⑸昴
「昴は、俺の受け持つ患者の一人だ」
死んだように静まり返る回廊を、足音を殺して歩み出す。和輝は
葵は、警戒しながら影のように追い掛けた。
時折、入院患者が発作のように叫んだ。それは嗄れた笑い声だったり、
互いに振り返らなかった。
鉄格子という境界線が、自分たちの世界を隔てている。
「昴は記憶を失くしていた。家族や名前、社会でのルール、全てを忘れた彼はまるで無知な子供のようだった。俺は、知る限りの凡ゆることを教えた。身の回りの始末や言葉、人との関わり方。今は中学生程度だけど、勉強も」
葵は
「昴は教えたことをスポンジみたいに吸収した。悪い奴じゃない。素直で純粋で……。でも、問題が一つ」
葵は黙り込んだまま、視線で先を促した。和輝の話の先が、分かるような気がした。
「昴は、言葉の裏に含まれる意味を理解出来なかった」
想像力、或いは共感能力の欠如。
葵は、胸の内に込み上げる苦いものを押さえ切れなかった。彼はまるで、人の姿をしたロボットだ。
「死にたいと零した人を刺したこともある」
「お前は?」
「……」
和輝は言葉を
葵は、彼が答えるまでいつまでも待つつもりだった。沈黙が空気を凍らせていく。和輝は覚悟を決めるみたいに、一息に言った。
「俺は、屋上から突き落とされそうになった。……鳥に憧れていると言った、その一言が引き金だった」
葵は舌打ちをした。
昴は、和輝の手に負える患者ではない。彼は地雷と同じだ。いつ、何処で爆発するのか予想すら出来ない。
自身の行為に対する責任能力は皆無で、他者の痛みを想像しない。罪悪感や後悔の念を抱かない危険人物だ。拘束され、隔離される理由がある。
――けれど、葵には、それが分かる。
和輝は足を引き摺りながら、一つの個室の前で停止した。ネームプレートには無機質な番号だけが刻まれている。
葵が考え込んでいると、和輝は控えめにノックをした。病棟は既に消灯時刻が過ぎている。
二、三度ノックすると、
冷たい夜風が吹き抜け、開け放たれた窓辺のカーテンが揺れる。ベッドの上で半身を起こした青年が、
「昴」
和輝が、その名を呼んだ。
昴――身元不詳の青年だ。葵には、月明かりの下にいる彼が、精巧な人形のように見えた。
和輝は扉を潜り抜けると、ベッドの側に屈み込んだ。
「緊急事態なんだ。今すぐ俺たちと一緒に逃げてくれないか?」
「緊急事態? どういうこと?」
「今は時間が無い。だから、俺を信じてくれ」
昴の瞳は、硝子玉のようだった。
跪く和輝を見下ろして、昴が微笑んだ。
「信じるよ」
葵は無意識に奥歯を噛み締めていた。
気持ちが悪い。
彼等のやりとりはまるで、
部屋の隅には、包み張りのカンバスが飾られていた。昼間、昴が中庭で描いていたものだ。真っ白な絵の具を何度も塗り重ねるだけの意味不明な絵の具の塊。だが、それは以前とは異なる様相を呈していた。
それは風景や人物でもなければ、抽象画ですらない。淡い寒色に染まる
これは絵画や芸術と呼ぶよりも、数学に近い。詳細に言うならば、これは魔方陣と呼ばれるものに類似している。
神経質なまでに緻密で、近寄り難く美しい。
間違っても、中学生程度の知能で描ける代物ではない。
疑念が沸き、寒気がした。
この昴という青年は、一体何者なのだ。
和輝が昴を連れ、部屋を出て行く。葵には、その青年が人の皮を被った化物に見えた。
薄闇に包まれた病棟を和輝が先導した。裏口を目指しているらしい。病室のあるフロアから階段を利用して一階へ到着したが、追手の気配は無い。
誰も何も言わなかった。
何も解決していない。まだ、終わっていない。
それだけは、確かだった。
夜の静寂が病棟を満たしていく。
まるで、異世界へ迷い込んだかのようだった。
事務所の前を通り掛かった時、和輝は足を止めた。待て、と言い置いて一人で様子を見に離れた。
葵は得体の知れない青年と二人きりになった。
昴は何処まで状況を理解しているのか、神妙な顔をしている。葵は堪え切れず、問い掛けた。
「お前は何者なんだ?」
「どういうこと?」
昴がきょとんと小首を傾げる。嘘を吐いているようには見えないが、安易に信用することも出来なかった。
「頭の天辺から足の先まで真っ白な、頭のおかしい女がお前を探している」
「僕を? どうして?」
「俺が訊いているんだ。身に覚えは無いのか?」
「ある筈無いだろ。僕はずっと此処で暮らしているんだ。外に出たことも無いし、誰かが面会に来たことも無い」
身の潔白を訴え、昴が喘ぐように言った。
「僕には蜂谷先生しかいない。蜂谷先生さえいればいい」
鳩尾を殴られたみたいだった。
昴が何を言っているのか理解出来ないし、したくもない。それなのに、嫌な既視感が湧き上がって、吐き気がした。
それでも、お前は和輝を殺そうとしただろう!
反射的に葵が言い返そうとした瞬間、まるでタイミングを見計らったように和輝が戻って来た。
「弱い者イジメしてんじゃねーよ」
してねーよ。
葵は吐き捨てた。
その時だった。
まるで地鳴りのような低く重い音が響き渡り、建物そのものが足元から揺れた。鉄格子の向こうで患者が悲鳴を上げ、金属を打ち付ける音が不協和音のように鳴った。
葵と和輝は壁からそっと顔を出し、外の様子を窺った。美しかった田園風景は煉獄の炎に包まれ、この世の終わりを思わせる地獄の景色へと変貌していた。
炎の中に、誰かが立っている。
救助隊じゃない。大人ですらない。
白亜の少女が、紅蓮の炎の中に立っている。
「来た」
頬が痙攣し、全身に鳥肌が立った。
建物の外は火の海で、最早逃げ場は無かった。
絶体絶命、八方塞がり、万事休す。
これ以上の窮地なんてないと分かっているのに、和輝の口元は弧を描いていた。
笑っている。
それは逆境を前にした挑戦者の笑みだった。
昔から、そうだった。
壁を見れば体当たりし、どんな窮地でも起死回生の一手を探し、心臓が止まる瞬間まで諦めない。
気味の悪さを比べたら、昴もあの少女も、和輝も同類だ。
和輝は風船が
「何処に逃げたらいいかな」
そして、相変わらず行き当たりばったりな男だった。
葵は状況も忘れ、少しだけ笑った。釣られるようにして和輝も笑う。昴ばかりが、訳も分からず
「なんで、笑ってるんだ?」
妙な力を使う敵に追われ、対抗手段は無い。逃げ切れるとは思えない。だが、何もせずに殺される気は毛頭無かった。
和輝は昴をじっと
「俺はね、逆境には燃えて来るんだ」
「どうして?」
昴が愚直にも訊き返す。和輝は口角を釣り上げて、にやりと笑った。
「明けない夜はないと、知っているからだよ」
1.予定調和の檻
⑸
沈黙は肯定だ。
悪童の笑みを浮かべて、和輝は一人で病棟を出て行った。
時間が無い。
静まり返った闇の回廊を走り抜け、葵は窓を開けた。
其処からは運動場がパノラマに見渡せた。途端、自分達の置かれた状況に目眩がした。
運動場はフライパンみたいに、炎で
あいつ、本当に頭がおかしいな。
葵は胸の内に吐き捨てた。
明確な殺意を示す相手に、丸腰で立ち向かおうという神経が葵には理解出来ない。
濃紺の夜空は燃え盛る炎の為に、まるで夕焼けのように明るかった。辺りでは木々が焼け落ち、炎が爆ぜ、悲鳴が上がる。何処かで聞こえる緊急車両のサイレンが、ミキサーのように聴覚を
葵の側では、昴が柱の影に身を潜ませて震えている。あんな化物が、他人を巻き添えにしてまで探す程の価値のある人間には見えない。
葵にとって、昴は価値の無い人間だった。先程の話が本当だとすれば、彼は和輝を殺し掛けたことがある。
葵が昴を始末しようと思うことに、それ以上の動機は存在しなかった。
こんな奴はどうなっても良い。
葵は言った。
「俺にはお前を助ける理由が無い。お前を差し出して、和輝を連れて逃げたって良かった」
少女の目的は昴だ。方法は不明だが、居場所を見付ける手段がある。葵としては差し出してしまっても構わなかったが、和輝には当然のように却下された。
「じゃあ、どうしてそうしなかったの」
問い掛けられても、葵は答えなかった。
和輝は昴の代わりにあの化物の元へ出向いた。死地へ
何故か。
此処は俺たちの死に場所じゃないからだ。
彼が諦めないと言うのなら、葵が降参する訳にはいかない。
辺りを埋め尽くす炎の海。烈風の中、和輝が声を上げる。
「お前の探す昴は、此処にはいない!」
「分かるの」
彼女は大声を出した訳でもないのに、その言葉は言語の壁も周囲の雑音も押し退けて、葵の脳へ直接突き刺さった。
その異質な言語を聴く度に、頭が割れそうに痛む。まるで、得体の知れない何かが頭蓋の下で暴れているかのようだった。
この問答に意味は無い。葵は対峙する二人の影を見下ろしながら、辺りをじっと観察した。
あの化け物を相手にするには、まずは炎をどうにかしなければならない。これがタネも仕掛けもないというのならお手上げだが、どんなものにも欠点はある。先程は葵が投げ付けた油によって、多少の時間は稼げたのだ。必ず何処かに勝機はある筈だ。
このまま殺されるつもりは無い。
風は追い風、炎がよく燃える。
「スバルを出さないのなら、貴方に用は無いの」
一方的に切り捨てて、少女が掌を翳す。其処には真っ赤な炎が渦を巻いていた。
まるで、真紅の
和輝は迎撃の姿勢を取った。――しかし、炎は逸れて、地面を這いながら後方へ散って行った。
少女は不思議そうに目を瞬かせた。和輝は少しの動揺も見せず、不敵に笑って見せた。
第二波が襲い来る。和輝は中指を立てた。
「炎を使えるのが、自分だけだと思うなよ?」
圧倒的な格上と遣り合う時、対抗手段は限られている。消防車の放水すら焼け石に水なのだろう。それならば、丸腰の彼に出来ることは、言葉による
地面には無数の帯がある。燃料によって作られた誘導路だ。炎は引火点の低い燃料に引き寄せられて和輝の元へ届かない。
この少女に、防戦一方ではないのだと錯覚させる。
葵は懐から鉄の塊を取り出した。炎に照らされ鈍く光る黒金の物体――拳銃だ。
距離は凡そ50M、正面からの強風。照準は既に、少女の眉間へ合わせられていた。
それは少女の油断による一瞬の
こんなところで、死んで堪るか!!
葵は、引き金を絞った。
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