⑹遁走
リンドヴルムという怪物は、ドラゴンのように見えるが、元々は地を
ウルが唯一知る攻略の方法は、獲物を喰らったその瞬間に攻撃を仕掛けることだ。捕食直後のリンドヴルムは動きが鈍く、全身を覆う黒い
問題が三つ。
一つは、誰かが
もう一つは、鱗のない部位が見付けられない。
そして、最大の問題は、ウルも昴も攻撃の手段を持っていないということだ。
これを万事休すと言ったら、ヒーローに笑われてしまう。
昴は冷静になった頭で、ウルに問い掛けた。
「ウルの風魔法は何が出来るの?」
「音波による
「普通って?」
「王の軍勢がやっていただろ。風を
昴は、笑った。
「充分だよ」
ウルは魔法の扱いに慣れているのだろう。咄嗟の判断や行動は、昴よりもずっと優れている筈だ。
「僕が囮になる」
「死ぬ気か?」
「丸呑みなら、死なずに済むかも知れない」
昴は魔法を制御出来ない。口内へ飛び込んだ場合、昴の魔法の対象はリンドヴルムになるかも知れない。だが、自分の意思で発動出来るとは限らない。
「僕が囮になって、あの怪物の口の中に飛び込む。捕食直後なら、攻撃が通るんだろ?」
「無茶だ」
「攻撃が通らなかった場合は、すぐに逃げてくれ」
これなら最悪でもウルは助かる。
ウルは何かを言いたげに口を歪めた。
分かっている。これは無茶で無謀だ。だが、逃げ道を塞がれた自分たちに安全策を取る余裕なんて無い。
想定し得る最悪の事態は、共倒れだ。それだけは避けなければならない。
これが、昴に思い浮かぶ最善の策だ。
だが、ウルは納得しなかった。
「それじゃ、駄目だ」
はっきりと、ウルは否定した。
「あの攻撃を見ただろう。リンドヴルムが大口を開けて呑み込む可能性は低い。死のリスクを想定した作戦は失策なんだよ。生き残ることは最低のラインだ」
命あっての
血の気を無くした顔で、ウルが笑った。
「俺は此処で死ぬつもりは無い」
「じゃあ、どうするんだ」
ウルは冷静さを取り戻したかのように、赤い目を瞬かせた。
「倒すことだけが、勝利じゃないぜ」
静かに揺れるそれは闇夜の灯火のように
7.逃走劇
⑹
目的を忘れるな。
ウルが言った。昴は閉ざされた扉の前に立ち、告げられた作戦を思い返していた。
薄い扉の向こうからはリンドヴルムの唸り声が響いている。時折、洞窟内がびりびりと揺れ、天井から砂埃が降って来た。
「行くぞ」
すぐ後ろで、ウルが掌を翳した。
岩壁のように沈黙していた扉は仄かに発光した。軋むような音と共に動き出し、隙間から月光が零れ落ちる。それが開け放たれた瞬間、昴は吹き飛ばされそうな程の威圧感に晒された。
夜明け前の空に、終わりの見えない程に長大な怪物が浮かんでいる。リンドヴルムの
鼓膜が破れそうだった。昴はリンドヴルムの眼前に立っていた。夜明けに似た黄金の瞳には、身も竦む程の獰猛な光が映り込んでいる。
月光を浴びた黒い鱗が、まるで濡れたように輝いている。絶体絶命の状況にいながらも、本能と衝動だけに生きる絶対的強者の姿は、ぞっとする程に美しく見えた。
地獄の釜が開けられたかのように、リンドヴルムが顎を下げた。喉の奥から現れた電磁波が激しく空気を振動させる。離れた場所に立っていてもなお、その場で
辺り一帯を焼き尽くす広範囲の遠距離攻撃。
黄金色の閃光が走った。昴は目にも留まらぬ一撃に、咄嗟に腕を盾にした。
そして次の瞬間、一切を
攻撃を受けた岩壁が衝撃に崩れ落ちる。昴の背後からウルが躍り出た。
「攻撃だけが、魔法じゃないぜ」
昴は一瞬で展開されたウルの手際に感嘆の息を漏らした。
風魔法による攻撃の誘導。一歩間違えば命は無い。凄まじい攻撃の中でそれを瞬時に判断し、ウルは絶対的強者と渡り合っている。
倒すことだけが、勝利じゃないぜ。
昴は、ウルの言った言葉を思い出す。
息吐く間も無く、第二波が来る。
ウルの掌に浮かんだ魔法陣から何かの爆ぜる音がした。一直線に迫るリンドヴルムの攻撃は、またしてもウルの小さな魔法陣によって空気中を屈折した。その一撃は背後にある洞窟内へ突き刺さり、昴は強烈な熱波に晒された。
ウルは昴の首根っこを引っ掴むと、灼熱地獄のような洞窟内へ踵を返した。
足元に雪のように真っ白な魔法陣が現れる。
扉の向こうから王の軍勢の怒号が響き、けたたましい音と共にそれは破られた。
白金の剣を携えた王の軍勢が、殺気に目をぎら付かせていた。その切っ先が届く刹那、昴とウルの身体は飛翔した。
見えない何かが足元から突き上げ、引っ張り上げる。砂鉄が磁石に吸い寄せられるようにして、昴の体は空中を滑り出す。自分の意思とは異なる力に導かれ、立つ事すら出来ない無力感は、虐殺されることを待つばかりの弱者と同じだ。人は魔法の前に、余りにも無力だった。
ウルの周りには光の粒子が浮かび上がる。その目は前だけを見据え、逸らさない。
天井を抜けた昴の目に映ったのは鉛色の雲だった。遠くの月がやけに近く見えた。
下方に霞む洞窟から、リンドヴルムの攻撃に晒された王の軍勢の悲鳴が聞こえる。肉体が焼け、蒸発する。対抗の手段に展開される無数の魔法陣が、
曇天を抜けようと、ウルが加速する。だが、突破させまいと闇色の尻尾が鞭のように襲い掛かる。
ウルが追撃を紙一重で躱し、空中で旋回する。目が回り、何が起きているのか解らない。だが、その瞬間、全身に冷水を浴びせられたかのような悪寒に呼吸を失った。
金色の瞳が、昴を見ている――。
リンドヴルムは昴とウルに狙いを定め、その口を開く。空中では避けようも無い。ウルが苦渋に顔を歪ませる。
その時、足元から火柱が上がった。
地の底からマグマが吹き出したかのように、それはリンドヴルムの鼻先を掠め、彼方此方から噴出する。
昴は、絶句した。
この世のものとは思えない光景だった。ウルは急ブレーキから方向転換し、空中を滑空する。
昴は炎に呑まれる地上へ目を凝らした。
炎の中に、誰かが立っている。
「ロキ」
ロキは、此方を見上げて立っていた。
その面には、何を考えているのか分からない笑みが浮かんでいる。
「ウンディーネのところを目指せ」
その声は音ではなく、脳内に直接響き渡った。
昴は反射的に手を伸ばしたが、ロキは軽く手を振っただけだった。
リンドヴルムの雄叫びが木霊する。この世の終わりを思わせる地獄の光景の中、ロキの姿は見る見る遠去かる。
「ロキ!」
昴が叫んだその瞬間、一際大きな爆発が起きた。それが合図のように、闇に包まれた夜は、突如として昼間のように明るく照らし出された。
空気そのものが振動し、ウルの操縦が乱れる。目まぐるしく点滅する視界の隅で、昴はもう一体の怪物を見た。それは炎の化身と呼ぶに相応しく、爆炎と熱波を纏った巨大な炎の龍であった。
「三下が、調子に乗るなよ」
地を這うような恫喝が、昴の耳に確かに届いた。
サラマンダーは炎の化身。その本性は
一部始終を垣間見たウルは加速し、曇天の中へ突っ込んだ。途端に辺りは灰色の雲に囲まれ、地上の様子は見えなくなってしまった。
時折聞こえるリンドヴルムの悲鳴にも似た雄叫びと、何かを押し潰すような重量のある音が、戦闘の激しさを物語る。
引き返そうとは言い出せなかった。あの場で自分に出来ることは何も無い。だから、ロキは一人で残った。
腹に響くような雷鳴の中で、ウルが言った。
「まさか、本当にサラマンダーなのか……?」
猜疑に満ちた絞り出すような声で、ウルが問い掛ける。何を答えるべきなのか迷った昴は、黙ったままだった。
次元が違う。
魔法使いと人間という種族の違いなんて、些細なものに思える別次元の存在。思えば、ロキは魔法使いや人間の言動に心を動かされはしない。エレメントとは、事象そのものだ。
ウルは魔法を操って、天災のような攻撃範囲から離れた場所へ着陸した。辺りは既に日が昇り、礫砂漠を抜けて赤い土が照らされていた。
僅かに生える
魔法を解除したウルは、ほとほと参ったと言うようにその場にしゃがみ込んでしまった。
「サラマンダーなんて、トカゲの仲間だと思ってた」
「直接、言ってやれよ」
「まだ死にたくない」
ウルが真顔で言うので、昴は緊張感が解けて何故か可笑しくなった。
昴は空を見上げた。雷鳴もドラゴンの唸りも聞こえない。何処か湿気を帯びた穏やかな風が頬を撫でる。空には黄色い太陽が昇り、星は姿を消していた。
ウルの話では、今頃、月は眠っているのだ。自分達は太陽と共に新しい朝を迎えた。そう思うと、何かした訳でもないのに、誇らしくなる。
「生きていて良かったな」
昴が言うと、ウルは気を悪くしたみたいに眉間に
「ロキがサラマンダーだってことは分かったけど、お前は何者なの?」
当然の疑問だ。
昴は首を捻った。自分が何者なのかはよく分からない。
ロキの話では、自分は魔法社会のヒエラルキーの頂点に君臨する王族の
「分からない」
昴は、率直に答えた。此処で嘘を吐く必要も無いが、根拠の無い話もしたくなかった。
ウルは怪訝そうに目を細めたが、追及はしなかった。こういうところが、彼の懐の深さというか、人の良さなのだと思う。
ウルは立ち上がり、大きく背伸びをした。
「
そう言って歩き出すウルの背中を、昴は呆然と見詰めた。
付いて来ない昴を不審に思ったらしいウルが振り返る。
「何だよ。早くしろよ」
「……いいの?」
「何が」
「ウルを巻き込んでしまうかも知れない」
昴がか細く問い掛けると、ウルは呆れたように肩を落とした。
「もう、遅ぇ。乗り掛かった船だ。行き着くところまで、行ってやる」
捨て鉢のようなことを言って、ウルが笑った。
「そんなことより、道中の暇潰しになる話でもしてくれよ」
「僕に話せることがあれば」
そうだなあ、とウルは視線を巡らせて、思い付いたように指を鳴らした。
「そうだ。お前が言ってたヒーローの話でもしてくれよ」
ヒーローの話か。
昴は、胸の中に温かい何かが流れ込んで来たような気がした。二度と会えないかも知れない遠い世界の人間が、まるで側にいるようだ。
「いいよ。その代わり、ウルも教えて欲しい」
「何を?」
「この世界のことを」
ウルは少し考えて、悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、御伽噺のサラマンダーの話でもしてやろうか」
昔々、或るところに、ロキという意地悪な男がいました――。
本人がいないのを良いことに、ウルは意味の無い悪意の籠った作り話を語り始める。昴は声を上げて笑った。
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