。見ただけで只者ただものではないと分かる、太陽のような存在感。惑星のように人々を惹き付ける安心感。


 レグルスやロキとは違う、魔法使いとは異なるただの人間だ。だからこそ、その特異性がより際立つ。




「久しぶり」




 透き通るような眼差しに慈愛を乗せて、ヒーローは昴の前に膝を突いた。




「何か迷ってるね」




 図星を突かれて、昴は苦笑した。

 夢の中でも、彼の不思議な色の虹彩こうさいには、目には見えない何かが見えているのだろう。

 例えこれが都合の良い夢であっても構わなかった。誰かに縋り付いて、導いて欲しかった。




「僕は、和輝の言っていた救済を必要としない世界を創りたいと思った。でも、それが正しいことなのか、分からなくなってしまったんだ」




 泣き言を零すように、昴は言った。

 和輝は、乾いた笑いを漏らした。




「何それ」




 その声に、侮蔑ぶべつ揶揄やゆの色は無かった。他愛の無い冗談を笑うような、穏やかで優しい声だ。


 けれど、真綿のような柔らかな声は、昴を慰めはしなかった。




「世界を創るのは、全ての命だよ。誰か一人だけの願いを投影した世界なんて、すぐに歪む」




 まるで、経験談みたいに、和輝は苦い顔で言った。




「お前の正しいと思うものを、みんなが望んでいるとは限らない」

「じゃあ、和輝は何が正しいと思うの」

「何も正しいとは思わないよ。間違っているとも思わないけど」

「分からないよ」




 昴が喘ぐように言うと、和輝は不思議そうに小首を傾げた。夢の中だからなのか、彼の癖まで忠実に再現されている。


 昴はさ。

 和輝が言った。




「正しいと思うからやるの? それって、誰が決めるの?」




 昴には分からなかった。

 和輝ばかりが正解を知っているみたいだ。その目には、何が見えているのだろう。




「世の中は多数決だ。でも、みんなが良いって言うものが、正しいとは限らない」

「じゃあ、人の意見はないがしろにしてもいいのか」




 和輝は首を振った。




「まだ、その次元の話じゃない」

「どういうこと」

「人の心は弱い。だから、徒党を組む。その弱さを知っている人は、操ろうとする」

「操る?」

「群衆心理さ」




 歌うように、和輝は言った。




「其処にいる人たちには、選択肢が無い。王家に縋る以外に身を守れない。でも、そんな世界は間違っていると思わないか?」




 分からない。

 和輝は時々、こういう言い方をする。分からなくてもいいと思っているのだろう。いつか分かる時が来る。そんな風に達観した物言いだ。




「もしも、王族の支配が無くても命を守れる世界があったなら、人々はどちらを選ぶかな。少なくとも、お前の隣にいる彼は、その答えを知っている」




 隣と言われても、此処には昴と和輝しかいない。

 辺りを見渡すと、白亜に染まっていた空間は、夜明けの空のようにじわりと薄らいでいた。


 覚醒の時が近い。




「なあ、和輝。僕はどうしたらいいのかな。誰を信じていけば――」




 すると、和輝は指を突き付けて、挑戦的に笑った。




「その答えもきっと、隣の彼が教えてくれる」




 その指の先、昴の隣には誰もいない。

 和輝の濃褐色の瞳には、何が見えているのだろう。酸素を求めて喘ぐ魚のように、昴は霞んで行く和輝へ訴えた。




「分からないよ、和輝! 教えてくれよ!」




 昴が呼び掛けても、和輝は微笑むばかりだった。その姿は少しずつ霞み、遠去かる。

 それでも、昴は手を伸ばし続けた。




「何処へも行かないって、約束しただろ! 何処にも行かないでよ!」




 すると、和輝は悲しそうに目を伏せた。長い睫毛まつげが頬へ影を落としている。


 いいかい。

 幼子に言い聞かせるように、諭すように、和輝は穏やかに語った。




「どんなに大きな力があっても、どんなに人より賢くても、どんなに大勢の部下がいても、おごってはいけないよ。どんなに偉くなっても、他人の痛みが分からないような人間にはなったら駄目だ」




 彼が何を言おうとしているのか、分からない。

 けれど、その全ては昴の為に向けられている。昴一人の為に。




「イデア界の話をしただろ? 世界は知識で繋がっている。お前は独りじゃないよ」




 忘れないで。


 その言葉を最後に、ヒーローの姿は溶けて消えてしまった。昴は追い掛けて手を伸ばしたけれど、指先は虚空を掻くだけだった。


 途端にどっと寂しさが押し寄せて、胸の中に穴が空いたような虚しさが込み上げる。


 孤独感に苛まれ、昴はこのまま消えてしまいたいもすら思った。――けれど、その時、足元から小さな気泡が浮かび上がった。それは七色に輝き、ふわふわと揺れ動く。


 昴が覗き込むと、気泡はぱちんと割れてしまった。

 けれど、足元からは次々に大小様々な気泡が浮かび、辺りは埋め尽くされていた。


 夢の中にいると解っているのに、夢のような光景だと思った。そんな自分が馬鹿らしくて、何故だか涙が溢れた。


 声が聞こえた。

 誰かが、呼んでいる。ヒーローでも透明人間でも、ロキでもない。誰かが、何度も自分を呼んでいる。


 行かなくちゃ。

 昴は立ち上がった。空間を埋め尽くしていた気泡は、ドミノ倒しみたいに一気に弾けて消えて行った。

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