⑷伸ばした手

 倒壊する瓦礫がれきの山、赤く焼けた鉄骨、助けを求める焼け焦げた腕。全ての情報は遮断され、葵は一つのことしか考えられなくなっていた。


 和輝。和輝は、何処だ。

 こんなところで死ぬような奴じゃない。きっと逃げている。今頃、瓦礫の下で救助を待って身を守っている筈だ。――だが、今の彼は重傷を負って歩行すら困難な状態だった。


 死ぬ筈ない。

 希望的観測だ。常に最悪の事態を想定しなければならない。そして、その最悪の事態とは?


 和輝が死んでしまう以上の最悪の事態なんて、無い。彼がこの世からいなくなってしまったら、俺はどうしたらいい?


 目の前の瓦礫に手を伸ばす。触れた瞬間、掌が音を立てて焼けて行った。体液は気化し、水蒸気が煙のように昇る。


 痛みは無かった。熱さも感じなかった。頭の中が真っ赤に染まる。黒焦げの瓦礫を退かし、ひしゃげた鉄筋を避ける。病室だったものの残骸を見付けては、胸が押し潰されそうになる。




「和輝! 何処だ!」




 きっと無事だ。今頃、避難している。

 そんな愚かな希望的観測は、既に検討する必要も無く、頭の中で否定されていた。和輝は動けなかった。病室は建物の奥で、屋外に逃げる時間も無かった。


 分かっている。こんな想像も出来ない惨事に巻き込まれて、重傷を負った和輝が逃げられた筈が無いってことも。彼がこの瓦礫の下でぐちゃぐちゃに潰れてしまっているってことも。


 一度離れたら、また会えるとは限らないことも。




「……なんでだ」




 こんな事を零したって、何の意味も無いのに。

 葵の口からは意図せず言葉が零れ落ちた。




「何でだ! 何で和輝なんだ! 殺すなら、――!」




 眼窩がんかから熱の塊が込み上げて、ひざを突いてしまいたかった。何もかもを投げ出して、消えてしまいたかった。


 和輝がいなければ、自分は生きて行けない。和輝のいない世界なんて何の意味も無い。




「止せ」




 突然、葵の腕は背後から奪われた。

 まるで、何も無かったかのような冷静な声だった。ロキは、葵の腕を取り上げて冷徹な瞳で見下ろしている。


 腕はぴくりとも動かなかった。

 葵は関節をぎしぎしと軋ませながら、抵抗した。

 広大な敷地内を埋める瓦礫の中から、たった一人の安否不明の人間を探すのは、夜の海から一本の針を探すくらい困難だった。辺りは夜の闇に染まり、燻る炎の燃えかすが薄ぼんやりと照らすばかりだった。


 この状況で、ただ手をこまねいていることなんて、出来ない。例え世界中の人間が無理だとさじを投げても、可能性なんて一欠片も残っていないと言っても、確証が無ければ葵は納得しない。それが無惨な遺体であったとしても、葵は蘇生の手段を探して狂奔きょうほんするだろう。


 葵は振り返り、冷たく澄んだ紅い瞳をにらみ付けながら、その胸倉むなぐらを掴み掛かった。




「お前、魔法使いなんだろ……!」




 ロキは答えず、されるがままになっていた。それがまるで、取るに足らないことだと達観しているようで、気に入らない。胸の内でどす黒い感情が渦を巻く。


 彼が鬼でも悪魔でもいい。

 魔法使いだろうが、神だろうが構わない。




「それなら、和輝を助けてくれよ!!」




 何かが胸の内で爆発したのが分かった。感情を制御出来ない。目の前の青年が元凶で、殺せば全て解決するのなら、葵は喜んでその手を血に染めた。だが、違うのだ。




「俺は探索魔法は使えない」




 胸倉を掴んだ拳が、怒りでぶるぶると震えた。




「ふざけんな!! これだけの力がありながら、人間一人救えないのかよ!!」




 分かっている。これは八つ当たりだ。

 けれど、追い詰められた葵には、それ以外に感情をぶつける相手が存在しなかった。




「何が魔法使いだ! 何が――、」




 その時、ロキが葵の手を取った。




「俺の力では、この瓦礫の山から、生きているか死んでいるかも分からない人間を見付けることは出来ない」

「じゃあ!」

「昴なら」




 昴?

 襲い来る脅威に対して、抵抗の手段一つ持たず、和輝の影で子供のように震えるばかりだった、あの昴?


 ロキはすっと目を細めると、掌を翳した。葵が反射的に身を引くと、掌にはアクアマリンのような淡い水色の光が浮かび上がった。




「昴なら、出来るかも知れない」

「どうやって」

「人体操作は苦手なんだ。だから、お前に力を貸してやる」




 ロキは不本意だと言いたげな表情で、肩を竦めて笑った。




「お前の言葉に魔法を掛けた」

「言葉?」

「昴の記憶の蓋を、お前が言葉で開くんだ」




 そんなこと、出来る訳が無い。

 精神科医で、他人の嘘すら看破する和輝なら兎も角、共感能力の欠如した自分に出来る筈が無い。


 だが、それ以外に選択肢が無いことも、分かっていた。


 葵は光を消したロキの掌をはじいた。

 その時になって、自分の掌が焼けて、真っ赤に染まっていることに気付いた。

 遅れてやって来た痛みを誤魔化し、葵は一目散に走り出した。


 その時、瓦礫の山を踏み潰す何者かが迫っていたことに、葵はついに気付かなかった。








 2.レゾンデートル

 ⑷伸ばした手








 駆け付けた緊急車両が、所狭ところせましと駐車場を埋め尽くしている。爛々らんらんと輝く回転灯と、黄色い規制線のコントラストは、まるで悪夢でも見ているようだった。


 葵は泳ぐように人の群れを掻き分けて、目的の人物を探した。その存在を捉えた時、目の端で何かが光ったように見えた。


 昴は、救急車の側で体を毛布に埋めてうずくまっていた。その面は紙のように真っ白だった。

 肩に掛けた毛布を胸元で握り締め、怯えるように震えている。葵は彼へ続く最短距離を真っ直ぐに突っ切った。


 葵が目の前に立った時、昴は叱られた幼子のように顔を上げた。ぼんやりとした瞳に光は無く、最早、何が起こったのかも認識出来ていないようだった。




「蜂谷先生は、」

「見付かっていない」




 昴が顔を歪める。


 周囲は人命救助に目紛めまぐるしく動き回っている。混乱と喧騒に包まれた空間にいながら、二人の周りだけが奇妙な程に静かだった。


 誰かが、声を上げる。

 倒壊に巻き込まれた被害者の遺体を引き摺って、助けてくれと泣き叫ぶ。行方不明の人間の名を呼んでは希望を打ち崩されたように膝を突く。


 此処は地獄だ。

 助けを求める声が聞こえているのに、手を伸ばすことすら出来ない。祈ることしか許されない。こんな虚しさは、知りたくもなかった。


 他人に期待したことなんて無い。罵倒ばとうしたことはあっても、励ましたことは無い。否定したことはあっても、助けを求めたことなんて、無い。




「頼む……、力を貸してくれ」




 すがるように、葵は訴えた。声はかすれていた。




「僕に、何が出来る?」




 昴が不安そうに問い掛けた。

 縋る先を探す、弱者の目だった。


 魔法なんて非科学的なものは信じない。体験したものが如何いかに臨場感を持っていたとしても、確証が無いのならば、それは妄想のたぐいだと思う。


 現実は常に厳しく、此方の事情も構わず、理不尽に選択を迫る。正解や不正解なんて無い筈なのに、不条理な結果だけを残して行く。自分の思い通りになることなんてほとんど無い。


 でも、このくそったれの世界に、一矢報いる方法があるかも知れない。


 和輝ならば、何と言っただろう。どんな言葉で彼をふるい立たせたのだろう。葵には分からない。




「お前には、和輝を救う力があるんだ。だから、思い出してくれ」




 葵はそう訴えるしかなかった。

 他力本願で無責任なのは重々承知だ。




「お前は何者なんだ。どうして此処にいるんだ」

「分からないよ、そんなこと……」




 弱り切ったように、昴が零す。

 葵は止めなかった。


 和輝には数年前の記憶が無い。それは昔、或る事件に巻き込まれた時に受けた拷問と、脳の損傷によるものだった。彼は記憶を消すことで、精神を守ったのだ。


 昴が何者なのかは分からないが、同じ人間だ。何か理由があって、記憶を消さなければならなかった。それは彼が身を守る為の手段だった。


 和輝ならば、葵には想像も付かない見事な方法で解決出来たのだろう。役者が違うと思う。だが、此処に和輝はいない。自分は和輝にはなれない。


 自分に何が出来る。




「俺は、和輝がいなければ生きていけなかった」




 弱音を零すように、葵は言った。

 自分の不甲斐なさに、死にたくなる。和輝が窮地であることは分かっているのに、目の前にいることも知っているのに、何も出来ない。




「俺はいつも独りだった。味方なんていなかった。それで良いと思ってたし、求めてもいなかった。……でも、あいつに会って、変わったんだ。見返りなんて無いのに、どんな時でも俺を信じてくれる。立ち止まれば背を押して、間違えば叱ってくれる。――和輝は、俺の初めての友達だった」





 きらきらと、淡い水色の光が瞬いている。

 ロキの魔法が付与されているのだ。


 自分に何が出来る?

 異常者とレッテルを貼られ、社会から排除された自分に、何が出来る?




「俺には、和輝しかいない。俺は、和輝に生きていて欲しい。お前は?」




 お前にとっては、違うのか?


 それが、何時か昴の言っていた言葉と重なった。

 そうだ。自分と昴は、同じなのだ。




「お前が何処の誰でもいいよ。鬼でも悪魔でも魔法使いでも、何でもいいよ。だから、和輝を助けてくれ!」




 助けてくれ!


 葵の声は、悲鳴と嗚咽おえつまみれた凄惨な世界に響き渡った。その時だった。




「――助けて!」




 血塗れの子供が、潰れた腕を押さえながら声を上げた。




「蜂谷先生は、僕のヒーローなんだ。だから、どうか、お願い……」




 縋るように昴の腕を掴み、大粒の涙を零している。骨が軋む程に強い力で、懸命に訴え掛ける。




「僕のヒーローを助けて!」




 その子供は、和輝の担当した患者だったのかも知れない。

 その声をきっかけに、周囲を囲む満身創痍の人々が一斉に押し寄せた。




「助けて!」

「助けて!」

「僕等のヒーローを、助けて!」




 

 それがまるで、救いの言葉であるかのように。

 血塗れの患者が、病院のスタッフが必死に訴え掛ける。


 助けを求める声の奔流が、狙いを定めたように昴へ襲い掛かる。狂気に満ちた空間で昴は、――笑った。それは何処か既視感を覚えさせる微笑みだった。


 葵が言葉を失っていると、昴は頭痛を堪えるように顳顬こめかみを押さえて、少年の腕を取った。







 その声に、得体の知れない生理的な恐怖を感じた。


 まるで、背後から奈落の底へ引き摺り込まれるような、二度と這い出ては来られないような、途方も無い恐怖だった。


 顔を上げた昴は、瓦礫の山を見ていた。

 けしかけておきながら、葵はそれを止めなければならないと悟った。このままでは、取り返しの付かないことになる。それが昴の身を案じたものではないことだけは確かだった。


 葵は口を開いた。けれど、声にはならなかった。彼を止めることは出来ない。少なくとも、葵には和輝を助ける以上の優先事項は何も無かったからだ。


 弾かれるような勢いで、昴が駆け出す。その後姿を、葵は呆然と見詰めていた。

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