⑶焦眉の急

 街を焼き尽くす炎に照らされ、空は夕暮れのようなくれないに染まっていた。


 昴は何も出来ぬまま、ただ焼かれて行く人々の悲鳴を聞いていた。それは耳の奥を突き抜けて、脳を揺らし、目の前が急速に暗くなるような絶望に襲われる。


 燃え盛る街から、一つの影が抜け出して行った。

 それは昴が先刻出会った少女――否、魔獣だった。バンシーは空に浮かび上がると、空気の中に霧散し、溶けてしまった。


 死を告げる為だけに存在する魔獣。

 其処に悪意は無く、ただ、魂に刻まれたプログラムに従って行動を起こす。自然界は弱肉強食だ。弱者をほふる強者が悪者とは限らない。


 街の上空を囲む王の軍勢は、昴の正体に気付いたようだった。指を差して声を上げ、複数の魔法陣が幾何学的に広がって行く。


 臨戦態勢を取ったウルの横、昴は目の前が歪んだかのような嫌な錯覚に陥った。

 人々の動揺が雑音になって耳を通り抜け、現状を把握出来ない。


 臓腑を焼くような熱が込み上げる。

 昴は息を引き付けるような咳をした。口元を押さえた掌に、血の塊が溢れていた。その時、弾かれたように誰かが叫んだ。




「感染者だ!」




 昴は激しく咽せ返り、辺りにはあられのように血液が散っていた。

 潮が引くように距離を取る人々の中、ウルだけが昴の腕を離さなかった。


 王の軍勢の魔法が放たれる。

 それは金色の槍となり、空気を震わせながら昴を貫こうと駆け抜ける。ウルは片手で魔法陣を広げた。其処から吹き抜けた無数の風は、糸をほどくようにして王の軍勢の魔法を消し去っていた。


 ウルが何をしたのかも、何が起きているのかも解分からない。昴は込み上げる嘔吐感に呻きながら、只管ひたすらに胸元を握り締めていた。


 街を襲った死に至る病だ。

 昴はそれを悟った。治癒魔法は効かない。バンシーは昴に死を告げる為に、やって来たのだ。




「僕、死ぬのかな」




 昴が問うと、ウルは噛み締めるように言った。




「死ぬもんか」




 苦く笑うウルの横顔が、かすんで見えた。

 昴は病による悪寒と嘔吐感に苛まれていた。けれど、腹の底から込み上げる怒りに、全ての感情は支配されていた。


 王の軍勢は手を休めない。次々に駆り出される多様な攻撃を紙一重かみひとえかわし、ウルは昴を連れて上空へ飛び立った。


 雲を突き抜け、街が点に見える程の上空。高低差に耳が鳴る。腹部が圧迫されているみたいで酷く苦しい。けれど、追撃は止まず、光の矢が飛んで来る。


 その一撃を躱す為に、ウルが魔法を操作する。凄まじい方向転換による重力の力に、昴はまるで見えない大きな掌に押さえ付けられているみたいな息苦しさに襲われた。


 息吐く間も無い波状攻撃に、此方は防戦一方だ。ウルは額から汗を流し、ギリギリで躱して行く。


 昴は、霞む意識の中で掌を翳した。

 その魔法陣は、雲の中にあってもなお白く、今にも溶けてしまいそうだった。


 犠牲の対象を選ばなければ、この魔法は発動しない。

 だが、疲労困憊のウルが、制止を強く訴え掛ける。




「止めろ!」




 昴の目には、燃え盛る街が鮮明に浮かんでいた。理不尽に命を奪われた人々の嘆きが、今も耳に染み付いている。


 王の軍勢の悪行は、最早、誰にも弁明べんめい出来ない。

 五臓六腑ごぞうろっぷが煮え繰り返るような激しい怒りが、身体中を支配している。誰かが裁かなければならない。真っ赤に染まった頭の中で、昴はそう思った。


 背後から巨大な光の刃が迫っていた。それが二人を貫く――刹那、煉獄の炎が何処かから噴き出した。

 炎の防壁に照らされ、二人は言葉を失くしていた。


 困った時に、予定調和みたいに現れる。


 気紛れな炎のエレメント――が、皮肉めいた笑みを浮かべていた。


 言ってやりたいことは、山程あった。けれど、昴の言葉は、泡が割れるようにして全て消えてしまった。









 9.閉塞

 ⑶焦眉しょうびきゅう









 初めに見えたのは、紅蓮の炎のような頭髪だった。それは爆風に逆立ち、怒りに燃えているようにすら見えた。


 真紅の瞳が昴を覗き込む。まるで、自分自身が炎に包まれているようだった。




「面倒なことになってるな」




 ほとほと呆れたみたいに、ロキは眉根を寄せて言った。昴は言い返そうとしたが、代わりに出て来たのは血痰けったんだった。


 血の塊を吐き出す昴に、ロキが言った。




「それは、お前の融解ゆうかいした内臓だ」




 だから、あまり吐かない方が良い。

 ロキがそんなことを言うので、好きで吐いている訳ではないと言い返してやりたかった。


 辺りは闇に包まれていた。街の明かりが遠くに見える。

 昴は草原に横たわっていた。頭上には勿体無いくらいの星が輝き、青白い箒星ほうきぼしが幾つも降って行く。




「バンシーの呪いか」

「そうだ」




 答えたのは、ウルだった。

 焚き火の炎に照らされたその横顔からは、何も感じることが出来なかった。

 血の臭いに混ざって、何かを煮る食欲唆る香りがした。ウルは食事の用意をしているらしく、鍋を掻き混ぜていた。


 身を起こそうとして、昴は酷い嘔吐感に呻いた。

 二人に制止される間も無く、寝ていることしか出来ないと判断し、昴は星空を眺めた。


 ぐるぐると、視界が回っている。

 天動説の魔法界では、地上は動かず、天体が巡るのだ。人間界で学んだことを思い出す。魔法使いの生きる地上こそが宇宙の中心であるというこの世界の傲慢さに、虚しい程の怒りが込み上げる。


 昴は無意識に拳を握っていた。

 あの街の人々には、何の罪も無かった。けれど、不条理な災難に襲われて、助けを求めた王の軍勢から見放され、何も分からぬままに殺された。こんなことが、許されて良い筈が無い。




「あの人たちに、罪は無かった」




 絞り出すように、昴は言った。同時に血の混じった咳が漏れた。

 口の端を乱暴に拭っていると、ロキが目を細めて言った。




「王の軍勢にも、罪は無かった」




 真紅の瞳には、何の感情も無い。

 伽藍堂がらんどうの瞳を見ていると、まるで自分の弱さを突き付けられているみたいで、恐ろしくなる。昴が身を強張らせると、ロキがさとすように言った。




「怒りも嘆きも必要だ。だが、それに支配されているようでは、未熟者だ」




 感情の無い言葉に、昴は酷く虚しくなる。

 遠くに霞む逃げ水を追い掛けているようだ。


 ロキは暫し昴を見遣ると、何かを逡巡するように空を見上げた。そして、ウルをじっと睨んだかと思うと、ロキは唐突に言った。




「どのくらい飛べる?」

「一人なら、一日で王都にだって行けるさ」

「二人なら?」

「天候にもよるけど、倍は掛かる」

鈍間のろまめ」




 ロキは舌打ちをした。




「半日で行け」

「無理だ」




 無茶な注文に、ウルが狼狽ろうばいする。

 けれど、ウルは何かを思い付いたみたいに指を鳴らした。




なら可能だ」

「使えるのか?」

「座標さえ正確ならな」




 ウルという青年は、昴やロキが思うよりも有能な人材だったらしい。軽薄そうな言動や、攻撃手段を持たない非力さばかりに気を取られ、よく知りもしない彼の能力に勝手な制限を掛けていた。


 ウルは立ち上がり、棒切れで地面に魔法陣を描き始めた。幾何学模様に見える円の中には、無数のルーン文字が刻まれている。


 迷い無く描き切ったウルは達成感を滲ませて、腰に手を当てた。




「出来た」




 ウルが掌を翳す。魔法陣は呼応するように淡く発光していた。




「行ったことのある場所なら、正確な転移が出来るんだけど、未知の場所は自信が無いな」

「俺がかじを取る。お前は黙っていでいればいい」




 人使いが荒いな、とウルは苦笑した。

 昴は霞行く意識の中、奥歯を噛み締めて二人の声を聞いていた。




「目的地は決まっているんだよな?」

「ああ」

「ウンディーネの元か?」

「精霊界へ届く魔法は無い。だから、お前等は予定通り、ウンディーネの泉へ向かえ」

「ロキはどうするんだ?」

「俺にはやることがある」




 昴は息も絶え絶えになりながら、問い掛けた。




「ロキは何処へ行くんだ」




 ロキは冷ややかに見遣った。




「精霊界へ行って、他のエレメントに声を掛ける。早急に話し合わなければならないことがあるからな。お前もウンディーネの元へ到着したら、追って来い」




 そう言って、ロキは西の空を睨んだ。

 眩い星の中に、不自然な程の数の流星群が見えた。その正体を問わずとも、昴には分かっていた。


 王の軍勢だ。

 ウルは焦ったような声を出した。




「急ぐぞ!」




 ウルは血を吐く昴に肩を貸し、魔法陣の中央へ立った。その掌が翳されると、淡い光は途端に天を突く柱のように伸びて行った。


 魔法陣の外に残されたウルが、天空を睨んでいる。




「雑魚共め」




 光の壁に隔絶されながら、昴は血に塗れた手を伸ばした。ロキがどうにかなるとも思えないが、離れてしまうことが恐ろしかった。


 手を繋いだなら、いつかは離さなければならない。出会うのなら、別れもあるだろう。けれど、それは今であってはならない。


 昴は自分でも分からない焦燥に襲われた。伸ばした手は、取られない。頭上に迫る流星群の中、一際輝く星がある。


 それは網膜を刺すような鋭い光となり、地表をさらう暴風となって降り注いだ。風が轟々と唸り、光の壁を掻き消して行く。ウルに庇われながら、昴は背を丸めて身を守るのがやっとだった。


 前後不覚の砂嵐の中に、金色の光が見えた。

 それは既視感を覚えさせる程の苛烈な存在感を放ち、惑星の引力で視線を奪う。


 見えたのは、透き通るような美しい金糸の髪だった。――もしも、天使というものが存在するのなら、このような容姿をしているのだろう。

 樹齢百年を超える大木のような安定感を持ちながら、精錬された仕草は、庶民には手が届かぬような雲の上の人間であることを嫌でも知らしめた。


 銀色の甲冑かっちゅうは月光の下で煌々と輝き、真紅のマントが風をはらんで揺れる。

 昴は、顳顬こめかみに鈍い痛みを覚えた。この男を、知っている。自分の失われた過去が断片的に蘇る。


 暗い地下牢。

 病床に伏す母。

 そして、玉座に座る男。


 凛然と佇む男は、夜空のような藍色の瞳を細めて、笑ったようだった。




「やっと見付けた」




 その柔和な笑顔は、全ての不条理や理不尽を許すかのように慈悲深い。頭の上から爪先まで煌びやかで、全ての動作や表情の機微が品位に満ちている。けれど、昴の頭の中では、警鐘けいしょうが鳴り響いていた。


 この男を、知っている。


 すぐ横で、ウルが舌打ちを漏らした。

 足元の魔法陣は光を失い、子供の落書きのように荒れ果てていた。


 金髪の男は、うやうやしく会釈した。

 伏せられた睫毛まつげに仄かな光が滑る。昴は点滅する意識の中で、彼の名を呼んだ。




「レグルス」




 レグルスの藍色の瞳が瞬いた。

 この男を、知っている。玉座に座る者、かんむりを頂く者、ヒエラルキーの頂点に立つ者。呼称は様々なれど、魔法界に彼を知らぬ者はいない。彼こそが、唯一絶対の王だ。


 昴の頭の中に浮かぶのは、玉座に座るレグルスの姿だった。真紅の絨毯じゅうたんひざまずいた昴は、衆人環視の中で一つの命令を下された。それは忘れ難い程の屈辱と絶望だった。


 あの地下牢へ閉じ込めたのは、レグルスだ。

 まるで見るもおぞましい虫けらのようにさげすみ、王の軍勢は昴を引き倒した。反抗も抵抗も無意味だった。レグルスの決定は覆らない。それを誰もが分かっていたし、疑問すら抱かなかった。




「元気そうで、安心したよ」




 口角を上げて、レグルスが皮肉を言う。

 昴は吐き気と悔恨を噛み締めた。言い返してやりたいと思いながらも、彼の視線に晒されると、へびに睨まれたかえるのように萎縮いしゅくして動けなくなってしまう。


 それは、精神的外傷だ。レグルスから受けた仕打ちは今も昴の中で深い傷となり、癒えることも無くみ続けている。




「酷い格好だね。選ばれし者に相応しい醜さだ」




 藍色の瞳が細められ、呼応するように王の軍勢が笑う。その嘲りは、風の吹き抜けた木々のように広がって行く。


 血に染まった掌、ボロ切れの外套、ほこりを被ったかのような身体。一点の曇りも無く清潔なレグルスとは、比べることすら烏滸おこがましかった。


 レグルスは、まるで光そのものだ。対する昴は、ドブネズミのように光を恐れて目を伏せる。彼が何かを言う度に劣等感が強烈に刺激されて、凡ゆる希望は打ち砕かれてしまう。




「どうして、まだ、生きているんだ?」




 昴は答えられなかった。

 否定も肯定も意味が無いと知っていた。沈黙を守り、堪えることしか出来ない。脅威の前に、昴はあまりにも無力だった。


 身を縮こませ、この場所から消えてしまいたくなる。その時、感情の無い乾いた声が凛と響いた。




出来損できそこないが、随分と偉そうだな」




 炎のような頭髪が風に揺れる。ロキの紅玉の瞳が、レグルスを真っ向から見詰めていた。その瞳の中に光る火花が、まるで七色に輝いて見えた。


 レグルスはロキを睨み、眉根を寄せた。




「エレメントが、何故、此処にいる」

「そんなの俺の勝手だろ」

「魔法界の盟約を破るつもりか」

「盟約? 魔法使い共の命乞いだろ。俺には何の関係も無い。俺は俺のやりたいようにやる」




 何のことだ。

 昴は対峙する二人を呆然と見詰めていた。

 ロキは冷笑を浮かべて、断言するような強さで言った。




「お前は王の器ではない」




 その時、レグルスの面に違う色が映った。それは憤怒とも悔恨とも、悲嘆とも付かない、ぞっとするような無表情だった。

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