⑶敵襲

 蝉時雨せみしぐれが降り注ぐ。

 それはだるような熱波と湿気の中で、針のように鼓膜に突き刺さった。


 血のように赤い夕陽が路上を染めている。回転灯の光が眩しく網膜もうまくを焼いて、夢と現実の境界を曖昧に掻き混ぜた。

 他人の勝手なささやきが、リポーターの切口上きりこうじょうが、サイレンが、蝉時雨が、不明瞭な雑音となって激しく神経を責め立てる。


 肉体という牢獄に押し込められた精神が、逃げ場を求めて彷徨さまよっている。だが、現実は先回りをして逃げ道を塞ぎ、有無も言わさず肉体の奴隷どれいとなってしまう。


 誰か、助けてくれ。

 誰でもいい。誰か、助けて。


 精神は血を吐くように叫んでいた。だが、自分は知っていた。この世に救いは無い。救済の手は差し伸ばされない。


 存在感の希薄な葵は、周囲の人間から知覚されない。兄だけが葵の存在を証明していたのだ。だから、兄が死んだあの日、葵の精神は一度死んだのだ。


 肉体の中で壊死えしした精神が蘇ることがあるなんて、夢にも思わなかった。ましてや、そんな自分に救いの手が差し伸べられるだなんて、願ってもいなかった。







 突然、頭上から声が降って来た。

 葵の意識は急浮上した。


 夕暮れに染まる病室は、現実感を喪失させる。夜風をはらんだ遮光カーテンが揺れる度に、レールが微かに震える。それは遠い昔に母国で聞いた日暮ひぐらしの声に似ていた。


 ベッドの上に、和輝が座っている。茜色の光に包まれた病室は、まるで世界の終焉しゅうえんのようだった。


 和輝は、目尻に微笑みを乗せて、問い掛けた。




「夢を見ていた?」




 そっと、息を零すように。

 葵は辺りを見渡して、ひたいを押さえた。視界は不明瞭で、意識は混濁こんだくしている。だが、理性は現状を正しく判断していた。


 此処は病院――和輝の病室だ。

 葵は昴と別れた後、この場所に来て、眠ってしまったらしい。普段なら絶対に犯さないだろう失態だった。

 けれど、和輝は意にも介さずに何かを受容するように微笑んでいる。




「疲れていたんだろ。今日はもう、帰って寝ろ」

「言われなくても」




 葵は立ち上がった。

 知らず、和輝のベッドに突っ伏すような形で眠っていたらしい。身体中の関節が強張って、ぎしぎしと軋んでいた。


 別れも告げず出て行こうとする葵の背中に、和輝の声が追い掛けた。




「またね」




 返答を期待せず、次を約束する。

 葵は振り返ろうと思ったが、止めた。彼の顔を見ると、告げる必要の無い弱音を口にしてしまいそうだった。








 2.レゾンデートル

 ⑶敵襲








 昼間の容赦ようしゃ無い日差しに晒された空気は、夜になると氷のように冷たく澄んでいた。


 墨汁を垂らしたような夜空には、目が眩む程の星が瞬いている。溶けてしまいそうな蜜色の月が、頭上で唄うようにアスファルトを照らしている。溜息が出るくらい平和で退屈な夜だった。


 和輝の病室を後にした葵は、真っ直ぐに帰宅するつもりだった。

 重度の精神病患者と診断され、今も社会から監視の対象である葵は、日常生活の全てに制限が掛かる。基本的に自由は無く、担当医である和輝の許可が必要である。その為に、葵は担当医の和輝と同居している。


 その同居人は、多忙な勤務の為に留守にしていることが多い。

 干渉されることを嫌う葵と、いい加減で放任的な和輝の生活が重なることは少ない。それでも、交友関係の乏しい葵にとって和輝は社会との窓口であった。


 その和輝が長期入院となるのなら、当分は別の人間が担当医となるのだろう。先のことを考えると、途端に暗雲が立ち込めるようだ。急拵きゅうごしらえの担当医が融通ゆうずうを利かせてくれるとは思えない。葵の行動は厳しく制限されるだろう。


 面倒だな、と思う。

 他人のさげすむ眼差しにはもう慣れている。今更、理解して欲しいとは思わないし、治療なんて求めてもいない。――彼は、違うのだろうか。


 淡い月光に照らされた路上に、風が吹けば消えてしまいそうな儚い影が一つ。その青年は、すらりと長い手足を投げ出して、駐車場の花壇に腰を下ろしていた。一見すると、誰かを待っているように見える。だが、薄ぼんやりとした目は焦点も定まらず、途方に暮れた迷子のようであった。


 昴だ。

 身元不詳の精神病患者。

 葵は彼に貼られたレッテルを思い起こし、目眩めまいがする程の酷い同族嫌悪に襲われた。


 似ているのだ。

 この昴という男は、昔の自分に似ている。

 精神病患者と診断され、身元を証明するものを持たず、襲い来る脅威に対して無力。失態に気付きながらも打開の術を探そうとせず、他力本願で、僅かな交流を持つ人間を盲目的に信頼する。


 声を掛けることすら躊躇ためらう嫌悪感は、臓腑ぞうふの奥から染み出して、葵の中にある精神を粉々に打ち砕いてしまいそうだった。


 極端に存在感の希薄な葵にとって、気付かれずに通過することは容易であった。けれど、自分でも理解不能な衝動に駆られて、気付いた時には声を掛けていた。




「お前、こんなところで何してるの」




 昴は微かに笑って答えた。




「行くところが無いんだよ」

「病院は?」

「燃えちゃったし、担当医の蜂谷先生が何も言わないから、忘れられちゃったのかも」




 そんなことがあるのだろうか。

 重度の精神病患者と診断されていた昴の存在が忘れられてしまうとは思えない。


 とは言え、病棟そのものが入院患者共々謎の火災に見舞われて消失してしまったのだ。焼け死んだ患者の遺体は激しく損傷していた。身元確認にてんてこ舞いの病院側を責めることは出来ない。


 だが、行き場を失くした昴に同情はしても、手を差し伸べようとは思えなかった。彼が味方であると証明する手立てが、葵には何も無かったからだ。


 葵は、胸の内に巣食うよどを吐き出すようにして、溜息を一つ零した。昴は相変わらず、ぼんやりと虚空を眺めている。


 他人との交流が著しく乏しい葵には、会話の糸口というものが分からなかった。他愛の無い世間話というものを、葵は知らない。


 居心地の悪い沈黙が包み込む。

 熱帯夜のような、ねっとりとした空気が漂っている。


 その時、唐突に昴が言った。




「僕は、記憶を取り戻すのが怖い」




 弱り切った捨て猫みたいに、昴が零した。




「僕は自分が特別な力を持っているとは思わない。――でもね、病院が襲撃されて、蜂谷先生が殺されそうになって、庇うことすら出来なかったあの時、力が欲しいと思った」




 殺されると分かった。守れないと知った。

 目の前にいて、その手を掴むことが出来た筈なのに、届かなかった。あの時、ロキが現れなければ、今頃、昴も葵も和輝でさえも、何も知らぬまま焼け死んだ大勢の遺体と共に並べられていたのだろう。


 力が欲しい。


 胸を掻きむしりたくなるような焦燥、指先から血の気が引いて立っていることすらままならない程の恐怖。無力な自分に対する激しい怒りと、不条理な状況への深い絶望。


 葵には、痛い程にそれが分かる。――けれど、少なくとも、それは自分の役回りではないと思った。




「俺には、分からない」




 葵は正直に答えた。




「最悪の事態を想定して、最善の方法を選んでも、結果が付いて来るとは限らない」




 だから、その判断を誰かにゆだねてしまいたかった。


 自分に出来る最善を尽くしても、最悪の事態を回避することは出来なかった。襲撃を受けたあの病院で、葵は最良の判断をしたつもりだった。だが、結果は最低だった。


 何が正解なのか分からない。

 現実はいつだってそうだ。此方の事情も構わず、不条理にやって来て、理不尽に選択を迫る。


 うつむいた昴が、何かを訴えようと口を開いた。それは弱音だったのかも知れないし、泣き言だったのかも知れない。だが、答えが葵の耳へ届く前に、全ては突如として霧散してしまった。


 稲妻のような強烈な光が背後に走った。

 葵と昴が反射的に振り返る間も無く、地を揺らす轟音ごうおんが鳴り響き、二人は受け身を取ることも出来ずアスファルトへ叩き付けられた。


 せ返る熱風が吹きすさび、辺りは一瞬にして昼間のような明るさに包まれていた。




「――な、何だ?!」




 紅く染まったアスファルトに投げ出されたまま、昴が狼狽ろうばいする。葵は衝撃の元を振り返り、息を呑んだ。


 棺桶かんおけのように沈黙していた病棟が、一瞬にして激しい炎に包まれていた。


 燃え盛る紅蓮の炎が夜空を舐め、彼方此方で悲鳴が上がる。鳴り響くエマージェンシーコール。身体が溶けてしまいそうな灼熱の中で、葵は体の芯から凍り付くような悪寒に襲われた。




「――和輝」




 先日の襲撃を彷彿ほうふつとさせる猛火だ。

 葵は苛烈な衝動に支配された。それは正常な判断を下せぬ程の緊張感だった。


 止めろ、嘘だろ。

 彼処あそこには、和輝が。




「敵襲」




 坂道を転がり落ちるような動乱の最中、いっそ場違いな程に冷静な声が突き刺さった。葵は振り返らなかった。昴が、その名を呼んだ。




「ロキ」




 ロキ。

 超常的な能力を持ち、化物を一撃で打ち倒した正体不明の青年。


 葵の脳では目紛めまぐるしく情報が交錯こうさくした。

 目の前の理解不能の事象、残された手札、安否不明の和輝。最悪の事態を想定し、最善の方法を選択しなければならない。


 燃え盛る病棟を背中に、葵は振り返る。其処にはあの魔法使いだという青年が、何を考えているのか解らない飄々ひょうひょうとした笑みで立っていた。




「昴の居場所が見付かっちまったんだな。どうする?」




 逃げるか? それとも、戦うか?


 ロキは無表情だった。


 逃げるって、何処へ?

 戦うって、どうやって?


 葵の頭の中に浮かぶ全ての疑問は、一つの強烈な願いに掻き消されてしまった。


 彼が何者であっても良い。他人が幾ら死んでも構わない。――だから、誰でもいいから和輝を助けてくれ!


 葵が口を開いた瞬間、昴が遮るように叫んだ。




「蜂谷先生を助けてくれ!!」




 それは、葵の頭に浮かんだものと同じ言葉だった。


 現状の認識すら困難な圧倒的劣勢で、他に選択肢なんて無かった。葵には、和輝を助けることは出来ない。昴にもそれは出来ない。ならば、この場で助けを求めるべき相手は、ロキ以外に存在しなかった。


 ロキは不思議そうに首をかしげて、ゆっくりと掌をかざした。向かう先は炎に包まれた病棟だった。


 彼の腕から何かの爆ぜる音がする。それは腕から手首へ上がり、そして、次の瞬間、重々しい爆音がとどろいた。


 ロキの掌から放たれた爆発は、その凄まじい爆風によって燃え盛る炎を一掃した。葵は立っていられず、うずくまって爆風から身を守ることしか出来なかった。


 強大な魔法と呼ばれる力を前にして、自分は無力だ。

 何度でも、思う。これは人間に出来る芸当ではない。襲撃して来たあの少女が化物であったように、ロキもまた、化物だ。


 立っていられない程の爆風が去って行った。葵は油の切れた機械のように、関節を軋ませながらやっとのことで立ち上がる。


 辺りは天災に見舞われたかのように、荒れ果てた廃墟となっていた。病棟は大小様々な瓦礫がれきに変わっている。僅かに黒煙を昇らせ、原型をとどめていない。肉の焼ける嫌な臭いが鼻を突く。


 サイレンが聞こえる。緊急車両が回転灯を灯して粉塵の中を走って来る。幽霊みたいに徘徊する患者は無惨に皮を焼かれ、彼方此方で水を求めて呻き声を上げている。崩壊した建物の残骸ざんがいから、焼け焦げた腕が突き出しているのが見えた。それは地獄へ手招きをしているようだ。


 此処は、地獄だ。


 痛いよ。苦しいよ。熱いよ。

 誰か、助けて。

 誰か。

 誰か。


 くすぶる炎の中で、死に掛けた人々が血を吐くようにして祈り続ける。大勢の嗚咽おえつが、嘆きの声が思考を黒く塗り潰して行く。阿鼻叫喚の地獄絵図を前にして、身体が硬直して動かなかった。ゴムの上に立っているみたいに足元がぐらぐらと揺れている。


 葵の思考が真っ黒に染まる寸前、耳元で懐かしい声が聞こえた気がした。



 ――またね。



 その声は、雲間から一筋の光が差し込むようにして、一瞬にして思考を明瞭にさせた。


 和輝。

 葵は走り出した。

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