⑷スピカ

 時の刻まれる音と、紙をめくる微かな音がする。


 白くかすむ視界の奥で、和輝がソファに腰掛けていた。蛍光灯の白い明かりの下で、彼は一心不乱に何かの本を読んでいる。


 声を掛けることすら躊躇ためらう凄まじい集中だった。その真剣な横顔をぼんやりと眺めていると、気配を察したのか真ん丸の瞳が此方を見た。


 和輝は、とろけるように微笑んだ。


 受容、慈愛、存在の肯定。柔らかなベールのような感情だけを乗せた優しい微笑みだった。昴が伸ばした手は、しかと掴まれた。




「気分はどうだい?」




 昴は何かを伝えようとして、喉の奥につかえてしまって黙った。此処でどんな言葉を吐き出したとしても、彼は受け入れてくれる。味方でいてくれる。そう分かったから。


 彼を巻き込みたくないと、強く思った。

 死んで欲しくない。此処にいて欲しい。例え、誰が彼を否定し、許さなくても、生きていて欲しい。


 この人が大切だと思った。自分がどんな逆境で、生命の危機にさらされて、命を落とすことになったとしても、彼には笑っていて欲しい。




「話は葵から聞いているよ。色々なことが立て続けにあったから、疲れたんだね」




 優しく語り掛ける和輝の瞳が、灯火のようにゆらゆらと揺れている。

 昴は手放しそうになる意識を繋ぎ留める為に、掌に力を込めた。


 和輝はすぐ側に膝を突いて、息を零すようにそっと言った。




「俺もね、記憶が無いんだ」




 秘密を打ち明けるような、弱音を零すような声だった。昴は何と返したらいいのか分からず、ただ黙っていた。




「葵と出会ってから一年間の記憶が無いんだ。昔、よく分からない異常者に拉致されて、拷問を受けた。結果、脳は心を守る為に記憶を消した」




 それは、かつて葵から聞いた話だった。

 その凄惨な事件の発端は葵で、和輝は巻き込まれただけだった。

 葵が罪悪感にさいなまれるのは、分かる。けれど、目の前にいる彼が弱り切ったような声で、今もその葵の側を離れないというのは、理解し難い。




「自分が自分であるという証明を過去に依存するのなら、今の俺は幽霊と同じだ」

「幽霊って?」

「死んだ人だよ」




 生きているのに、死んでいる。

 酷く矛盾している。だが、和輝は構わずに言った。




「記憶を取り戻したいとは、思わないんだ。取り戻した結果、脳の許容値を超えて人格が崩壊する可能性もあるし……。それに、記憶が無くても、生きていける」




 和輝は笑った。




「過去を取り戻すことは、誰にも出来ない。人は前を見る生き物だ。俺はそう思う。だから、過去にとらわれる必要なんて、無いんだ。昴が何処の誰でも、俺はお前の味方でいたい」




 駄目かな、なんて和輝が弱った声で言う。

 駄目じゃないよ。昴は答えた。




「なあ、和輝」

「うん?」

「和輝は、僕に昴って名前を付けただろ。何で?」




 惑星探査機は、はやぶさだ。

 昴が言うと、和輝は照れ臭そうにほほを掻いた。




「昴の目が、綺麗だったから」




 ただ、それだけ。

 和輝はそう言って、やはり、笑った。




「昴は、プレアデス星団っていう星の群れなんだよ。綺麗な星なんだ」

「見てみたいな」

「いつか、見せてやるよ」




 白い歯を見せて、和輝が子供みたいに笑う。




「なあ、和輝」

「何?」

「和輝は、僕が悪い人間だと思う?」




 すると、和輝は驚いたみたいに瞠目どうもくした。




「悪い人間だとは、思わないよ」

「どうして?」

「何となく」




 それに。

 和輝は困ったように眉を寄せて言った。




「俺は、正しいか正しくないかってことを判断の基準にするのは、好きじゃないんだ。だって、それじゃあ、まるで、自分が善悪を理解しているみたいだろ」




 その意味が、今の昴にはよく分からない。




「俺は困っている人がいたら、助けるよ」

「ヒーローだから?」

「俺が俺である為に、さ」




 誇らしげに、和輝が威張って言った。

 きっと、彼は目の前にいたのがどんな悪人でも罪人でも、救おうとするのだろう。保身も自己利益も考えず、理想を実現する為に。





「僕は、和輝に生きていて欲しいんだ」

「うん」

「それだけで、良いんだ」




 掴まれた掌に、力がこもる。それはこのまま意識が溶けてしまわないようにと繋ぐいかりのようだった。

 僕に何が出来る。この手を守る為に、何が出来るのだろう。




「何処にもいなくならないよ」




 和輝が言った。それはいつか、昴が和輝と交わした約束だった。

 彼はどんな気持ちでそれを言ったのだろう。昴には分からない。けれど、もしもそれが今の自分と同じ気持ちだったのならと思うと、胸が締め付けられているみたいに苦しかった。


 僕は君の為に何が出来るだろう。









 4.生命の証明

 ⑷スピカ








 散歩に行くと言うと、葵に黙って腕時計と弁当を渡された。今朝も早くから和輝は勤務の為に家を空けていて、送り出したのは葵一人きりだった。


 何処に行くかは伝えなかったし、葵も訊かなかった。けれど、夕飯の時間には帰って来いと押し付けるように命令された。


 午前九時半。日はまだ高い。昴は昨日の公園へ向かっていた。

 公園は静かだった。穏やかな日差しの下、親子連れが何組かいたが、昴の存在を気に掛ける者はいなかった。

 露天商が一つ、昨日と同じ場所に開かれている。足を止める者は無く、売り手の男も煙草を吹かせて小休憩しているようだ。そして、その前には一人の真っ白な少女がいた。


 何を見ているのだろう。

 少女は昴に気付くと、昨日と同じように微笑んで、駆けて来た。公園で遊んでいる幼子と変わらない年頃に見えた。

 だが、昴には、その少女が異なる世界のものと分かった。誰も彼女を知覚していないのだ。親子連れも、露天商の男も、通行人も彼女に気付かない。その虚しさを、昴は葵を通して知った。




「君の名前は?」

「名前は無いよ」




 少女はあっけらかんと言って、笑った。

 名前も無く、誰にも知られず、たった独りきり。


 昴も、そうだった。和輝と出会って、名前をもらって、初めてその世界に存在することを許されたのだ。誰かに認めて欲しい。生きていてもいいんだよと言って欲しい。




「名前をあげる」




 昴が言うと、少女は何を言われたのか分からないみたいに目をしばたいた。

 真っ白に染まる名も無き少女。そのおもては人形のように整いながら、命の気配をまるで感じなかった。




「スピカ」




 少女は昴の言葉を復唱した。




「スピカは、星の名前なんだ。僕と同じ」

「スバルも星の名前なの?」

「そうだよ」




 気に入ってくれるだろうか。

 内心どきどきしながら、僕は彼女の顔色を窺った。


 星が好きだった。暖かい日差しも好きだけれど、寒冷地であるこの国は日照時間が短く、極寒の夜が長い。

 星座には決して詳しくはないけれど、目の前の名前がないという可憐な少女に、その名と共に生きる権利を与えてやりたいと思った。


 少女は言葉遊びを楽しむようにその名を繰り返し、ほほに可愛らしい笑窪えくぼを浮かべた。どうやら、気に入ってくれたらしかった。


 誰も自分たちのことを気に留めない。二人きりの世界だ。昴とスピカは、時を忘れて笑い合った。


 知り合ったばかりである筈のスピカを前にして、僕は欠片も緊張をしなかった。まるで、遠い昔からの知り合いであるかのように安心していた。何故だか、彼女が敵意や害意を向けることが無いことを分かっていた。


 与えられた名前を宝物みたいに口にして、嬉しそうに微笑む彼女が味方であると、――僕は、知っていた。


 地を這うような声が背後より聞こえたのは、その時だった。




「見付けたぞ」




 砂利を踏み付ける乾いた音がした。反射的に振り返った先には、白銀の鎧を身に付けた恰幅かっぷくの良い男たちが取り囲むようにずらりと並んでいる。




梃子摺てこずらせやがって」




 忌々しげに舌打ちを零す彼等の胸には、見たことも無い五芒星のエンブレムが刻まれていた。

 この穏やかならぬ状況にいても尚、周囲の人間は知覚せず、幸せそうに笑い合っている。助けを求める先は何処にも無いのだ。


 武装した男の一人が僕を突き飛ばし、無防備な少女の腕をひねり上げた。スピカは衝撃に顔を歪め、か細い悲鳴を漏らす。


 男は嗤っていた。まるで、手柄を立てたかのように、それがまるでほまれ高きことであるかのように。


 口角を愉悦に釣り上げる男の横で、昴は見っともなく尻餅を着いたまま、起き上がることすら困難だった。


 昴は首根っこを掴まれ、そのまま引き摺られた。街路の石畳が背中を擦り、鈍い痛みを与え続ける。

 獲物を見つけ出した男は、凱旋がいせんとばかりに昴とスピカを引き摺りながら意気揚々と歩いて行く。


 恐怖によって表情を強張らせたスピカは、縋るように無力な昴を鮮明に映している。その目は確かに、助けてと、訴えていた。


 その瞬間、全身が稲妻に打たれたような衝撃に襲われた。正体不明の使命感に駆られ、気付いた時には、昴は声を上げて叫んでいた。




「止めろ!」




 止めるべきなのは、自分の無謀な行為だった。

 抵抗の手段も自衛の術も無い。歯向かえば命は無い。けれど、このままむざむざと引き下がる訳には行かなかった。




「抵抗するのか」




 男は白けた目で僕を見下ろした。昴の目には、彼等の姿が地下牢で餌を投げ入れた飼育員と重なって見えた。

 頭から押し潰すような恐怖に息が詰まる。喉がからからに乾いて、指先は痙攣けいれんのように震え、身体中から血の気が引くのが分かった。




「此処で死にたいらしいな」




 鍛え上げられた肉体、強固な鎧。多勢に無勢の状況に勝機は一つも無かった。それでも、引き下がれなかった。


 助けようと言う者は一人もいない。逆の立場だったなら、自分も同じだっただろう。彼等は異なる世界に生きている別の生き物なのだ。


 一人の男が進み出て、目の前に立った。

 するすると、腰に差された剣がその身を現す。鎧と同じ白金の鋭い刃だった。




「殺してやる!」




 眼前に振り上げられた刃は、非現実的に鋭利な光を放っていた。街中の雑踏は遠ざかり、全てがコマ送りのように見えた。意識は凄まじい濁流に呑み込まれ、縋る先も無く沈んで行く。


 昴は、刃の切っ先に映る自分の青褪あおざめた顔を見ていた。自分の行為は無謀で浅はかであった。後悔しても遅いのだ。――だけど、それでも。


 その刃の切っ先が命を絶つ刹那、脳裏には母の死に顔が蘇った。


 どうか、生きて。

 それが母の最期の祈りであった。


 生命への執着が警鐘を鳴らす。下がった筈の血液が急激に上昇し、くらくらする。目の前で起きていることが、遠い世界のように感じられた。母の声が、飼育員の目が、和輝の微笑みが。


 まだあらがう余地があるのではないかと、心へ強く訴え掛ける。




「お前等なんて、怖くない!」




 溺れる者が水面を目指してもがくように、昴は顔を上げた。恐怖が腹の底から込み上げて足をすくませる。それでも何故か、最期の一瞬まで希望を捨ててはならないと思った。――その時だった。


 怒りに紅潮した武装した大男と、狩られるばかりの獲物のような昴の間に、網膜を焼き焦がす紅蓮の焔が滑り込んだ。


 耳を劈くような高音が界隈に鳴り響き、振り下ろされた刃は石畳の上に弾かれていた。


 視界は紅く染まっていた。

 燃え盛る炎のような頭髪に、血の色をした瞳。ロキは、少しだけ笑ったようだった。




「また巻き込まれてるのかよ、スバル」




 その微笑みに、昴の緊迫は泡が弾けるように消えて行った。


 予期せぬ闖入者に男たちが動揺したのは、僅か一瞬だった。

 殺気立った彼等は、それまでの行為はたわむれに過ぎなかったのだと、統率された動きで昴たちを包囲した。


 その時になって周囲の人間は、何かが起きていることに気付いたようだった。

 母親は子供を抱き、露天商は商品も構わず腰を浮かせ、巻き込まれまいと逃げ惑う。けれど、ロキは、酷く退屈そうな目でそれ等を見ていた。


 剣を構えた男達は、ほとばしるような殺意を込めて一斉に襲い掛かった。立ち塞ぐロキの後ろで、昴はスピカを掻き抱いていた。


 ロキは笑っていた。目の前で剣を振り上げる男たち等、取るに足らない路傍ろぼうの石であるかのように、鬱陶うっとうしそうに眉根を寄せ、日差しを遮るように掌をかざした。


 そして、次の瞬間、その掌から放射状に幾何学模様が広がり、瞬く間も無く一筋の白い光線が空気を切り裂いた。


 信じ難い熱波と共に爆風が吹き抜ける。露天商も人もことごとく吹き飛ばされ、ろうのように溶けていく。

 空は鉛色の雲が重く垂れ込み、身も凍るような恐ろしい雷轟らいごうが追い掛ける。


 選ばれし者だけに許された絶対的な力。

 人知の及ばぬ魔法の前で、昴は余りに無力だった。


 此方の動揺なんて気にも留めず、ロキは起き上がれない昴の腕を引っ掴むと、短く「逃げるぞ」とささやいた。

 引き摺られるような勢いで、昴はせ返るような粉塵の中を駆け抜けた。


 手を引くロキと、追い掛けるスピカ。

 何が起きているのかは分からないけれど、この二つの掌の感触が、昴の精神をぎりぎりのところで踏み止まらせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る