⑸昴

「昴は、俺の受け持つ患者の一人だ」




 死んだように静まり返る回廊を、足音を殺して歩み出す。和輝はすすと汗に塗れ、まるでドブネズミのようだった。けれど、その双眸ばかりが猛禽類の如くやけにぎらぎらと光っていた。


 葵は、警戒しながら影のように追い掛けた。

 時折、入院患者が発作のように叫んだ。それは嗄れた笑い声だったり、もだえるような悲鳴だったりした。


 互いに振り返らなかった。

 鉄格子という境界線が、自分たちの世界を隔てている。




「昴は記憶を失くしていた。家族や名前、社会でのルール、全てを忘れた彼はまるで無知な子供のようだった。俺は、知る限りの凡ゆることを教えた。身の回りの始末や言葉、人との関わり方。今は中学生程度だけど、勉強も」




 葵は相槌あいづちを打ちながら、和輝が人に勉強を教えているということに驚いた。学生時代、彼は座学が不得手で、試験は常に赤点、追試の常連だった。その度に葵が専属の家庭教師役を務めていた。今となっては、昔のことだ。今の和輝には、その頃の記憶が無い。




「昴は教えたことをスポンジみたいに吸収した。悪い奴じゃない。素直で純粋で……。でも、問題が一つ」




 葵は黙り込んだまま、視線で先を促した。和輝の話の先が、分かるような気がした。




「昴は、言葉の裏に含まれる意味を理解出来なかった」




 想像力、或いは共感能力の欠如。

 葵は、胸の内に込み上げる苦いものを押さえ切れなかった。彼はまるで、人の姿をしたロボットだ。




「死にたいと零した人を刺したこともある」

「お前は?」

「……」




 和輝は言葉をにごした。

 葵は、彼が答えるまでいつまでも待つつもりだった。沈黙が空気を凍らせていく。和輝は覚悟を決めるみたいに、一息に言った。




「俺は、屋上から突き落とされそうになった。……鳥に憧れていると言った、その一言が引き金だった」




 葵は舌打ちをした。

 昴は、和輝の手に負える患者ではない。彼は地雷と同じだ。いつ、何処で爆発するのか予想すら出来ない。


 自身の行為に対する責任能力は皆無で、他者の痛みを想像しない。罪悪感や後悔の念を抱かない危険人物だ。拘束され、隔離される理由がある。


 ――けれど、葵には、それが分かる。


 和輝は足を引き摺りながら、一つの個室の前で停止した。ネームプレートには無機質な番号だけが刻まれている。


 葵が考え込んでいると、和輝は控えめにノックをした。病棟は既に消灯時刻が過ぎている。

 二、三度ノックすると、微睡まどろんだ声が返事をした。和輝が鍵を外し、扉を開く。


 冷たい夜風が吹き抜け、開け放たれた窓辺のカーテンが揺れる。ベッドの上で半身を起こした青年が、寝惚ねぼまなここすりながら此方を見ていぶかしむように眉を寄せた。




「昴」




 和輝が、その名を呼んだ。

 昴――身元不詳の青年だ。葵には、月明かりの下にいる彼が、精巧な人形のように見えた。


 和輝は扉を潜り抜けると、ベッドの側に屈み込んだ。




「緊急事態なんだ。今すぐ俺たちと一緒に逃げてくれないか?」

「緊急事態? どういうこと?」

「今は時間が無い。だから、俺を信じてくれ」




 昴の瞳は、硝子玉のようだった。

 跪く和輝を見下ろして、昴が微笑んだ。




「信じるよ」




 葵は無意識に奥歯を噛み締めていた。


 

 彼等のやりとりはまるで、台詞せりふ合わせみたいだった。下らない三文芝居でも見せられているような気分で、目を逸らした。


 部屋の隅には、包み張りのカンバスが飾られていた。昼間、昴が中庭で描いていたものだ。真っ白な絵の具を何度も塗り重ねるだけの意味不明な絵の具の塊。だが、それは以前とは異なる様相を呈していた。


 それは風景や人物でもなければ、抽象画ですらない。淡い寒色に染まる幾何学きかがく的な曼荼羅まんだら模様だった。


 これは絵画や芸術と呼ぶよりも、数学に近い。詳細に言うならば、これはと呼ばれるものに類似している。


 神経質なまでに緻密で、近寄り難く美しい。

 間違っても、中学生程度の知能で描ける代物ではない。


 疑念が沸き、寒気がした。

 この昴という青年は、一体何者なのだ。


 和輝が昴を連れ、部屋を出て行く。葵には、その青年が人の皮を被った化物に見えた。


 薄闇に包まれた病棟を和輝が先導した。裏口を目指しているらしい。病室のあるフロアから階段を利用して一階へ到着したが、追手の気配は無い。


 誰も何も言わなかった。

 何も解決していない。まだ、終わっていない。

 それだけは、確かだった。


 夜の静寂が病棟を満たしていく。

 まるで、異世界へ迷い込んだかのようだった。


 事務所の前を通り掛かった時、和輝は足を止めた。待て、と言い置いて一人で様子を見に離れた。


 葵は得体の知れない青年と二人きりになった。

 昴は何処まで状況を理解しているのか、神妙な顔をしている。葵は堪え切れず、問い掛けた。




「お前は何者なんだ?」

「どういうこと?」




 昴がきょとんと小首を傾げる。嘘を吐いているようには見えないが、安易に信用することも出来なかった。




「頭の天辺から足の先まで真っ白な、頭のおかしい女がお前を探している」

「僕を? どうして?」

「俺が訊いているんだ。身に覚えは無いのか?」

「ある筈無いだろ。僕はずっと此処で暮らしているんだ。外に出たことも無いし、誰かが面会に来たことも無い」




 身の潔白を訴え、昴が喘ぐように言った。




「僕には蜂谷先生しかいない。蜂谷先生さえいればいい」




 鳩尾を殴られたみたいだった。

 昴が何を言っているのか理解出来ないし、したくもない。それなのに、嫌な既視感が湧き上がって、吐き気がした。


 それでも、お前は和輝を殺そうとしただろう!


 反射的に葵が言い返そうとした瞬間、まるでタイミングを見計らったように和輝が戻って来た。




「弱い者イジメしてんじゃねーよ」




 してねーよ。

 葵は吐き捨てた。


 その時だった。

 まるで地鳴りのような低く重い音が響き渡り、建物そのものが足元から揺れた。鉄格子の向こうで患者が悲鳴を上げ、金属を打ち付ける音が不協和音のように鳴った。


 葵と和輝は壁からそっと顔を出し、外の様子を窺った。美しかった田園風景は煉獄の炎に包まれ、この世の終わりを思わせる地獄の景色へと変貌していた。


 炎の中に、誰かが立っている。

 救助隊じゃない。大人ですらない。


 白亜の少女が、紅蓮の炎の中に立っている。




「来た」




 頬が痙攣し、全身に鳥肌が立った。


 建物の外は火の海で、最早逃げ場は無かった。

 絶体絶命、八方塞がり、万事休す。

 これ以上の窮地なんてないと分かっているのに、和輝の口元は弧を描いていた。


 笑っている。

 それは逆境を前にした挑戦者の笑みだった。


 昔から、そうだった。

 壁を見れば体当たりし、どんな窮地でも起死回生の一手を探し、心臓が止まる瞬間まで諦めない。


 気味の悪さを比べたら、昴もあの少女も、和輝も同類だ。


 和輝は風船がしぼむようにふーっと息を吐いた。




「何処に逃げたらいいかな」




 そして、相変わらず行き当たりばったりな男だった。

 葵は状況も忘れ、少しだけ笑った。釣られるようにして和輝も笑う。昴ばかりが、訳も分からず瞠目どうもくしていた。




「なんで、笑ってるんだ?」




 妙な力を使う敵に追われ、対抗手段は無い。逃げ切れるとは思えない。だが、何もせずに殺される気は毛頭無かった。


 和輝は昴をじっと見据みすえていた。大きな瞳には燃え盛る炎が映り込み、吸い込まれそうな奇妙な輝きを放っている。




「俺はね、逆境には燃えて来るんだ」

「どうして?」




 昴が愚直にも訊き返す。和輝は口角を釣り上げて、にやりと笑った。




「明けない夜はないと、知っているからだよ」








 1.予定調和の檻

 ⑸すばる









 沈黙は肯定だ。

 一矢いっし報いてやろう。


 悪童の笑みを浮かべて、和輝は一人で病棟を出て行った。


 犬死いぬじにも自己犠牲も性分ではない。けれど、葵はおおむね同感だった。こんなところで死ぬ気は無いし、和輝を死なせるつもりも無い。葵は昴を引っ張って病棟の最上階へ駆け出した。


 時間が無い。

 静まり返った闇の回廊を走り抜け、葵は窓を開けた。

 其処からは運動場がパノラマに見渡せた。途端、自分達の置かれた状況に目眩がした。


 運動場はフライパンみたいに、炎であぶられていた。周囲はぐるりと猛火に包まれ、退路は全て絶たれている。玄関から現れた和輝は、小さな染みのようだった。


 あいつ、本当に頭がおかしいな。

 葵は胸の内に吐き捨てた。

 明確な殺意を示す相手に、丸腰で立ち向かおうという神経が葵には理解出来ない。


 濃紺の夜空は燃え盛る炎の為に、まるで夕焼けのように明るかった。辺りでは木々が焼け落ち、炎が爆ぜ、悲鳴が上がる。何処かで聞こえる緊急車両のサイレンが、ミキサーのように聴覚を攪拌かくはんする。


 葵の側では、昴が柱の影に身を潜ませて震えている。あんな化物が、他人を巻き添えにしてまで探す程の価値のある人間には見えない。


 葵にとって、昴は価値の無い人間だった。先程の話が本当だとすれば、彼は和輝を殺し掛けたことがある。

 葵が昴を始末しようと思うことに、それ以上の動機は存在しなかった。


 こんな奴はどうなっても良い。

 葵は言った。




「俺にはお前を助ける理由が無い。お前を差し出して、和輝を連れて逃げたって良かった」




 少女の目的は昴だ。方法は不明だが、居場所を見付ける手段がある。葵としては差し出してしまっても構わなかったが、和輝には当然のように却下された。




「じゃあ、どうしてそうしなかったの」




 問い掛けられても、葵は答えなかった。


 和輝は昴の代わりにあの化物の元へ出向いた。死地へおもむいた彼の横顔には、笑みすら浮かんでいた。


 何故か。

 此処は俺たちの死に場所じゃないからだ。


 彼が諦めないと言うのなら、葵が降参する訳にはいかない。


 辺りを埋め尽くす炎の海。烈風の中、和輝が声を上げる。




「お前の探す昴は、此処にはいない!」

「分かるの」




 彼女は大声を出した訳でもないのに、その言葉は言語の壁も周囲の雑音も押し退けて、葵の脳へ直接突き刺さった。


 その異質な言語を聴く度に、頭が割れそうに痛む。まるで、得体の知れない何かが頭蓋の下で暴れているかのようだった。


 この問答に意味は無い。葵は対峙する二人の影を見下ろしながら、辺りをじっと観察した。


 あの化け物を相手にするには、まずは炎をどうにかしなければならない。これがタネも仕掛けもないというのならお手上げだが、どんなものにも欠点はある。先程は葵が投げ付けた油によって、多少の時間は稼げたのだ。必ず何処かに勝機はある筈だ。

 このまま殺されるつもりは無い。


 風は追い風、炎がよく燃える。




「スバルを出さないのなら、貴方に用は無いの」




 一方的に切り捨てて、少女が掌を翳す。其処には真っ赤な炎が渦を巻いていた。

 まるで、真紅の薔薇ばらだ。葵は状況も忘れて魅入みいってしまった。だが、次の瞬間、炎は蛇のように唸りを上げて襲い掛かって来た。


 和輝は迎撃の姿勢を取った。――しかし、炎は逸れて、地面を這いながら後方へ散って行った。


 少女は不思議そうに目を瞬かせた。和輝は少しの動揺も見せず、不敵に笑って見せた。


 第二波が襲い来る。和輝は中指を立てた。




「炎を使えるのが、自分だけだと思うなよ?」




 圧倒的な格上と遣り合う時、対抗手段は限られている。消防車の放水すら焼け石に水なのだろう。それならば、丸腰の彼に出来ることは、言葉による撹乱かくらんと挑発だ。


 地面には無数の帯がある。燃料によって作られた誘導路だ。炎は引火点の低い燃料に引き寄せられて和輝の元へ届かない。


 この少女に、防戦一方ではないのだと錯覚させる。


 葵は懐から鉄の塊を取り出した。炎に照らされ鈍く光る黒金の物体――だ。


 距離は凡そ50M、正面からの強風。照準は既に、少女の眉間へ合わせられていた。


 それは少女の油断による一瞬の躊躇ちゅうちょだった。次のチャンスは無い。失敗すれば、真っ先に和輝が死ぬ。


 こんなところで、死んで堪るか!!

 葵は、引き金を絞った。

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