⑶味方
「此処に虫がいるとするだろ?」
昴は思わず足元を見渡したが、仮定の話であることを思い出して、誤魔化すように姿勢を正した。葵は気にも留めず、淡々と語る。
「致死量の毒を持っていて、今にも自分に襲い掛かろうとしている。お前ならどうする?」
「逃げるかな」
「逃げる間も無かったら?」
「死ぬんじゃないかな」
昴が答えると、葵は深々と溜息を吐いた。
まるで分かってないと嘆いているようだ。
昴は葵と共に、近くの商店街を歩いていた。
療養中だった和輝は、今日から仕事に復帰した。家の中には昴と葵が残された。
やるべきことも無く、ぼんやりテレビを見ていたら、葵の日課の散歩に連れ出されたのだ。どうやら、一日一回は出掛けるようにと、担当医の和輝に課せられたノルマらしい。
街は相変わらず賑やかで、大勢の人が忙しなく行き交っている。その一人一人が目的を持っているということを考えると、ただ散歩する自分たちはまるで世界から置いて行かれてしまったかのように思えた。
葵は希薄な存在感から、行き交う人と衝突しかけるが、慣れたように
「俺なら殺す」
「なるほど」
「普通は殺される前に殺す。――でも、これが人間だったら、殺すという選択肢は無くなってしまう」
「どうして?」
「リスクが高いからだ」
葵は不満げに鼻を鳴らした。
「普通はそのまま殺されるか、逃げ切るしかない。和輝みたいな例外は、自分も相手も守ることが出来るんだろう。でも、俺達には、その選択肢が初めから存在しないんだ」
「現状に甘んじて泣き寝入りしろってこと?」
「和輝を基準にするなと言っているんだ。それは誰の為にもならない。俺たちは俺たちのやり方で、一つ一つ乗り越えて行くしかないんだよ」
例え、それが途方も無く険しい道であったとしても。
葵は遠くを見ていた。それは諦念のようであり、希望のようでもあった。
多分、葵は険しい山道を登っているのだろう。何時か頂に到達すると願って、重荷を負いながら、一歩一歩と登っているのだ。
そして、昴もそうとしか生きられない。
葵は黙った。その横顔には疲労感が滲み、今にも眠ってしまいそうに見える。
昴は石像のように固まって動かない葵の側を離れて、雑多な露天商を眺めた。
昴が眺めていても、金が無いことを感じ取ったのか行商人は目も向けなかった。話し掛けられても困るが、目の前にいるのに無視されるのも辛い。
昴は商品を流し見て、歩き出した。
葵の目の届く範囲を心掛けて行動しているつもりだった。葵は微動だにせず、魂が抜け落ちてしまったみたいに虚空を見詰めている。
ふと、足を止める。
振り返ると、先程の露天商の前に、あの真っ白な少女がいた。
凄惨な病院の情景や和輝と葵の忠告が蘇って、昴は声を上げようと思った。けれど、少女はアクセサリーを物珍しそうに眺め、昴の存在に気付く素振りも無かった。 其処に害意や悪意は感じられなかった。ただの、子供に見えた。
少女は昴の視線に気付き、微笑んだ。それは無邪気を絵に描いたような明るい笑みだ。昴は救援を
露天商を眺めていた少女は立ち上がり、昴の元へと歩み寄って来た。振り返る人も目を向ける人もいない。自分も彼女も透明人間だと思った。
昴が動かずにいると、既に少女は目の前に立っていた。背は見下ろす程に小さく、真っ白な頭髪の分け目がはっきりと見える。染み一つ無い白亜のワンピースと、
少女は、無垢な笑みを見せて問い掛けた。
「貴方がスバル?」
ぞくりと、背中に冷たいものが走る。
昴は、声を上げなかったことを後悔した。助けを求めることも、葵を逃すことも出来ない。
硬直した昴を、少女はまじまじと観察している。
足元がぐらぐらと揺れて、立っていられない。周囲は何も変わらず日常を送り続けているのに、自分だけが別の世界にいるみたいだ。
昴が何も答えずにいると、少女は言った。
「貴方をずっと探してた」
「どうして、」
「貴方を助ける為に」
助ける?
この子は、何を言っているのだ。
昴は後ずさったが、少女は距離を詰めては来なかった。
「僕には分からない」
「何が」
「君のことも、僕のことも」
喘ぐようにして、昴は訴えた。吸い込んでも吐き出しても、息が苦しい。溺れてしまいそうだ。
少女はきょとんと灰色の目を丸めていた。その時、遠くで誰かが昴を呼んだ。
葵だ。
その声を認識した瞬間、閉じ込められていた世界はシャボン玉が割れるようにして消えてしまった。街の雑踏や喧騒が戻って来る。
昴は呼吸を思い出し、吹き出す嫌な汗を拭いながら必死に酸素を取り込もうとした。
葵が近付いて来る。
駄目だ。此処に来たら、駄目だ。
そう思うのに、何も声にはならなかった。
少女は近付く葵を認めると、
「貴方が全てを忘れてしまっていても、私は貴方の味方だから」
またね、と言い置いて、少女は幻のように消えてしまった。
残された昴は立っていられず、その場にしゃがみ込んだ。息が苦しい。
葵が膝を突いて覗き込む。
「大丈夫か」
昴は首を振った。
大丈夫じゃない。だから、誰か助けてくれ。
そんなことを考えながら、昴の意識はぷつりと途絶えてしまった。
4.生命の証明
⑶味方
墨を垂らしたような闇の中にいた。
其処は湿気と腐臭に満ちた地下牢だった。
円形の周囲は鈍色の石材によって構築され、唯一の窓は遥か上空にある。一日二度の食事の為に蓋が開けられ、生肉のような食材が投棄されるが、それ以外はぴったりと蓋は閉ざされる。内部は完全な密室となり、僅かな光も差さぬ闇の世界だった。
この掃き溜めのような場所にいる理由は知らなかった。この場所に閉じ込められる以前、何処でどのような生活をして、どのような経緯を経て此処へ
ただ、飼育者は蓋を開けて覗き込む時、まるで
自分は罪人なのだろう。思考や生命の尊厳を
果たして、僕はどのような罪を犯したのだろうか。
問い掛ける相手も無く、長い孤独は言葉の発し方すら忘れさせてしまった。やがては手足の使い方も忘れ、
けれど、何故だか、それが恐ろしかった。
例え
釈放を想定していないこの地下牢で、為すべきことも無く、虚無に呼吸を繰り返し、やがて人知れず生き絶え、その
自分には何も無かった。崇高な理念や尊ぶべき自己、抵抗の
だから、毎日思考し、課題を設定した。
だだっ広い空間に寝床と排泄の場所を決め、食事の回数から日を数え、兵士の眼に映る自分を眺め、此処に存在することを確かめる。
例え死が目の前で手招きをして、抗う術がなく、それを受け入れる他なくても、顔を上げていたいと思う。それは、最期の瞬間まで、死ぬ気なんてこれっぽっちもないからだ。
覚えていたのは、光の中に
母は骨と皮になった指先で、
――どうか、生きて。
今際の際にそう言って、母は息を引き取った。其処からは急転直下の如く、地下牢へ放り込まれた。泥水を
そして、凡そ三年の月日が経った頃、地中を
一筋の光すら差さぬ漆黒の闇の中、突如として凄まじい暴風が吹き抜けた。それは天井の蓋を引き
鼻腔を突いたあの鉄臭さを、生涯忘れないと思う。自分は背を丸めて堪え
暴れ狂う嵐の中で、風前の灯火にも似たか細い声を聞いた。目に見えない何者かが指を突き付けるようにして、声高々に宣告したのだ。
生きてみせろ――、と。
何故か、それが酷く忌まわしい言葉に聞こえた。まるで、存在の全てを否定されたかのような堪え難い
「目が覚めたか?」
昴が目を開けた時、視界に映ったのは白い天井だった。やかんが笛を吹く音、秒針の歩く音。そして、葵の抑揚の無い声。
此処が何処なのか理解し、安堵感で胸が潰れてしまいそうになる。
葵は返答を待たず、キッチンへ向かった。
一人分の麦茶の入ったグラスを持って来て、ローテーブルの上へ音も無く置いた。
「お前、いきなりぶっ倒れたんだよ」
退屈そうに、葵が言った。
そうか。自分はあのまま意識を失って、葵に運ばれて帰って来たのだ。
此処は安全だ。
大きな窓からは夕陽が差し込み、レースのカーテンが風に揺れている。
昴は起き上がり、麦茶を一気に飲み干した。
乾いた喉を
「あんまり
「どのくらい、寝ていたの?」
「三時間くらい」
昼寝にしては、長過ぎる。
昴は
頭の片側が、じくじくと疼くように痛む。葵はキッチンへ戻り、今度は麦茶の入ったジャグと共に湯気の昇るマグカップを持って来た。芳ばしいコーヒー独特の香りが広がった。
空になったグラスに麦茶を注ぎ、葵はコーヒーを
「和輝、今日は帰って来られないってさ。熱は無いようだから、とりあえず寝てろ。もしもそれでも駄目なら明日、和輝と相談する」
業務連絡みたいに、葵は淡々と話す。
昴は、和輝が此処にいないことに寂しさを感じながら、何処かで安心していた。
「夢を見たんだ」
「どんな」
「僕が、地下牢にいた頃の夢」
葵は目を
「お前、地下牢にいたのか」
「そう。――思い出したんだ」
自分が何処かの地下牢に閉じ込められていたこと。害虫のように蔑まれていたこと。母の願いが唯一の支えであったこと。そして、何者かが其処から連れ出して、気付くと青空の下にいたこと。
「僕は、何者なんだ……?」
葵はコーヒーを一口飲み下し、いつもの仏頂面で言った。
「知らない」
突き放すような冷たさで、葵は言う。崖を登る最中にロープを切り離されたかのような絶望感に襲われ、昴は頭を抱えた。
「俺にはお前が何者なのか、その夢が事実なのかも分からない。人は信じたいようにしか、信じないからな。だが、
切り離されたロープの先で、葵が待っている。昴には、どうしてかそんな風に思えた。
葵はコーヒーを置いて、キッチンへ入った。
運ばれて来たのは
「メシ食って、さっさと寝ろ。励ましたり、労ったりするのは俺の役目じゃない」
そんなことを言い捨てて、葵は独り言みたいに手を合わせて挨拶をする。
葵が作ってくれたのだろうか。そう思うと、何故だが泣き出したくなる。地下牢で投げ落とされていた餌や、病棟にいたころに与えられていた給食とは違う。誰かが自分の為に作ってくれた温かい食事だ。
口にした玉子粥は殆ど味がしなかった。けれど、微かに残る玉子と出汁の優しい風味が、昴の緊張を解きほぐす。
二人で鍋一杯の粥を空けた。葵は終始無言だったが、席を立とうとはしなかった。寝てしまえと吐き捨てながら、側を離れようとはしない。
昴は掛けられたブランケットに顔を
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