⑸旅立ちの日に

 男三人でハーブティーを啜るという地獄みたいな状況に、ロキがやって来た。時刻は間も無く午後九時を迎える。ヒーローは寝る時間だ。


 和輝は未だに低身長を気にして、生涯成長期だと信じている。葵は常々つねづね馬鹿らしいと思っていたが、体格に恵まれなかった彼の気持ちは分からない。


 神出鬼没なロキが突然現れたことには、もう驚かない。非現実的な状況に慣れて来た自分が嫌だ。


 ロキは何を考えているのか分からない飄々とした態度で、ソファへ座った。和輝がもう一人分のハーブティーを淹れる為にキッチンへ向かう。


 炎の化身であるというサラマンダー。人間のように見えても、その正体はエレメントと呼ばれる概念そのものなのだそうだ。葵には未だに受け入れ難い。


 彼がロキと名乗った理由には、既に予想が付いている。恐らく、記憶を消した昴のサポートに徹する為だ。彼の存在が記憶を呼び覚まし、魔法の気配を発して追っ手を誘き寄せることがないように配慮したのだろう。


 そんなロキがふらりとやって来る時には、大抵ろくでもない理由がある。葵は黙って、この世の不条理を受け入れられるように心をしずめた。


 納得出来なければ反論したくなるが、それは無意味な問答になるだろう。


 和輝が客用のティーカップを運んで来た。

 飯事ままごとみたいにテーブルの上に乗せたタイミングで、ロキが切り出した。




「昴に話がある」

「僕?」




 葵が心の準備をして、和輝がハーブティーを淹れる間、昴はぼんやりとテレビを見ていた。ロキが何の要件も無く訪れる筈も無いのに、心構えすらしない呑気さというか、無計画さは葵の神経を逆撫さかなでする。


 これまで昴は被害者だった。だが、実際は元凶でもある。和輝はそういうところに目を向けないが、それで困るのは昴だ。彼の意思を尊重し、社会の常識を教えるのも構わないが、駄目なところは駄目だとはっきり指導して欲しい。




「大した話じゃないんだが、今後についての話をしたい」




 何が、大した話じゃない、だ。

 重大事項じゃないか。


 葵は内心で吐き捨て、黙ってハーブティーを啜った。リラックス効果があるらしいが、癖のある味と匂いがどうしても受け付けない。和輝に文句を言ったこともあるが、良薬口に苦しだと笑っただけだった。




「席を外した方が良いかな」




 和輝はソファへ座り、おずおずと問い掛ける。

 本来は他人の目など気にしない精神破綻者せいしんはたんしゃの癖に、何故かこういう気の弱そうな素振りをする。演技だとしたら意味不明だが、葵は苛々した。


 自分たちに聞かれて困る内容なら、この場所で話す筈も無いだろう。

 そう言おうと思ったが、面倒なので止めた。無意味な問答だ。




「お前等にも聞いて欲しい。俺は人間界のことはよく分からないからな」

「俺もそんなに詳しい訳じゃないんだけど」




 和輝が頬を掻いて独り言みたいに呟く。重要な話をしているのに、和輝の間の抜けた返答が一々空気を壊して行く。


 話が進まなくなるような気がして、葵は和輝を追い出そうかと考えた。けれど、それも後々面倒なことになりそうに思えて、止めた。




「昴が人間界にいることは、もう知られている。今に、此処は戦場になる」

「それは困る」




 和輝が真面目な顔で言う。

 葵は溜息を吐いた。




「このまま逃げるか、戦うか」




 ロキが、平坦な口調で言った。

 一朝一夕で決められる問題ではないだろう。だが、いつまでも此処にいる訳にはいかない。和輝も葵も訳の分からない騒動に巻き込まれて、被害を受けている。今生きているのが奇跡みたいなものだ。




「僕は、戦いたくない」

「じゃあ、逃げるのか。いつ、何処まで?」




 終に葵は問い掛けた。早い所、切り上げて欲しかった。葵は聞いていても構わないが、ヒーローが既にこくりこくりと船をいでいる。会話の途中でも平気で寝る男だから、結論は早めに出したい。


 昴は目を伏せて、考えているようだった。

 長い睫毛まつげの先にきついカーブが掛かっている。これが滑り台だったら、着地の前に宙返りでも出来そうだ。


 葵が現実逃避みたいなことを考えていると、ロキが言った。




「今すぐの戦闘はおすすめしない。今のお前が魔法を使いこなしているとは言えないし、強大な軍事力を持った王族と、シリウスという得体の知れない魔法使いを相手に戦いを挑むのは正直、無謀だ」




 多分、この四人の中で一番真面なことを言っているのはロキだ。話を進行している。




「考えたんだが、一度、魔法界へ戻らないか?」

「えっ?」




 昴が素っ頓狂な声を上げる。

 彼等にとっては敵地へ乗り込むも同然だ。納得出来ないというのも分かる。だが、追っ手は昴が人間界にいると思っているのだ。良い案だと思う。




「魔法界へ戻って、体勢を整えよう。俺一人では難しいこともあるからな」

「ウンディーネがいるじゃないか」

「ウンディーネは気紛きまぐれだし、戦闘には向かない」




 葵は無駄な話を叩き切るつもりで訊いた。




「何か当てがあるんだな」




 ロキは頷いた。




「魔法使いは全て王族の息が掛かっているから、信用出来ない。かと言って、シリウスのような第三勢力に加担する理由も無い。取り敢えず、俺の仲間のところに行ってみようと思う」

「仲間?」

「シルフとノームだよ」




 火はサラマンダー、水はウンディーネ、風はシルフ、土はノームというエレメントが存在する。ロキはその一人だ。

 そもそも、魔法使いにとって、エレメントはどういう存在なのだろう。




「エレメントは魔法原理そのものだ。例えば、炎の魔法を使う時には、俺の加護を得る必要がある」




 和輝と昴はよく分からないと言うように曖昧に頷いた。


 葵はうんざりしていた。理解出来ないが、魔法使いにとって、彼等エレメントは力の象徴、神にも等しい存在なのだ。


 そんな最強のカードを初めから持っていた昴が、可哀想な被害者だと同情することはもう出来ない。




「そいつ等のところへ行くには、魔法界に戻る必要があるんだな」

「ああ。あいつ等は気難しいから、呼び出すよりは乗り込んだ方が早い」




 葵からすれば、あのウンディーネという高飛車な女も中々に癖の強い気難しい女だった。それ以上となると、葵はもう関わりたくなかった。




「これはただの提案だ。代案があれば、言ってくれ」




 代案も何も、ただの人間である自分たちに何を期待しているのだろう。

 昴は黙って考え込んでいたが、顔を上げた。




「魔法界へ戻ろう。俺の記憶はまだ曖昧なところがある。一度全てを取り戻してから、考えたい」




 昴にしては、はっきりとした意見だ。

 和輝が大欠伸おおあくびをしたので、堪え切れず、葵はその頭を叩いた。




「決まりだな。日程は早い方が良い。可能なら明日にでも戻ろう」




 葵が思うよりも、結論はあっさりと決まった。肩透かしを食らったような心地だった。異論も代案も無い以上は沈黙するしかない。


 その時、何故か和輝が挙手をした。

 三人分の視線を集め、和輝は何でも無いことみたいにさらりと言った。




「俺も一度、日本に戻る」

「はあ?」




 葵は思わず零してしまっていた。

 とがめる理由も無いが、この場で言うことなのかと思う。




「それで、此処にはもう、戻らない」

「はああ?」




 どういうことだ。

 最低限の相談も無く結論だけを告げるその身勝手さは、優柔不断な昴よりも性質たちが悪い。







 葵は、開いた口が塞がらなかった。

 爆弾発言だ。きょとんとした昴が「結婚って何?」と馬鹿みたいなことを口にする。




「好きな人と生涯を共にするという契約」




 その説明は間違っていないが、言葉選びが重い。


 大体、そんなこと聞いていない。なんで、言ってくれなかったんだ。理不尽と思っても、責めたくなる。もしかすると、その内に伝えようと思っていて、丁度良いタイミングが今だっただけなのかも知れないが、いきなり聞いて祝福出来る程の準備が出来ていない。


 同居人の無計画な爆弾発言に葵が言葉を失くしていると、ロキが猫のように目を細めて言った。




「おめでとう」




 それにならって、昴も祝福の言葉を口にした。

 言いたいことは山程あるが、この場で言うことではない。渋々と、葵も祝福した。


 照れ臭そうに笑う和輝の横で、もう何もかもどうでも良くなってしまって、葵も馬鹿みたいに挙手をした。




「就職が決まった。米国の警察機関であるFBIだ。準備が出来次第、渡米する」




 すると、今度は何故か三人が揃って祝福した。

 拍手を送られるというのはむず痒いが、今は苛立ちの方が勝っていた。

 葵はそれ以上の茶番には付き合い切れず、早々にハーブティーを飲み干して立ち上がった。




「神木捜査官」




 茶化すようにして、和輝が呼ぶ。

 葵も言い返そうとしたが、結婚するという彼が今後どうするのかわからなかったので口をつぐんだ。


 そういえば、こいつはどうするんだ?

 和輝は欧州の医師だ。母国に帰って、また医師免許を取るのか。

 葵が問い掛けると、和輝は波状攻撃とばかりに更なる爆弾を投下した。




「MSFに行く」




 とうとう、葵は天井を見上げて思考停止した。

 待て待て待て、意味が分からない。MSF ――国境なき医師団。彼の技能や性格を考えれば適性のある転職先だと言える。


 だが、お前、新婚だろ。

 それで良いのかよ。




「向こうは納得してるよ。――というか、俺がMSFに加入するって言ったら、プロポーズしてくれたんだ。何処で死んでも、骨は帰って来れるようにって」




 それは、相手のふところの深さに感動するべきなのかも知れない。この無計画で突拍子も無い癖に謎の行動力を持つ男を選ぶのだから、余程の物好きだ。


 聞けば、幼馴染の女らしい。

 葵は会ったこともないが、写真で見たことがある。美しい顔立ちをしていたが、気の強そうな女だった。葵ならば絶対に選ばない女だ。


 それまで黙って聞いていた昴が、またも爆弾を投下する。




「和輝は生涯、葵と一緒にいると思ってたよ。葵と結婚するのは、駄目だったの?」




 昴が馬鹿みたいな質問をする。被曝した葵は気が遠くなって、説明する気も失せていた。

 和輝は朗らかに笑った。




「それも面白そうだけどね、俺たちはもっと広い世界を知るべきなのさ」

「人生で最も無駄な質問だな」




 まあまあと、和輝が宥める。

 お前に宥められる謂れも無いんだけど!








 6.イデア界より

 ⑸旅立ちの夜に








 昴とロキが退出したタイミングを見計らって、和輝が悪戯を思い付いた悪童のような顔で酒瓶さかびんを待って来た。母国の西部で製造された純米大吟醸だ。曇りのある瓶に金色のラベルが高級感を漂わせ、如何いかにも特別な一本だと言っているようだ。


 和輝は二人分の江戸切子のぐい呑と、簡単なつまみを幾つか用意した。

 葵は、目の前に並べられた突き出し風のカプレーゼと玉ねぎのステーキ、さばの塩麹焼きを見ていた。


 さあ呑もう、と和輝は手酌で注ぎ始める。葵は途中で酒瓶を奪って、和輝の分を注いでやった。準備が出来たところで、二人でグラスを掲げる。




「何に乾杯しようか」

「新たな門出に」

「オーケー」




 乾杯。

 ちん、と微かな音を立てて、グラスが触れ合った。


 和輝の持って来た日本酒は、正直、これ以上は無いと思う程に美味かった。米の甘い香りと、水のようにさらりとした呑み心地。果実的な酸味の中に、独特の苦味と旨味があって、呑み出すと止まらない。

 あっという間に一杯空けてしまい、和輝が嬉しそうに次を注いだ。




「誕生日に、母国の友達がくれたんだ。特別な日に呑もうと思って、しまっていたんだよ」

「その友達、趣味が良いな」




 それにしても、美味い。

 葵はチビチビと啜りながら、鯖の塩麹焼きに手を伸ばした。葵は元々偏食で、添加物塗れのファーストフードばかりを口にしていた。和輝と同居するようになってから、禁煙し、酒を控えるようになった。それはひとえに、此処で口にする料理が美味かったからだろう。


 二人で下らないことを話しながら、瓶を半分程空けていた。葵はアルコールに強くないので押さえていたつもりだったが、酒豪の和輝に釣られて随分ハイペースでグラスを空けてしまった。


 和輝はさり気無く水を用意していた。当たり前みたいなこの空気感は心地良いけれど、慣れ切ってはならないと思う。


 玉ねぎのステーキを頬張る和輝は、欠片も酔いを感じさせない。

 葵は水を一気に飲み、グラスをテーブルへ叩き付けた。




「何でMSF?」




 酒の勢いを借りて、詮索する必要も無いことを口にする。

 和輝はグラスを片手に、笑っていた。




「世界を広げたくてね」

「だからって、わざわざ危険な紛争地帯へ行くのか?」

「向こうは何時でも人手不足だ。外科や内科だけでなく、精神的な治療を必要とする人も多い」




 確かに、救命救急医の経験があって、精神科医として成果を出している。この経歴を十分に活かそうと思えば、地方の大学病院で派閥争いに巻き込まれるよりはずっと適した環境だ。




「新婚なのに、大丈夫か?」

「今よりは定期的に帰れるようになるし、育休も取るつもりさ」

「日本に就職するっていう選択肢は無かったのか?」

「俺の医師免許は日本では使えないし、あの閉鎖的な島国は俺に合わないよ。いつか家族が出来たら、海外移住したいと思ってる」




 彼にしては計画性がある。

 だが、それが相談して決めたことなのかが問題だ。和輝が一人で勝手に決めたことなら、正直、先行き不安だ。


 和輝はグラスを一気にあおった。

 先程に葵のようにそれを机に叩き付け、困ったように笑った。




「ずっと、俺のことを待っていてくれた子なんだ。高校を卒業して、単身渡欧して、もう十年くらい。もしも、あの子が側にいて欲しいっていうなら、俺は日本に帰るつもりだった。でも、それは俺らしくないから、やりたいようにやれって言ってくれた。その代わり、帰り道だけは忘れるなってさ」

「骨になっても」

「そう」




 和輝は僅かに頬を赤らめていた。

 こんな顔もするのだな、と新たな一面を知る。




「葵は?」

「あ?」

「葵は、どうしてFBIに?」




 警察は嫌いだっただろう。

 和輝が問い掛ける。葵は適当にかわすべきか悩んだが、結局は素直に答えた。思うよりも酔いが回っていて、上手い嘘が浮かばなかったのだ。




「他に選択肢が無かったんだよ。俺に下されたサイコパスの診断は、社会貢献の中で挽回して行くしかない。診断は兎も角としても、犯罪歴のある俺が選べる就職先は殆ど無い」

「その中では、FBIが一番マシだった?」

「まあね。自分の境遇を嘆くくらいなら、利用した方が生産的だろ?」




 お前を見て、そう思ったんだよ。

 柄に無いことだと知っていたが、今言わなければならないと思った。次が来る保証なんて、何処にも無い。




「お前には感謝してるよ」




 葵が言うと、和輝はくすぐったそうに笑った。




「お酒の力は偉大だね」

「ああ」

「住所が決まったら、連絡してくれ。手紙を書くよ」

「お前の字、汚いからなあ」




 葵が零すと、和輝はからからと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る