8.オリジン

⑴ヒーローの息子

 ヒーローに息子が産まれたのは、五年前の土砂降どしゃぶりの朝だった。世間はクリスマスで、町中がお祭りみたいに浮かれていた。


 その朝に起きた奇跡みたいな出来事を、葵は今も鮮明に覚えている。









 8.オリジン

 ⑴ヒーローの息子









 当時、FBIのBAUに所属していた葵は、バージニア州のクワンティコ本部を拠点に、米国で起こる連続殺人事件を追っていた。


 南部の砂漠地帯で溺死体が複数見付かるという奇天烈な事件が起きた。


 世間を相当に騒がせた事件だが、紐を解いてみると呆気無かった。犯人はアクアフィリアと呼ばれる性目標倒錯の異常者で、近隣の町の地下道を利用して浮浪者を捕まえては、その性的嗜好の為に溺死させていたのだ。その死体遺棄に利用した地下道が砂漠地帯に繋がっていたというだけの話だった。


 犯人の性的嗜好には全く理解出来ないが、死体遺棄に地下道を利用したという考えは合理的だと思った。


 地下ならば人目に付かないし、砂漠ならば溺死体というキーワードにとらわれて、何かの乗り物を利用したと考える。砂漠地帯にその痕跡が無かったということが、より事件を複雑にしていた。


 葵は捜査をする時、犯人の立場になって考える。自分ならばどうするか。溺死体には興味が無かったので、まさか性目標倒錯の異常者とは思っていなかった。


 砂漠に痕跡が無い以上、他の経路を利用したのだろう。そう考えた時、古い地下道が今も活きているという情報を得た。


 死体遺棄された現場からそう離れていない場所に、地下道の入口があった。葵はチームと共に内部へ足を踏み入れた。


 入り組んだ地下道は迷路のようだった。生臭い水が滴り落ち、辺りは腐った空気が淀んでいる。帰ったらまずはシャワーだな、と呑気なことを仲間と話していると、それは突然、現れた。


 見た目は何の変哲も無い、薄暗い印象の青年だった。とても連続殺人鬼には見えなかった。


 犯人は抵抗らしい抵抗もせず、あっさりと捕まった。肩透かしを食らった気分だ。事情聴取にも興味は無かった。


 そういう性的嗜好の人間がいることは知っていた。偶々地下道の存在を知って、それを実現しようとした。殺意なんてものは通り物と同じで、いつ誰の元に訪れるのかなんて分からない。その犯人にとっては、地下道の存在を知った時が、その時だったのだろう。


 マスコミはこぞってこの事件を報道した。

 世間を震撼させた連続溺殺魔の逮捕に、諸手を上げて喜んだ。逮捕したBAUは賞賛され、事件は幕を下ろすーーはずだった。


 葵は元々透明人間と呼ばれる程に存在感が希薄で、隣にいても知覚されないことが多かった。


 BAUの所属と言っても、犯罪歴があり、異常者の気持ちが分かるだろうという不名誉な評価を受けて、アドバイザーのような立場にいた。


 事件解決には積極的には介入せず、訊かれたら答える。だが、葵にしては熱心に働いていたつもりだった。苦手な他人との交流にも骨を折り、大嫌いなマスコミにも丁寧に答え、卒無く対応して来た。


 多分、油断していたのだろう。


 地方放送局のリポーターが、チームに事件解決の経緯を尋ねていた。それはマイクと呼ぶのも申し訳無いくらいの小さなスピーカーだった。マスコミ対策員に託して沈黙を守れば良いと分かっていたのに、葵は余計なことを口にしてしまった。


 葵は、誰にも自分の存在が認識されていないことを前提に、犯人の気持ちが分かる、と小さな声で呟いた。それは犯行を正当化するものでもなければ、被害者を侮辱する意図も無かった。ただ、もしも自分が犯人であったなら、死体は溺死とは無縁の場所に遺棄するだろうという思考から出た言葉だった。まさか、そんな独り言をスピーカーが拾っているとは思わなかったのだ。


 マスコミは音声を編集する段階でその言葉に気付き、そんな不謹慎な言葉を吐き捨てたのは誰だと犯人探しを始めた。


 執拗な調査の結果、それが葵の声だと判明すると、マスコミはFBI捜査官が猟奇的な連続殺人事件の凶悪犯に同情したと事実を歪曲わいきょくし、報道した。人の口に戸が立てられないように、悪口は瞬く間に広がった。


 元々、葵は正式な捜査官ではない。叩けばマスコミが喜びそうなネタがぼろぼろ出て来る。サイコパスと診断された過去があること、家族が全て殉職していること、異常者の心理を理解する犯罪者であること。


 ついでに葵が嘗て和輝と暮らしていたことまで嗅ぎ付けて、同性愛者だなどと根も葉も無い噂を垂れ流し始めた。


 葵も頭に来て、マスコミ本社まで殴り込みに行こうとしたが、チームに止められた。FBIの上層部も頭を抱えていた。


 いずれにせよ、葵の言葉は悪意のあるものではなかった。誤解を解く他無い。一躍有名人となった葵は記者会見を開き、下劣なマスコミの糾弾を当たり障り無く躱し、誰にとも分からないまま頭を下げた。


 けれど、一度火が点けば鎮火には時間が掛かる。上層部は謹慎という形で、葵を一時的にFBIから遠去けるという結論を下した。


 元々存在感が希薄で透明人間とさえ呼ばれた葵にとって、自分の存在が他者に影響を与えるというのは新鮮ではあったのだが、酷く煩わしく感じた。


 心身共に疲弊し、軽く人間不信に陥っていた葵の元へ連絡が入ったのは、そんな頃だった。


 毎日、煩わしいパパラッチを撒いて、執拗な野次馬に無視を決め込んで、漸く自宅へ帰り着いたのは深夜に差し掛かる時刻だった。


 外は天の底が抜けたような土砂降りで、携帯電話は土砂災害の緊急速報のアラームが何度も鳴っていた。


 全てが煩わしくなっていた葵は電源を落とそうとした。その時、何処か間抜けな着信音が響き渡った。しんと静まり返った闇の中、ブルーライトの淡い光に懐かしい名前が表示されている。


 着信、蜂谷和輝。


 疲れ切って何をする気も起きなかったのに、まるで朝日を浴びたみたいに身体中に力がみなぎって行く。助けの望めない絶望の淵で一本のロープが投げられたみたいに、葵は反射的に通話を受け入れていた。


 多忙の為に疎遠になっていたヒーローからの突然の電話は、夜明けを告げる鐘の音のように美しく澄み渡って聞こえた。あの頃と何も変わらない和輝の存在感に満ちた声に、身も世も無く縋り付きたい衝動に駆られ、葵は彼の名を呼んだ。


 ヒーローは挨拶や社交辞令的な世間話を一切しなかった。今すぐに州立記念病院へ向かって欲しいと、聞いたことも無いような切羽詰まった声でまくし立てた。


 葵は反論も追及もしなかった。彼の言葉は脳から直接下された命令のように、抵抗の手段を失くさせていた。


 住所を確認すると、自宅から車で十五分も走れば着く距離だった。肉体の疲れも、堪え難い現実も忘れ、葵は了承した。


 最後に一つだけ理由を問うと、ヒーローは思いも寄らないことを叫んだ。




!」




 彼の言葉を理解するのに、時間が掛かった。


 息子?

 あのヒーローに、息子が産まれるのか?


 それはハッピーエンドと思われていた御伽噺おとぎばなしの主人公に再び脚光が当たったかのような、夢の続きを見せられているような、まさに青天の霹靂へきれきであった。頭を強く打ち付けられたかのような衝撃に一瞬意識が遠退いて、葵は弾かれたように家を飛び出した。


 車を走らせている間、葵の脳裏にはヒーローとの思い出が走馬灯の如く蘇った。はっきり言ってろくな思い出は無かったのだが、何故だかその時は、彼の作った見事な料理や、エメラルドの波を滑る背中や、とろけるような微笑みばかりが宝石のように美しく投影された。


 深夜の街は、毒々しいまでのイルミネーションに照らされていた。もうじきクリスマス。異国の神の生誕祭だ。仲睦まじく肩を寄せ合う男女や、酒に呑まれて路上で叫ぶ学生、眠った我が子を抱いて道を行く夫婦、全てがきらきらと輝いていた。


 病院の駐車場に車を強引に停めて、葵は分娩室まで走った。親族以外は立入禁止と門前払いを食らった数人の男女が、顔面を蒼白にしていた。葵が扉を開けた瞬間に向けられた期待のこもった眼差しは、花がえるかのように見る見る内に絶望に染まる。


 和輝はいなかった。

 彼はエジプトのカイロで医療援助活動に当たっていて、到着が遅れているらしい。元々予定日に合わせて戻る筈だったらしいが、出産が大幅に早まったのだ。


 病院には和輝から連絡が入っていたらしく、葵は先に到着していた彼の友人たちを差し置いて分娩室へ招かれた。室内の様子だとか、看護師の言葉だとかは一切覚えていないのに、はとが豆鉄砲を食ったような友人たちの顔だけはやけにはっきり覚えている。


 和輝の妻とは初対面だった。

 初めての出産に大粒の汗を流し、苦痛に顔を歪ませる彼女を前に、葵は形容し難い奇妙な焦燥を覚えた。


 心待ちにしていた瞬間に夫が間に合わず、たった独りで生死を賭けた出産に臨む妻。今も飛行機の中でほぞを噛むような焦燥に苛まれている和輝。


 此処に自分がいることが場違いなのは分かっていたのに、縋るように彼女が手を伸ばした。葵が殆ど反射的に握ると、彼女は「ごめんね」と謝って、涙を一粒だけ零した。


 二日間にも及ぶ難産だった。葵は苦痛に呻く彼女を見ていることしか出来なかった。


 こんな時、男は無力だ。

 気の利いた言葉を掛けたり、冗談を言って場の空気を和ませたりするのは、葵には不可能だった。


 人間というものに本質的な諦念を抱いていた葵は、特に女が嫌いだった。自分にサイコパスのレッテルが貼られたのは、一人の女の異常者の起こした事件のせいであった。


 軽くトラウマが再起しそうになりながら、葵は此処に来ないヒーローの代わりに彼女の手を握っていた。


 細く美しい女だった。力を込めれば折れてしまいそうな程に華奢きゃしゃな掌には、想像も出来ない程の力が込められていた。


 時間の経過は何処か遠い世界に感じられた。永遠にも思える苦しみの中、閉ざされていた扉は開け放たれた。


 其処に立っていたヒーローは、汗だくで砂埃で汚れた酷い姿だった。超人的な体力を持ちながらも息を切らしているのは、可能な限りの全力で走って来た為だろう。


 それでも、葵には、後ろから差し込む光が後光のようにさえ見えた。

 丁度、クリスマスの朝だった。サンタクロースみたいに現れた彼は、軽く着替えを済ませて清潔にすると、葵と代わって妻の手を取った。




「遅れてごめん」




 小さな声で呟くと、妻は容姿からは想像も出来ない程の醜い罵声を叩き付けて、和輝の手を握りながら泣いた。


 子供が産まれたのは、和輝が到着してから十五分後のことだった。それまでのただただ長く辛い時間が嘘みたいに、するりと産道を抜けたのだ。


 余りにも出来過ぎていたので、本当は何処かで待機していたのではないかと勘繰かんぐってしまったくらいだ。予定調和的な登場は、フィクションのヒーローみたいだった。


 分娩室に産声が響き渡り、ヒーローは医者に渡された我が子を腕に抱いた。


 彼等もその時になって知ったらしいが、息子はなんと、だった。真っ赤な見た目は猿に似ていた。だが、透明感のある奇妙な虹彩の色を持つ二人の赤子に、間違いなく、ヒーローの子供なのだと思い知った。


 息子を腕に抱いたヒーローは、涙を一つだけ落とした。産んでくれた妻に繰り返し「ありがとう」と絞り出すような感謝を告げていた。


 初めて出産に立ち会った葵は、幸せな家族の姿を前に胸が一杯になっていた。人の死は幾度と無く見て来たが、出産に立ち会ったのは初めてだった。


 人間の起源とか、生命の所在とか、そんな小難しいことは一切考えなかった。

 いつも他人のことばかりで自分をないがしろにして来たヒーローが、息子の誕生に涙を零して喜んでいる。世界で最も尊く偉大な瞬間を前にしている。

 その時になって、今まで和輝の言って来た言葉の意味が分かった。


 それは駄目なんだよ。いけないことなんだ。

 ――


 一瞬あれば、人を殺す事が出来る。けれど、産まれるにはそれ以上の時間と、労力と、愛が必要だった。自分が当たり前ように搾取さくしゅして来た命に対して罪悪感を感じる程、葵は脆くはない。けれど、愛され、望まれ産まれて来た二人の子供を前に、全ての問答は余りにも無意味で、無力だった。


 少なくとも、


 葵にとっては他人だ。けれど、和輝の息子ならば、自分の息子も同然だ。葵は知らず、拳を握っていた。


 和輝とその妻は、産まれた息子にみなとわたると名付けた。


 良し悪しはよく分からないが、和輝と妻は唸りながら精一杯考えたのだ。惜しみない愛情を込めて付けた名前だ。それは葵が知るどんな高尚な文章よりも、尊く、綺麗だと思った。


 そして、何の因果なのか、出産に立ち会った葵と、彼等の母国にいる幼馴染が後見人となり、子供たちはすくすくと成長していった。

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