⑷スピカ
時の刻まれる音と、紙を
白く
声を掛けることすら
和輝は、
受容、慈愛、存在の肯定。柔らかなベールのような感情だけを乗せた優しい微笑みだった。昴が伸ばした手は、しかと掴まれた。
「気分はどうだい?」
昴は何かを伝えようとして、喉の奥に
彼を巻き込みたくないと、強く思った。
死んで欲しくない。此処にいて欲しい。例え、誰が彼を否定し、許さなくても、生きていて欲しい。
この人が大切だと思った。自分がどんな逆境で、生命の危機に
「話は葵から聞いているよ。色々なことが立て続けにあったから、疲れたんだね」
優しく語り掛ける和輝の瞳が、灯火のようにゆらゆらと揺れている。
昴は手放しそうになる意識を繋ぎ留める為に、掌に力を込めた。
和輝はすぐ側に膝を突いて、息を零すようにそっと言った。
「俺もね、記憶が無いんだ」
秘密を打ち明けるような、弱音を零すような声だった。昴は何と返したらいいのか分からず、ただ黙っていた。
「葵と出会ってから一年間の記憶が無いんだ。昔、よく分からない異常者に拉致されて、拷問を受けた。結果、脳は心を守る為に記憶を消した」
それは、
その凄惨な事件の発端は葵で、和輝は巻き込まれただけだった。
葵が罪悪感に
「自分が自分であるという証明を過去に依存するのなら、今の俺は幽霊と同じだ」
「幽霊って?」
「死んだ人だよ」
生きているのに、死んでいる。
酷く矛盾している。だが、和輝は構わずに言った。
「記憶を取り戻したいとは、思わないんだ。取り戻した結果、脳の許容値を超えて人格が崩壊する可能性もあるし……。それに、記憶が無くても、生きていける」
和輝は笑った。
「過去を取り戻すことは、誰にも出来ない。人は前を見る生き物だ。俺はそう思う。だから、過去に
駄目かな、なんて和輝が弱った声で言う。
駄目じゃないよ。昴は答えた。
「なあ、和輝」
「うん?」
「和輝は、僕に昴って名前を付けただろ。何で?」
惑星探査機は、はやぶさだ。
昴が言うと、和輝は照れ臭そうに
「昴の目が、綺麗だったから」
ただ、それだけ。
和輝はそう言って、やはり、笑った。
「昴は、プレアデス星団っていう星の群れなんだよ。綺麗な星なんだ」
「見てみたいな」
「いつか、見せてやるよ」
白い歯を見せて、和輝が子供みたいに笑う。
「なあ、和輝」
「何?」
「和輝は、僕が悪い人間だと思う?」
すると、和輝は驚いたみたいに
「悪い人間だとは、思わないよ」
「どうして?」
「何となく」
それに。
和輝は困ったように眉を寄せて言った。
「俺は、正しいか正しくないかってことを判断の基準にするのは、好きじゃないんだ。だって、それじゃあ、まるで、自分が善悪を理解しているみたいだろ」
その意味が、今の昴にはよく分からない。
「俺は困っている人がいたら、助けるよ」
「ヒーローだから?」
「俺が俺である為に、さ」
誇らしげに、和輝が威張って言った。
きっと、彼は目の前にいたのがどんな悪人でも罪人でも、救おうとするのだろう。保身も自己利益も考えず、理想を実現する為に。
「僕は、和輝に生きていて欲しいんだ」
「うん」
「それだけで、良いんだ」
掴まれた掌に、力が
僕に何が出来る。この手を守る為に、何が出来るのだろう。
「何処にもいなくならないよ」
和輝が言った。それはいつか、昴が和輝と交わした約束だった。
彼はどんな気持ちでそれを言ったのだろう。昴には分からない。けれど、もしもそれが今の自分と同じ気持ちだったのならと思うと、胸が締め付けられているみたいに苦しかった。
僕は君の為に何が出来るだろう。
4.生命の証明
⑷スピカ
散歩に行くと言うと、葵に黙って腕時計と弁当を渡された。今朝も早くから和輝は勤務の為に家を空けていて、送り出したのは葵一人きりだった。
何処に行くかは伝えなかったし、葵も訊かなかった。けれど、夕飯の時間には帰って来いと押し付けるように命令された。
午前九時半。日はまだ高い。昴は昨日の公園へ向かっていた。
公園は静かだった。穏やかな日差しの下、親子連れが何組かいたが、昴の存在を気に掛ける者はいなかった。
露天商が一つ、昨日と同じ場所に開かれている。足を止める者は無く、売り手の男も煙草を吹かせて小休憩しているようだ。そして、その前には一人の真っ白な少女がいた。
何を見ているのだろう。
少女は昴に気付くと、昨日と同じように微笑んで、駆けて来た。公園で遊んでいる幼子と変わらない年頃に見えた。
だが、昴には、その少女が異なる世界のものと分かった。誰も彼女を知覚していないのだ。親子連れも、露天商の男も、通行人も彼女に気付かない。その虚しさを、昴は葵を通して知った。
「君の名前は?」
「名前は無いよ」
少女はあっけらかんと言って、笑った。
名前も無く、誰にも知られず、たった独りきり。
昴も、そうだった。和輝と出会って、名前をもらって、初めてその世界に存在することを許されたのだ。誰かに認めて欲しい。生きていてもいいんだよと言って欲しい。
「名前をあげる」
昴が言うと、少女は何を言われたのか分からないみたいに目を
真っ白に染まる名も無き少女。その
「スピカ」
少女は昴の言葉を復唱した。
「スピカは、星の名前なんだ。僕と同じ」
「スバルも星の名前なの?」
「そうだよ」
気に入ってくれるだろうか。
内心どきどきしながら、僕は彼女の顔色を窺った。
星が好きだった。暖かい日差しも好きだけれど、寒冷地であるこの国は日照時間が短く、極寒の夜が長い。
星座には決して詳しくはないけれど、目の前の名前がないという可憐な少女に、その名と共に生きる権利を与えてやりたいと思った。
少女は言葉遊びを楽しむようにその名を繰り返し、
誰も自分たちのことを気に留めない。二人きりの世界だ。昴とスピカは、時を忘れて笑い合った。
知り合ったばかりである筈のスピカを前にして、僕は欠片も緊張をしなかった。まるで、遠い昔からの知り合いであるかのように安心していた。何故だか、彼女が敵意や害意を向けることが無いことを分かっていた。
与えられた名前を宝物みたいに口にして、嬉しそうに微笑む彼女が味方であると、――僕は、知っていた。
地を這うような声が背後より聞こえたのは、その時だった。
「見付けたぞ」
砂利を踏み付ける乾いた音がした。反射的に振り返った先には、白銀の鎧を身に付けた
「
忌々しげに舌打ちを零す彼等の胸には、見たことも無い五芒星のエンブレムが刻まれていた。
この穏やかならぬ状況にいても尚、周囲の人間は知覚せず、幸せそうに笑い合っている。助けを求める先は何処にも無いのだ。
武装した男の一人が僕を突き飛ばし、無防備な少女の腕を
男は嗤っていた。まるで、手柄を立てたかのように、それがまるで
口角を愉悦に釣り上げる男の横で、昴は見っともなく尻餅を着いたまま、起き上がることすら困難だった。
昴は首根っこを掴まれ、そのまま引き摺られた。街路の石畳が背中を擦り、鈍い痛みを与え続ける。
獲物を見つけ出した男は、
恐怖によって表情を強張らせたスピカは、縋るように無力な昴を鮮明に映している。その目は確かに、助けてと、訴えていた。
その瞬間、全身が稲妻に打たれたような衝撃に襲われた。正体不明の使命感に駆られ、気付いた時には、昴は声を上げて叫んでいた。
「止めろ!」
止めるべきなのは、自分の無謀な行為だった。
抵抗の手段も自衛の術も無い。歯向かえば命は無い。けれど、このままむざむざと引き下がる訳には行かなかった。
「抵抗するのか」
男は白けた目で僕を見下ろした。昴の目には、彼等の姿が地下牢で餌を投げ入れた飼育員と重なって見えた。
頭から押し潰すような恐怖に息が詰まる。喉がからからに乾いて、指先は
「此処で死にたいらしいな」
鍛え上げられた肉体、強固な鎧。多勢に無勢の状況に勝機は一つも無かった。それでも、引き下がれなかった。
助けようと言う者は一人もいない。逆の立場だったなら、自分も同じだっただろう。彼等は異なる世界に生きている別の生き物なのだ。
一人の男が進み出て、目の前に立った。
するすると、腰に差された剣がその身を現す。鎧と同じ白金の鋭い刃だった。
「殺してやる!」
眼前に振り上げられた刃は、非現実的に鋭利な光を放っていた。街中の雑踏は遠ざかり、全てがコマ送りのように見えた。意識は凄まじい濁流に呑み込まれ、縋る先も無く沈んで行く。
昴は、刃の切っ先に映る自分の
その刃の切っ先が命を絶つ刹那、脳裏には母の死に顔が蘇った。
どうか、生きて。
それが母の最期の祈りであった。
生命への執着が警鐘を鳴らす。下がった筈の血液が急激に上昇し、くらくらする。目の前で起きていることが、遠い世界のように感じられた。母の声が、飼育員の目が、和輝の微笑みが。
まだ
「お前等なんて、怖くない!」
溺れる者が水面を目指して
怒りに紅潮した武装した大男と、狩られるばかりの獲物のような昴の間に、網膜を焼き焦がす紅蓮の焔が滑り込んだ。
耳を劈くような高音が界隈に鳴り響き、振り下ろされた刃は石畳の上に弾かれていた。
視界は紅く染まっていた。
燃え盛る炎のような頭髪に、血の色をした瞳。ロキは、少しだけ笑ったようだった。
「また巻き込まれてるのかよ、スバル」
その微笑みに、昴の緊迫は泡が弾けるように消えて行った。
予期せぬ闖入者に男たちが動揺したのは、僅か一瞬だった。
殺気立った彼等は、それまでの行為は
その時になって周囲の人間は、何かが起きていることに気付いたようだった。
母親は子供を抱き、露天商は商品も構わず腰を浮かせ、巻き込まれまいと逃げ惑う。けれど、ロキは、酷く退屈そうな目でそれ等を見ていた。
剣を構えた男達は、
ロキは笑っていた。目の前で剣を振り上げる男たち等、取るに足らない
そして、次の瞬間、その掌から放射状に幾何学模様が広がり、瞬く間も無く一筋の白い光線が空気を切り裂いた。
信じ難い熱波と共に爆風が吹き抜ける。露天商も人も
空は鉛色の雲が重く垂れ込み、身も凍るような恐ろしい
選ばれし者だけに許された絶対的な力。
人知の及ばぬ魔法の前で、昴は余りに無力だった。
此方の動揺なんて気にも留めず、ロキは起き上がれない昴の腕を引っ掴むと、短く「逃げるぞ」と
引き摺られるような勢いで、昴は
手を引くロキと、追い掛けるスピカ。
何が起きているのかは分からないけれど、この二つの掌の感触が、昴の精神をぎりぎりのところで踏み止まらせていた。
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