⑷小さな楽園
重い瞼を押し上げると、視界は
昴の目には、見慣れた天井と、能面みたいな顔をした葵が見えた。何かを話し掛けているが、頭痛を伴う耳鳴りに掻き消されて聞き取れない。
耳鳴りは波が引くように静まって行った。
昴は手足の感触を確かめながら、ゆっくりと身を起こす。ソファの上に寝かせられていたらしい。どのくらいの時間を眠っていたのか分からないが、身体中の関節が油切れのようにぎしぎしと軋んでいた。
「無事か?」
ただ一言、葵は問い掛けた。
昴は鈍った思考回路でどうにか頷いた。
葵がほっとしたみたいに肩を落とす。その隣ではウンディーネが見下ろしていた。
意識を失った自分の為に、ロキが彼女を呼んだのだろう。ふと気付くと、隣には和輝が穏やかに眠っていた。
葵は昴の視線に気付くと、呆れたみたいに眉を下げた。
「お前が目を覚ましたってことは、こいつも無事なんだろ?」
「多分」
「こいつは寝たら中々起きないから、気にしなくて良い」
寝汚い印象は無かったが、葵が言うならそうなんだろう。
ウンディーネは
葵は和輝に肩を貸して、彼の自室へ運び込んだ。入れ違うように、ロキがリビングへ入って来た。
「目が覚めたんだな」
「うん」
「気分はどうだ?」
昴は少し考えて、正直に答えた。
「色々なことがあり過ぎて、理解が追い付かない」
ロキは曖昧な相槌を打った。
和輝を運び終えた葵が、真っ直ぐキッチンへ入った。コーヒーの香ばしい匂いが漂う。
葵には誰かを持て成すという思考がそもそも無いので、当たり前のように自分一人分のマグカップを持って来た。何だかそれがとても懐かしい光景に見えて、心地良い現実感に包まれる。
座ろうとした葵が、何かを思い出したようにキッチンへ戻る。昴がぼんやりと見ていると、カウンターの向こうからペットボトルが投げ付けられた。
取り損なった昴には構わず、葵は今度こそソファへ座った。
これが和輝なら、人数分の飲み物でも用意したのだろう。けれど、そういう葵は想像し難い。このくらいの扱いが気安かった。
キャップを捻り、口を付ける。一口だけと思っていたのに、口の中が砂漠のように乾いていて、気付くと半分以上を一気に飲み干していた。
窓の外は明るい。少なくとも、一晩は眠っていたことになる。水が美味い訳だと一人で納得し、昴はキャップを閉めた。
ペットボトルを置くと、待っていたかのように葵が言った。
「お前が見たものは、その女の力で俺たちも見た。だから、説明はいらない」
ぶっきら棒な葵の言葉に、昴は密かに安心した。話せと言われても、何処から話せば良いのか分からないからだ。
葵はコーヒーを一口啜ってから、僅かに身を乗り出した。
「お前の考えたことや感じたことが問題だ」
昴はびっくりした。他人の感想に関心を持つような人間だと思わなかったのだ。
葵は目を細め、冷ややかな視線を送った。
「全部、予定調和だったんだよ。和輝はたまたま巻き込まれたんじゃなく、狙われたんだ。そうだろう?」
葵は凄みのある目でロキを睨んだ。しかし、ロキは柳に風といった調子で笑っている。
意味が分からなかった。彼等は本当に自分と同じものを見たのだろうか。
「お前が和輝と出会ったのは偶然じゃない。そいつが、お前を守る為に和輝の元へ送ったんだ」
ますます分からない。
昴が黙っていると、葵は説明した。
「お前は魔法社会で虐げられ、拘束されていた。ロキはお前を脱出させたが、魔法使いの追っ手を撒く為には魔法と関わりの無い人間界へ、人間として送り込む必要があった。だから、お前の記憶を消した」
「……うん」
「だが、お前を保護する当ては無かった。事実、お前は精神異常者として彼方此方を
昴は俯いた。
その頃のことは、記憶が曖昧だ。覚えていないのかも知れないし、思い出したくないだけなのかも知れない。どちらにせよ、あの頃の昴は死んでいたも同然なのだ。和輝と出会い、人として認められ、この世に生まれることが出来た。
「ロキは、お前を保護するのに
酷い言い草だが、事実だった。
「社会常識の無いお前を
そうだ。和輝が自分を受け入れたのは、葵を知っていたからだ。和輝という人間は、昴にとって、都合が良かったのだ。
補足はあるか、と葵がロキに問い掛ける。
首を振ったのは、ロキとウンディーネだった。人体操作はサラマンダーには専門外だ。ウンディーネも一枚噛んでいたのだろう。
苦い後悔と罪悪感が押し寄せて、昴は顔を上げることが出来なかった。
「僕が、巻き込んだ……」
「もう其処に意味は無い」
切れ味の良い刃で切り捨てるみたいに、葵がばっさりと言った。
「和輝は正論で生きている本物の馬鹿だ。そういう人間だと分かっていて、あいつは和輝に魔法を掛けた。何故だか分かるか」
昴は素直に首を振った。
葵は眉を
しかし、昴には理解が追い付かず、答える術は無かった。
「お前は、あの場所で何を感じた? 和輝とシリウスのどちらが正しいと思った?」
昴は、押し黙った。まるで、自分の内面を見透かされているようで恐ろしかった。
「お前は、過去の登場人物に同情しただろう?」
そうだ。その通りだ。
昴はあれが他人事とは思えなかった。自分のことのように嘆き、悲しんだ。シリウスの境遇に同情し、和輝の正論に
それこそが、シリウスの狙いだった?
昴は頭を抱えた。
頭の中がこんがらがっている。何かがおかしい。まるで、誰かに操縦されているかのように自分の思考すら働かない。
何故だ。
自分は和輝を判断の基準にすることが多かった。それが、どうしてあの時はシリウスの立場になって、和輝を否定したのだ。
何故だ。
昴が考え込んでいると、葵があっさりと答えを言った。
「臨場感を持った感情論は、正論を簡単に覆してしまう。初めて和輝が魔法を掛けられた時から、筋書きは始まっていた」
「葵も、筋書きの登場人物だった?」
「いや。恐らく、俺の存在はイレギュラーだった。筋書き通りなら、俺ではなく、お前が救出に行く筈だった」
和輝が意識を失ったとなれば、昴は助けに向かった筈だ。其処に葵がいなければ、筋書き通りになったのだろう。
「あの時、お前が意識の中へ飛び込んでいたら、其処に見えたのは、お前自身の深層意識だ。お前が望むような和輝の姿が見えただろう」
自分の望むもの――。
きっと、あの時、昴が救出に向かっていたら、和輝に対する疑念を深めたのだろう。そして、昴はシリウスの過去の投影を見る。
ぞっとした。
背筋が寒くなって、全身が薄く粟立っている。
全てはシリウスの掌の上だった。その筋書き通りならば、今頃は、和輝を人間の代表と思い込んで否定し、シリウスの理念に共感し、多数の犠牲を出す魔法を行使していたのだろう。崇高な目的の為ならば、多少の犠牲は仕方が無いと言って――。
「全部、誰かの筋書きだったのか……」
自分の迷いも
身体中に穴が開いて、冷たい風が吹き抜けて行くような空虚感に包まれた。積み上げて来たものが足元から崩されてしまったかのようで、立っていることすら恐ろしい。
机から、硬質な音が聞こえた。葵が手にしていたマグカップを置いたのだ。
釣られるようにして顔を上げると、冷めた目で葵が見ていた。
「履き違えたらいけないぜ。筋書きがあっても無くても、俺たちは変わらなかった。俺も和輝も、お前が特別だから助けた訳じゃない。お前だから助けたんだ」
葵が、一言一句を聞き間違うことの無いようにと、
「自分の境遇を嘆くな。お前は恵まれたんだよ。ロキは、お前を守る為に和輝の元にやった。そして、その筋書き通りであっても、和輝はお前を尊重した。和輝の言葉が感情論じゃないのは、お前の意志を尊重したかったからだよ」
感情論がどれ程に相手の胸を打つのか、昴は知っている。ましてや、昴は判断の基準を和輝に依存していた。意のままに操ることも可能だった筈だ。それをしなかった理由を、履き違えてはならない。そうでなければ、命を懸けて自分を守ろうとした和輝の心の行き場が無くなってしまう。
葵は言った。
「お前が何処の誰だったとしても、大切にしているよ。それだけは、忘れちゃいけない」
忘れちゃいけないんだよ。
例えそれが昴の意思を無視した筋書き通りであったとしても、和輝も葵も、ロキもウンディーネも、昴を守ろうとしたのだ。
守られて来たのだ。
それを、履き違えてはならない。
6.イデア界より
⑷小さな楽園
夜分遅くになって、和輝が起き出して来た。
その美しい相貌に見合わない不恰好な寝癖に、昴は驚いた。完璧を絵を描いたようなヒーローが、急に実体を持って目の前に現れたみたいだった。
腹が減ったと言って、和輝はキッチンへ入った。
冷凍庫から
和輝はリビングの床に胡座を掻いて、ずるずると啜り始めた。
昴はその後頭部に残る鳥の巣みたいな寝癖を見ていた。
和輝が何も言わないので、昴は彼の意識の中を覗いてしまったことや、巻き込んでしまったことを謝罪した。だが、和輝は覚えていないらしかった。
元々夢は余り見ないらしく、本当に疲れて寝過ぎていたのだと思っていたのだそうだ。
意外と寝汚いし、だらしない。計画性が無くて、自分勝手。そういうところが、彼らしいと思った。
和輝は余り興味が無いようだったけれど、居心地の悪さから昴はそれまでの経緯を伝えた。和輝は饂飩を啜りながら適当な相槌を打っていた。
全てを聞き終えた時には箸を揃えて、誰にともなく挨拶をした。うんざりするような量の饂飩は汁まで無くなっていた。
和輝が、
「何でも救えるとは思わないよ」
和輝は立ち上がって、食器をキッチンへ運んだ。
昴はその意味を考えたが、結局、分からなかったので問い掛けた。
「全部を救って、みんなが幸せになれたら良いと思う。でも、それは難しい。だから、俺はいつも自分の納得出来る、最小の不幸で済む方法を考える」
最小の不幸。
昴は復唱した。
「誰も死なない方法があるのなら、俺はそれを択ぶ」
和輝の言うことは正論で綺麗事だ。
シリウスのやっていることは破壊で、エゴで、不毛な行為だった。けれど、昴には、シリウスの気持ちが痛い程に分かる。
間違いと分かっていても、そうとしか生きられない人間だっている。それは、許されないのか。
きっと、本来、其処に正解や不正解は無い。それぞれが思うように生きて、貫いて、分かり合えないだけだ。
問題なのは、分かり合えない時にどうするかだ。
相手を叱責し、手を上げるか。それで良いと笑い、別の選択肢を選べるか。
「人は分かり合えないのかな」
昴は問い掛けた。
和輝は随分と長い時間寝ていたというのに、まだ寝足りないような顔をしている。
「分かり合えないよ」
でもね。
断言した和輝が、寝惚け眼で微笑む。
「でも、認め合えると思う」
何処か間の抜けた笑みに、昴は
和輝が食器を洗っていると、気配を察したのか葵がリビングへ現れた。使った形跡のある寸胴鍋を見遣り、うんざりと顔を
キッチンに立つ和輝に、葵が文句を言う。
何時だと思っているんだ。迷惑を掛けたら、まず謝罪しろ。最低限の報告も無いのは無責任だ。
横で聞いていると、別に和輝は悪くないと思う。けれど、和輝はあっさり謝罪する。彼にとっての最小の不幸だからだ。
言い方が気に食わない。誠意が感じられない。
葵が突っ掛かる。和輝は途中から面倒になったのか受け流し始め、葵も言いたいことを言うと満足したらしく、コーヒーが飲みたいと言う。
和輝は三人分のハーブティーを入れてリビングへ持って来た。
注文と違う品が出て来ても、今度は葵は文句を言わなかった。
仲が良いんだか悪いんだか分からない。二人の性格や価値観は違うし、譲れないこともあるのだろう。けれど、認め合うことが出来る。それを体現している。
イデア界というものがある。完璧なそのものであるイデアが存在する理想世界だと言う。
昴の考えるイデアとは、聖人君子の統治する楽園だった。けれど、得体の知れないキャラクターが点在して、夜中に起き出したヒーローが寝癖頭で四人前の饂飩を完食して、物音に腹を立てた透明人間が文句を言って、何故か三人でハーブティーを啜る。
案外、こんな他愛の無い日常がこそが、楽園なのかも知れない。
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