⑸明けない夜
小さな指先が、星空を指し示す。
――あの赤い星がオリオン座。その下に三つの星があって、其処から東に線を伸ばす。
ヒーローは、少年のように笑っていた。
その指先には、青白い無数の星が、身を寄せ合うようにして輝いていた。
――あれが、スバル。
ヒーローが歌うように教えてくれた。慈愛に満ちた微笑みは、全ての罪を許すような救済感に溢れている。身も世も無く縋り付きたくなる。
昴がその名を呼ぼうとした瞬間、誰かが横を擦り抜けた。目の前にいても知覚することすら困難な透明人間は、つまらなそうな仏頂面で昴の後ろを指差した。
ヒーローが言った。
――元気でやれよ。
その途端、昴の足元はがらがらと崩落した。思わず手を伸ばしたが、二人は落ちて行く昴をただ見送っていた。薄情とは思わなかった。それが彼等の出来る最大にして最後の優しさだった。
階段を踏み外したかのような転落感に、昴の意識は一瞬にして覚醒した。辺りは闇に染まり、肌寒い。変な体勢で眠っていたせいか身体中が軋む。
ウルのアジトにいたことを思い出す。そして、今もくっきりと鮮明に思い出せる夢を振り返り、自分がホームシックになっていることに自己嫌悪した。
ふと見ると、辺りには誰もいなかった。
睡眠を必要としないロキは兎も角として、ボロ切れの寝床に
薄闇に包まれた空間に、微かな月明かりが差し込んでいる。見上げると、簡素な
昴は
足場とは言え簡易的なものなので、バランスを取る事が難しかった。洞窟を探検した時は何が何だか分からないまま壁を登ったが、それに比べればまだマシだ。
登り切った昴が隙間から顔を覗かせると、夜空には大きな三日月が見えた。岩場に両手を突いて体を引っ張り出し、昴は視界一杯に広がる夜空に息を呑む。
ヒーローの見せた満天の星には及ばないけれど、冷たく澄んだ空気の中で見る夜空は風情がある。綿を千切ったような灰色の雲が風に流れ、雲間から金色の光が差し込む。
寒さも忘れて夜空を見上げていた昴は、先客がいる事に気付かなかった。
「眠れないのか?」
昴は驚いた。振り向くと、岩に背を預けたウルがいた。その手には湯気の昇るカップがある。
ウルはその場を動かず、空を見上げる。
「今日は三日月。明日は
「月は地球の衛星だから、太陽の光を受けながら周回するんだ。凡そ一ヶ月の単位で、元の姿に戻る」
人間界で学んだ事を話すと、ウルはきょとんと目を丸めた。そして、くつくつと喉を鳴らして「お前、面白いな」と褒めているんだか、馬鹿にしているんだか分からないことを言って笑った。
魔法界は天動説の世界だ。コインのような地上があって、その上には精霊界と天界がある。人間界の科学技術や文明の発展を思うと、魔法に
ウルは月を指差した。
「あの月はな、朝になると眠ってしまうんだ」
「月が?」
「地平線の果てには惑星の巣があって、夜は太陽が眠っている。月が帰れば、太陽が起きる」
「
「ガキでも知ってることだぜ」
ウルは得意げに笑った。
そんなことを人間界で口にすれば、笑われるだろう。惑星の廻るメカニズムも解明されている。けれど、此処には科学なんて無い。常識も違う別の世界なのだ。
きっと、この世界では本当に、太陽は今頃、眠っているのだろう。そして、一晩光り終えた月と星は巣に帰るのだ。
無知だった頃の自分ならば、すんなりと受け入れただろう言葉を、夢のように感じる。
なあ。
ウルが唐突に言った。
「お前って、家族はいる?」
「家族って?」
「母親とか父親とか兄弟とか」
「母親は死んだよ。他は生きてると思うけど、家族とは思えない」
「そっか。まあ、事情はそれぞれだからな」
ウルはそう言って、空を眺めている。月は僅かに傾いて、丁度中天を過ぎていた。
昴は問い掛けた。
「ウルは?」
「俺に家族はいない。生まれた時から、天涯孤独」
「そっか」
「いや、暗くなる事じゃないんだぞ? 俺みたいのはごろごろいるし、それを不幸だと思ったこともない」
明るく笑ったウルに
ロキの燃え盛る炎のような苛烈な瞳とは違う、優しい命の色だ。
「西方にある街の孤児院で育ったんだ。みんな、俺みたいに家族も兄弟もいない奴ばっかりだった。決して裕福ではなかったけど、楽しかったよ。もう、みんなが家族みたいなものだった」
ウルの目は何処か遠くを見ていた。
過去を懐かしみ、それを
思い出すと胸が温かくなり、
其処で会話は途切れた。
昴は切り立った崖の上に立ち、そうっとウルの側まで歩いて行った。転落したら命は無いだろう。否、ウルなら魔法で助けてくれるかも知れない。
そんなことを考えたが、昴は無事にウルの側まで到着した。
「ウルは西方に詳しいの?」
「まあ、それなりに」
「実は俺たち、西に行きたいんだ」
ウルは昴に目を向け、嬉しそうに笑った。
「西は良いぜ。食べ物は美味いし、貿易も盛んだ。ウンディーネの加護を受けているから、水も綺麗だ」
「ウルさえ良ければ、案内してくれないかな。土地勘のある人がいると、心強いし」
「うーん」
ウルは逡巡するように
「悪いけど、まだやりかけの仕事があるんだ」
「そっか……」
「なんで西に行きたいの?」
昴は素直に答えた。
「ウンディーネのところに行きたいんだ」
「はあ?」
ウルは素っ頓狂な声を上げたかと思うと、腹を抱えて笑い出した。
「ウンディーネって、エレメントだろ? そんなの御伽噺だよ」
声高らかにウルが笑う。
御伽噺も何も、ウルだってエレメントに実際に会って話だってしていた。だが、どうやらこの魔法界ではエレメントと言う存在は御伽噺に登場する神様みたいなものらしい。少なくとも、ウルは実在すると考えていない。
ロキの正体を知った時が見ものだな。
昴はそんなことを思った。
7.逃走劇
⑸明けない夜
雷が落ちたかのような轟音が響き渡った。共鳴した岩場がかたかたと揺れ、砂埃が降って来る。
昴は
昴は不明瞭な視界で、懸命に目を凝らした。
「――
夜明け前の暗い空の下、
蛇のような胴体は闇より深い黒色の
「リンドヴルム」
顔面を蒼白にしたウルが、消えてしまいそうな程に小さな声で呟いた。
怪物――リンドヴルムは、洞穴のような大口を開けていた。乳白色の牙は研ぎ澄まされ、粘性の唾液が絶えず零れ落ちる。まるで、獲物を前にお預けを食らっているようだ。
重苦しい空気のように立ち込めて、危機が迫って来る。
リンドヴルム。それが何かなんてことは、昴には分からない。ただ、目の前に迫るこの怪物が敵であることは確かだった。
昴の頭には、人間界で読んだ御伽噺が蘇った。児童文学に登場するドラゴンに似ている。
話の最後にはいつも決まって、この話はフィクションです、と続けられるのだ。だが、恐怖を具現化したような怪物は目の前から消える筈も無く、獲物を前に、その口から吐き出す炎で、今にも昴とウルを消し炭にしようとしている。
昴は息が出来なかった。吸っても吸っても酸素が足りず、目の前がくらくらする。景色が織り交ざって、現状すら理解出来ない。
恐怖が真綿のように喉を締め、呼吸を奪って行く。指先は寒さの為か恐怖の為か、かちかちに凍り付いている。
奥歯が噛み合わず、がちがちと音を立てていた。
リンドヴルムの口が開かれる。その咽頭部に、日輪の如く輝く光の玉があった。千の小鳥が
その時、反応したのはウルだった。
広げられた掌に、真っ白い魔法陣が発光する。放たれた空気の渦は、リンドヴルムの吐き出した電磁波の一撃を
ウルの風魔法によって、電磁波が軌道を逸らされ岩壁に直撃する。まるで、天災だ。凄まじい高熱で岩壁が焼け焦げ、抉り取られる。
ウルは身動き出来ない昴の腕を引いて、洞窟内へ逃げ込んだ。
外からリンドヴルムの怒号が鳴り響き、電磁波の
扉に
頭を抱えるウルが、嘆くように現実を否定する。昴は肌で感じた恐怖の記憶に今も悪寒が止まない。
畳み掛けるようにして、入口からは無数の怒号が迫っていた。王の軍勢だ。居場所が見付かってしまったのか、リンドヴルムを追い掛けて来たのかは分からない。
扉の向こうには、あの怪物がいる。唯一逃げ道は王の軍勢に封鎖され、逃げ場は無い。こんなところに閉じ籠っていたって、意味が無い。それでも、現状を打開する方法なんて一つも見付けられなかった。
どうする。
どうすれば、良い。
爆発しそうな焦燥感に、思考が
そう考えて、それが自分の意思ではないことに気付く。そうだ。自分は何時も
それでは、駄目だ。
自分に何が出来る。
ウルが泣き言を零すように呟いた。
「ロキは何処に行ったんだよ」
自分の力で、どうにかするしか無い。
昴は頭の中に浮かんだ唯一の方法を口にしていた。
「戦おう」
声は固く強張っていた。けれど、この手には、力がある。人間界の洞窟で化物と対峙した時、和輝と葵は魔法使いですら無かった。絶対絶命の状況だった。けれど、現状を把握した上で、起死回生の一手を打った。
透明人間の声が、耳元で聞こえた気がした。
ウルは理解出来ないものを見るみたいに目を丸めていた。
「正気か?」
いつかの自分も、同じことを言った。
だが、今は違う。彼等の残してくれた希望がある。
昴は力強く頷いた。
「この世には、絶望なんて無いんだ」
昴は立ち上がった。
膝が震えている。喉はからからに乾いている。緊張に強張る指先が冷えている。全てを誤魔化すようにして、昴は胸を張って見せた。
未だに座り込んだままのウルを横に、昴は目を閉じる。この洞窟内に出口は二つ。一つは王の軍勢によって封鎖され、もう一方には見たこともない怪物が待ち構えている。
逃げ場が無いのなら、戦うしかない。
その答えに行き着くと、何故だか昴は頭から血の気が引いて、冷静になっていた。
「リンドヴルムと戦うぞ」
「ふざけんな! 死ぬぞ?」
「死ぬ気は無いよ。僕のヒーローが、言っていたんだ」
いつかの言葉を辿るようにして、昴は下手糞に笑って見せた。例え、絶体絶命の窮地で、助けの手が望まなくて、抗うことさえ無意味な絶望の中にいたとしても。
「明けない夜は、無いんだよ」
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