⑶イデアの使者

「お前にはその力がある。俺にはお前が必要だ」




 存在を許容するシリウスの声が、まるで鐘の音のように頭の中で響き渡る。


 自分を、必要としてくれる人がいる。

 こんな自分でも、誰かに必要とされている。助けることが出来る。あの悲劇を繰り返さぬように、救うことが出来る。


 昴の腕は導かれるようにして、持ち上げられていた。それは眠りに落ちる時に似た、抗い難い程の甘美な誘いだった。


 耳に残るおびただしい数の犠牲者の悲鳴が、祈りが、恨みが耳に焼き付いている。彼等は罪の無い犠牲者だった。誰を責める。誰を恨む。誰かに責任を押し付けなければ、生きて行けない。




「誰もが平等に生きられる世界を創ろう」




 シリウスの言葉は美しかった。反論の余地も無い。それは自分の理想とする世界なのではないだろうか。


 昴の指先が触れる刹那、背後から声が突き刺さった。

 不思議な程に深く澄んだその声は、清涼な風のごとく暗闇を引き裂いて行った。




「犠牲の上に、平等は成り立たない」




 昴は弾かれるようにして振り返った。

 闇の中に太陽が顔を出したかのような強烈な存在感で、惑星のような引力で視線が奪われる。辺りが照らされたように明るく見えた。


 此処にいる筈の無いヒーローが、凛然りんぜんと立っていた。作り物めいた美しい相貌に微かな悲哀を乗せて、和輝は凄惨な過去の投影を見ている。




「お前の目指している世界は平等じゃない。犠牲を前提とした革命と、一人の強者による独裁だ」




 不快感をあらわにしたシリウスが、身も凍るような冷たい眼差しでせせら笑う。けれど、和輝は真っ直ぐに見詰め返している。




「トップが変われば、世界も変わる」

「社会は民衆の集団意識の投影だよ。トップなんてものは、ていの良い人身御供ひとみごくうだ」

「無能な人間界ではそうなんだろう。だが、魔法社会では力こそ正義だ」

「力による支配の何処に平等があるんだ」

「今よりは、マシになる」




 それまで毅然きぜんと言い返して来た和輝は、其処で何かを逡巡しゅんじゅんするかのように俯いた。




「俺は魔法使いの社会情勢なんて知らない。でも、今のお前を認めることは、出来ない」




 和輝は重心を下げ、今にも飛び掛かりそうに身構えた。


 酷いことを言っていたら、ごめん。

 小さな声で、和輝が先に謝罪した。




「昴の魔法の最大のメリットは、犠牲とする対象を選べることだ。王族は、民衆を監視し、反乱分子を犠牲という形で処分して来たんだろう。何の疑問も意識も無く、作業的に」

「俺はそんなことはしないよ」

「……お前は、俺や昴を狙って大勢の民間人を死なせた」




 シリウスの顔から、表情が抜け落ちる。仮面ががれたようにも、感情が消え失せたかのようにも見えた。


 以前、シリウスは和輝や昴を狙って病院を襲撃した。既に罪も無い大勢が犠牲になっている。其処には罪の意識も、良心の呵責も無い。当然だ。魔法使いは、能力の無い人間を無価値と考えているからだ。


 シリウスの語った美しい理想が、音を立てて崩れて行く。昴は頭の中に泥でも詰まったかのように、思考することが困難になっていた。




「人間は、俺たち魔法使いを迫害し、虐殺して来た。俺の仲間も人間に殺された」




 あの血腥ちなまぐさ陰惨いんさんな光景は、もしかするとシリウスの記憶だったのかも知れない。この仮定が真実ならば、シリウスは家族や仲間の死を見ていることしか出来なかったことになる。




「俺たちはえて来た。数の暴力で支配する人間共から身を守る為に、存在を否定されながら、息を殺して生きて来たんだよ!」




 シリウスが、目の前のヒーローを責め立てる。お前に分かるものかと、声をらして訴える。

 それでも、和輝は目をらさなかった。




「それは不毛なんだよ。お前等が受けた仕打ちは同情に値する。憎んで当然、恨んで当然のものだ。でも、それはもう、過去なんだ。今を生きる人間に、何の罪がある?」




 和輝の声を横に、昴の中で後ろ暗い何かが首をもたげた。微かな違和感が、確かな疑心へ変わるのに時間は掛からなかった。


 透き通るような眼差しで、和輝が言った。




「人は過去のあやまちから、より良い未来を築こうとしている」




 その瞬間、何かが爆発したかのようにシリウスが叫んだ。




「俺たちは、必要な犠牲だったとでも言うのか!!」




 憎悪に満ちた声で、悲鳴を上げるようにシリウスがえる。過去の投影に刻まれた犠牲者の声が凝縮され、シリウスの口からほとばしる。

 それでも、和輝は揺るがない。距離にして僅か数メートル。其処には埋めることの出来ない深いみぞがある。




「死ぬことに意味があるのではなく、死んだからこそ意味があるんだよ。お前の独りよがりな復讐心が、先人の犠牲を無意味にしている」




 和輝の言葉は、余りにも美しい正論だった。

 其処には感情の入り込む余地も無い。傷付き倒れそうなシリウスの神経を、研ぎ澄まされた刃のようにズタズタに切り刻む。


 昴は、崖から突き落とされたかのような絶望感に言葉を失っていた。

 ヒーローの正論に納得したのではない。彼等が分かり合えないという事実が、其処にはある。それは、シリウスの非ではない。


 和輝には、分からないのだ。


 恵まれた容姿、優れた身体能力、人を惹き付ける人間性。まるで、不平等の代名詞だ。彼は、他者の痛みが分からないのだ。彼の吐き出す美しい言葉が既に、強者の論理だということに気付かない。


 和輝は間違っていない。

 けれど、それでは、余りにも。




「お前のような人間がいるから――!」




 絞り出すような悲痛な声で、シリウスが叫んだ。

 シリウスの掌が翳されると同時に、闇より深い漆黒の魔法陣が浮かび上がる。


 分かり合えない。分かり合える筈が無い。

 生きて来た道が違う。選んで来た答えが違う。それは決して譲り合うことが出来ない。


 咄嗟に昴は和輝を庇った。

 掌を翳したのは、殆ど無意識だった。真っ白な魔法使いが広がる。無数のルーン文字と数式が頭の中に情報として流れ込む。この世の原理が視覚化され、どうすれば人を殺せるのか、瞬時に理解していた。


 だが――、昴には、それを発動することが出来なかった。

 自分の魔法は犠牲を必要とする。この場にいる和輝が巻き込まれることは分かっていた。


 昴の一瞬の躊躇ちゅうちょが、致命的な隙となる。シリウスの魔法陣から放たれた闇より深い真っ黒な炎が目の前に迫っていた。


 和輝が腕を引いた。庇った筈の昴を守るように躍り出る。これでは、あの時と同じだ。昴の頭の中に、走馬灯の如く悔恨かいこんの記憶が蘇る。


 その時だった。


 正面に迫る漆黒の炎を、紅蓮の業火が焼き尽くした。凄まじい熱波によって昴と和輝は地面に叩き付けられた。何処からか割って入った炎が轟々ごうごううなりを上げて、シリウスの攻撃を打ち消して行く。


 何かの爆ぜる音がした。昴の目には、燃え盛るような真紅の髪が見えた。




「ロキ」




 炎の化身、サラマンダー。

 毎度、都合良く現れるエレメントは、横顔だけ振り向くと悪戯いたずらっぽく笑った。









 6.イデア界より

 ⑶イデアの使者








「邪魔をするな、サラマンダー!」




 シリウスの怒声が木霊こだまする。

 息吐く間も無く、シリウスは魔法陣を展開した。轟音が空気を震わし、目に見えない筈の風の唸りが鋭い刃のように見えた。

 ロキは片手で次の魔法陣を広げた。回転する魔法陣は円板状になり、空気の中で爆発を起こす。風の刃は爆風の中で粉々に砕かれた。


 ロキの指先がくるりと円を描く。爆炎は蛇のように地を這い、シリウスを取り囲む。

 次の瞬間、地面から噴き出した青白い炎がドーム状にシリウスを包み込んだ。




「肉体は高温の中にあると、跡形も無く蒸発するらしいな。熱に喉が焼かれるのと、酸素が失われて呼吸不能になるのは、どちらが苦しいんだ?」




 教えてくれよ。

 ロキの横顔には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。


 苛烈な炎が辺りの酸素を焼き尽くし、攻撃対象でない筈の昴も息苦しさにせ返った。肉の焼ける嫌な臭いと激しい熱波に襲われ、昴は立っていることすら出来ない。


 これが、魔法だ――。


 抗えるとは、到底思えない。

 その時、ロキが眉をひそめた。舌打ちを漏らし、片手に別の魔法陣を展開する。それは昴と和輝を含む広範囲の地面に広がった。


 びしり、と何かの割れる音がした。

 炎の塊から真っ直ぐに伸びた亀裂が、辺りの闇を引き裂いて呑み込んで行く。地面が崩れ落ちる。それが足元へ届く寸前、身体は空中に浮かんでいた。


 地面から熱波が噴き出して、昴と和輝の身体を浮き上がらせている。巨大な怪物が口を開けて呑み込もうとするかのように、足元には底の見えない空洞が広がっていた。


 ロキが、息を零すように笑った。命を懸けた魔法の戦闘に愉悦を感じているようだった。

 彼は人間ではない。エレメントと呼ばれる概念そのものだ。故に人間のような生命の危機など感じないのだろう。




「サラマンダー、一つ忘れているよ」




 感情を消し去った冷たい声が聞こえた。

 くすぶる炎の中から、シリウスの金色の瞳が光る。




「此処はお前の土俵どひょうじゃない」




 それが合図だったかのように、闇に包まれた空間は弾けて消えた。現れたのは真っ白に染まった無の空間だった。

 ロキの目が辺りを一巡し、やがて和輝を捉えた。


 シリウスが笑っている。




「此処はその人間の深層意識だ。好きに暴れて良いのかな?」




 昴ははっとした。

 それが真実ならば、どんな影響が出るか分からない。


 ロキが何かを言うより早く、和輝が言った。




「そんなにやわじゃないよ」




 和輝が当然のことみたいに、威張いばって笑う。

 釣られるようにして、ロキも口元をほころばせた。





「――だ、そうだ」




 シリウスは、信じ難いものを見たように目を見開いていた。


 此処は和輝の深層意識。

 和輝は夢想しない人間だから、此処には何も無い。望んだものを望んだように見せる。シリウスは和輝を媒介ばいかいにして、昴に幻想を見せた。――否、それは幻想ではなく、過去の投影だったのだろう。


 突き付けられるのは、和輝という人間の異常性ばかりだ。悪い人間だとは思わないが、その精神構造は狂っている。感情の伴わない機械みたいだ。

 意識の中に他人が入り込んで好き勝手に暴れているというのに、意に介さない。




「意識の中だと高をくくって、死なないとでも思ったか? そいつの意識は現実をそのまま映し出す鏡だ。此処で死ねば、お前の精神は確実に影響を受ける」




 此処は現実のレプリカなのだ。

 否、イデア界そのものなのかも知れない。


 シリウスは一つだけ舌打ちを零した。




「狂っている」

「人間は、それでも生きられるらしい」




 ロキが笑った。

 シリウスは悔しそうに唇を噛んだ。そして、その口は終に開かれぬまま、光の粒子となって消えてしまった。


 後に残ったのは、何事も無かったかのような白亜の空間だった。天地も分からない其処は、光の中のように眩しい。


 先程までの激しい戦闘が嘘のようだ。

 昴は地面に着地したが、足元が真っ白なままなので居心地が悪い。


 和輝は繁々しげしげと辺りを見渡していた。




「自分の意識の中に入れるとは思わなかったよ。貴重な経験だ」

「意識の中にもう一つの自我があるという状態が理解不能だよ」




 ロキが言うと、和輝は首を傾げた。




「多分、此処にいる俺が意識そのものなんじゃない? 後はおまけみたいなものさ」




 よく分からない。

 和輝は鼻歌でも歌いそうな上機嫌だった。




「魔法のことはよく分からないけど、此処が意識の中なら、俺にも魔法が使えるかも」




 意味深なことを言って、和輝は頭上に掌を翳した。当然ながら、魔法陣は展開されない。けれど、その掌を横に滑らせると、何も無かった其処に天鵞絨ビロードのような濃紺の夜空が映った。


 シリウスの見せた凄惨な記憶が過って、昴は目を背けそうになった。だが、和輝は空を指差して「見てみろ」と微笑んだ。


 雲一つ無い夜空には、硝子片がらすへんのような星が数え切れない程に輝いていた。美しい蜜色の満月が煌々こうこうと見下ろす。降って来るような圧巻の星空に、昴は息を呑んだ。


 和輝は夜空を指差して、歌うように言った。




「あの赤い星がオリオン座。その下に三つの星があって、其処から東に線を伸ばす」




 星座を探すのも困難な程の豪勢な星空だ。

 和輝の指先を辿り、オリオン座を見付ける。言葉に従って、三つ子のような星を捉え、東へ視線を移動する。

 無数の青白い星が集まっている。目を逸らすどころか、息をすることすらはばかられる美しい星の光だった。




「あれが、スバル」




 プレアデス星団とも言う。

 そう説明して、和輝が少年のように笑った。


 昴の名付け親は、和輝だ。

 惑星探査機の名前を勘違いして付けていたようだが、彼なりの理由はあったらしい。


 何時か、見せてやるよ。

 和輝が零した何でもない筈の言葉が、頭の中に蘇ってはじわりと染み込んで行く。あんな口約束を覚えていたことに、昴は感動した。




「綺麗だね」




 昴が言うと、和輝は得意げに笑った。

 鼻の奥がつんと痛んで、何故だか、涙が溢れそうだった。

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