⑵共通認識
「魔法って、インターネットに似てる」
鮮やかな溶液に満ちた棒状の何かを手にして、和輝が唐突に言った。葵には理解不能だった。
和輝の行動が馬鹿げていることは、重々承知の上である。
山があれば登り、壁を見れば体当たりする。困っている人がいれば手を差し伸べ、悪者と知れば退治しようとする。困難には立ち向かい、納得出来ないことには徹底抗戦する。
それが彼のアイデンティティで、ヒーローたる
そんなヒーローは、
追及する気も起きず、葵は側に据え付けられたパイプ椅子にどかりと座った。
棒状のポリエチレン製の袋の中に、着色された溶液が満ちている。それは中程で
母国の親友から送られて来た見舞いの品らしい。和輝が言うには母国ではポピュラーな駄菓子らしいが、葵は食べたことが無かった。どのように食べるのか訊くと、和輝は冷凍庫の中から凍り付いたそれを取り出して見せた。
和輝は手にしたチューペットを
さも当然のようにその半分を手渡されたが、葵には食べ方が分からなかった。和輝は構わず、折れた部位に口を付けて凍った溶液を
真似をしようかと思ったが、目の前の和輝が余りに間抜けな格好だったので、
未知との
葵は覚悟を決めて、口を付けた。
ひんやりとした溶液は、薄まった人工甘味料の味がする。黄色い溶液は、安っぽいパイナップルの風味がした。
正直、美味いとは思えない。何処かに捨ててしまいたかったが、和輝が眉一つ動かさずに
何をしているのだろう。
葵は我に帰った。
病室のベットの上で、いい歳した男が二人揃って小さなアイスに
魔法使いを名乗るロキという男の話を聞いて、理解は出来るのに納得出来ないという不測の事態から、脳が爆発するような感覚に
兎に角、冷静になりたかった。昨夜からの非現実的な出来事が重なって、精神的に限界だった。煙草を吸いたいと思うが、六年前から禁煙している。今更になって肺を汚すのも愚かしい。
気を落ち着けることの出来る場所を探していたところ、退屈を持て余して院内を
浮かない顔をしているね。
良いものがあるからおいで。
まるで麻薬の密売人みたいな言葉を吐いて、和輝は葵を病室へ連れ帰った。
二人で謎の氷菓を
葵は溜息を吐いて、ロキから受けた話を噛み砕いて説明してやった。和輝は何を考えているのか分からない顔で
「何で、インターネット?」
「だってほら、魔法もインターネットも、あるから使うだろ。無ければ無いで別に困らないのに」
相変わらず、この男の思考回路はおかしい。
言わんとしていることは分かるが、物差しが狂っている。
「物を壊したり、燃やしたりするくらいなら、道具を使えば俺にだって出来るよ。それなら、俺も魔法使いさ」
「やってみろよ」
「今は気分じゃない」
気分の問題か?
さらりと問題発言をして、和輝は笑った。
頭の中を埋め尽くしていた自然力学の法則や無数の計算式は、目の前の和輝が噛み砕いた氷菓と共に呆気無く霧散してしまった。
「俺はインターネットも使える。でも、使い方がよく分からないから、積極的には使わない」
「社会人失格だな」
「情報伝達の手段はインターネットばかりではないのだよ、ワトソンくん」
誰がワトソンだ。
ふとベッドのサイドテーブルを見ると、読み掛けの本が置かれていた。コナン・ドイルの緋色の研究だ。何処から持ち込んだのか知らないが、あっさり影響を受けている。
「問題なのは、魔法が実在するかどうかではなくて、どうしたら対抗出来るかってことだろ?」
「戦うことは前提なんだな」
「戦うつもりは無いよ」
「説得出来る相手とは限らない」
「やらないより、マシさ」
「死ぬぞ」
「死なないよ。お前を残して、死ぬ気は無い」
それも本の引用なのだろうが、
その時、扉の方から微かな気配がした。葵と和輝は揃って顔を向けた。其処には、昴がいた。所在無さげなその姿は、まるで置いて行かれた迷子のようだ。
和輝が軽く手を上げると、昴は遠慮がちに中へ入って来た。
「よう、昴。何してんの?」
「何をしたらいいのか分からなくて、困ってた」
素直に昴が言った。
そりゃそうだろう。葵は思った。
彼は身元不明の精神病患者だ。入院先が崩壊して、居場所を失くしている。担当医の和輝が入院している以上、彼は他の施設に
和輝は問い掛けた。
「昴は、どうしたい?」
昴は肩を丸めていた。このまま消えてしまいそうに見えた。
彼だって現状を正しく認識出来てはいない。突然、訳の分からない騒動に巻き込まれて、死に掛けたのだ。ロキというあの青年も信用出来ない。
それでも、彼に選ばせようとする和輝は残酷なのか、優しいのか。
昴は、独り言を零すような小さな声で言った。
「僕は、誰にも傷付いて欲しくない」
「そうか」
「蜂谷先生を巻き込みたくない。――でも、僕が信頼出来る人は、蜂谷先生しかいない」
その次の言葉が予測出来るような気がして、葵は席を立ってその口を
言うな。
その言葉を、こいつに言うな。
言ってしまったら、こいつは何に代えてもそれを達成しようとするだろう。
葵が伸ばした手は、和輝に掴まれた。氷菓を握っていたせいで、ひんやりと冷たかった。
昴が、言った。
「助けてくれ」
嗚呼。
葵は舌打ちを零した。こうなることは、分かっていた。
和輝はそれを待っていたとばかりの輝くような笑みを浮かべて、頷いた。
「助けるよ」
2.レゾンデートル
⑵共通認識
昴の分のアイスが凍っていなかったので、和輝の提案で院内の売店へ向かった。
別に昴がアイスを欲しがった訳でも無かったが、和輝としては心苦しかったのだろう。その癖、金が無いからと言って一番安い棒付きアイスを三本選んだ。薄水色のソーダ味のアイスのパッケージには、インパクトのある母国語が刻まれている。この売店の謎のラインナップに首を
「あれは、何をしているの?」
「アイスを買ってんだろ」
「買う?」
そんなことすら、知らないのか。
葵は呆れながら、説明してやった。
物を手に入れるには金がいる。食料や様々な物品は金で売買されるからだ。そして、金を手に入れるには労働が必要だ。金が無ければ生活出来ない。
馬鹿にも分かるように説明したつもりだが、昴の持っている知識がどの程度のものなのか分からなかったので、葵はそれ以上の説明をすることは出来なかった。
ほくほくとした顔でアイスを持って帰って来た和輝は、本当に馬鹿みたいに見えた。友人であることを隠したいくらいだ。だが、犯罪的に若作りの彼は、周囲には十代の青年くらいに見えているのだろう。
それぞれにアイスを配り、和輝は誰より先にパッケージを破いた。アイスに突き刺さった棒にはアタリとハズレがあるらしい。それを早く確かめたいのだろう。
昴はそれに倣ってパッケージを破いた。横で葵も同様にアイスを取り出していると、昴が言った。
「お金は大切なんだね」
和輝は、よく分かっていないような顔で肯定した。
「お金は大切だよ」
「お金が無いと、生活出来ない。お金さえあれば、何でも出来るの?」
和輝はがりがりとアイスを
「お金は大切だけど、全てではないよ」
昴は意味が分からないというように眉を寄せた。
和輝は
「資本主義を否定するつもりはないけど、
言いたいことは分かるが、彼は教育者には向いていないと思う。昴の知識の
「お金で何でも買える訳でもないしね」
「買えないものもあるの?」
「そう。――例えばさ」
和輝はすっかり食べ終えたアイスの残った棒を見せて、笑った。
「アイスはお金で買えるけど、たまたま食べたアイスのアタリに喜ぶこの瞬間を、金では買えない」
にんまりと笑った和輝は、再び売店へ戻って行く。
アタリが出たら、もう一本貰えるらしい。
腹を下さないかと余計な気を回していると、昴が不思議そうに目を丸めていた。
「和輝は、アタリが出ると嬉しいんだね」
「大抵の人間は嬉しいんじゃないか? 得をした気分になるから」
「ふうん」
昴には分からないだろうな、と思った。正直、葵にも分からない。だが、嬉しそうな友人を見ているのは、悪い気はしない。
すぐに戻って来た和輝は、先程とは味違いのアイスを手にしていた。この男の胃はどうなっているのだろう。魔法もオカルトも理解不能だが、質量保存の法則を
昴はソーダ味のアイスを舐めながら、思い出したように言った。
「和輝は、ヒーローなの?」
唐突な質問に、和輝は面食らったかのように
昴は何の感情も無いような
「ヒーローって、何なの?」
和輝は呼吸を落ち着けながら、それでもアイスを食べ続ける。
ヒーロー。
それは、この馬鹿な友人の目指すものだ。彼の口からそれを聞くのは、随分と久しぶりのように思えた。葵が黙っていると、和輝は軽く咳払いをして、
「勇気を配る人のことかな」
当然、昴には理解出来ないだろう。
哲学者のプラトンは著書の中で、ソクラテスの勇気を『恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり』と考察している。
和輝の思考が何処まで及んでいるかは分からないが、彼の指すヒーローとは、知識を与える者――、或いは、境界線を引く者だ。
それは駄目なんだよ。
いけないことなんだ。
己の
美味そうに氷菓を
昼下がりの日差しの中で、彼等の姿は何処か懐かしく、
魔法はインターネットと似ている。
和輝の思考回路が
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