⑷強襲
自己の証明を過去の記憶に依存するのならば、現時点の自分は幽霊と同じなのだろう。
和輝には、或る一年間の記憶が無かった。その間に何が起きたのかは概要こそ聞いているものの、全ては語り継がれる昔話や
ただ、時々、自分の選択が本当に正しかったのかという疑念に駆られる時がある。不利益について検討しないのは
だから、なのだろう。
だから、昴を放って置けないのだ。記憶を失くしたその様が自分のようで、常識と呼ばれるものを理解しない様が
公私混同もいいところだ。
和輝は
寄せては返す潮騒が、まるで遠い昔に置いて来た過去が己を
和輝は日用品を買い込んだ紙袋を抱えて、逃げるように帰路を
墨を垂らしたような闇の中、オレンジ色の灯火が商店街を賑やかに照らしている。商人の活気に満ちた声と
和輝が暮らす街は中流家庭の過密化した港町だった。活力に満ちた海の男は豪快で、女は家庭を守る為に
裏表の無い純真な人々が多く、彼等は余所者の和輝にも親切だった。精神科医という特殊な業務にも理解を示し、何かと世話を焼いてくれる。此処で暮らすようになって三年経つが、それなりに愛着もあった。
労働者の群れは酒場で互いに労い、酒を
色鮮やかな衣服を纏った女たちが音楽に合わせて踊る。まるで水槽の中の熱帯魚のようだった。肌寒い早春の夜に熱気が宿り、まるで母国の
人の群れを抜けた時、
空間の中央に、美しい少女がいた。
「蜂谷和輝」
それは耳慣れた欧州の言葉でも、懐かしい母国の言葉でもなかった。確かに発された言葉は言語として耳ではなく、脳へ直接飛び込んで来た。
「スバルは何処?」
どきりと心臓が脈を打つ。
背後から刃を突き付けられているかのような緊迫感が押し寄せて、周囲との気圧に
スバル。
彼女が何を問うたのか理解すると同時に、それを答えてはならないと反射的に理解していた。
和輝は平静を装いながら、喘ぐようにして一言だけ答えた。
「分からない」
知らないでは、駄目だ。
自分の命を守る為に、彼女には何も悟られてはならない。寝耳に水という顔で、無関係であることを主張しなければならない。
少女は、息を吐くようにして笑った。
そして、和輝が何かを訴えるより早く、掌を
「嘘吐き」
絶対零度の無慈悲な声が聞こえ、少女の白い掌に真っ赤な火の玉が見えた。――その時、重々しい爆発音が耳を
和輝の体は木の葉のように軽々と吹き飛ばされ、乾いた石畳の上に叩き付けられていた。
背中を打ち付けた和輝は激しく
辺りは一瞬にして地獄絵図と化した。
燃え盛る紅蓮の炎が嘲笑うように揺れている。
何が起きたのかも解らない。
ガス爆発?
爆弾テロ? ――違う。もっと恐ろしい何かだ。和輝には到底理解の及ばない何かが彼女の掌から放たれ、周囲の一切を
悲鳴、怒号、嘆き。幼子が、
少女は子供が
誰か助けて。誰か助けて。誰か助けて。
状況も理解出来ない罪の無い人々が、一瞬にして炭と化す。悲鳴も嘆きも全てが炎の中に消えて行く。人の焼ける嫌な臭いが鼻を突く。
誰か、助けて。
その声も炎の中に呑み込まれて行った。
和輝は、拳を握った。何処かに打ち付け折れてしまったのか、両足は動かなかった。それでも、血塗れの両腕で這うようにして少女へ手を伸ばす。
「止めろ!」
少女の白濁した瞳が、和輝を見た。
愉悦に口角を釣り上げた少女は、再び掌を翳していた。途端、地獄の業火を思わせる火球が浮かび上がる。
「スバルは何処?」
再度、少女はその名を口にした。
これが最後の問い掛けなのだと分かった。
けれど、和輝には答えることが出来なかった。
火球が放たれる――刹那、少女の背後から何かが投げ付けられた。少女が
鼻の粘膜にこびり付くような臭いが漂う。それは何処か嗅ぎ慣れた懐かしい臭いだった。
和輝が呆然となった次の瞬間、一つの影が立ち塞がるようにして
「ヒーロー見参?」
炎がその青白い
「葵、街が、皆が、」
「状況はよく分からん。だが、何が最善かは分かる」
葵は和輝の脇に腕を回し、強引に引き上げた。血液が足元に滴り落ち、葵は嫌そうに眉を寄せた。
何かの液体に塗れた少女は、顔を引き
和輝は身構えた。しかし、葵は和輝を担いだまま眉一つ動かさなかった。
「それは油だ」
葵は言った。
「お前の放つ炎は燃焼速度と色温度からして3000℃前後。油の引火温度は300℃以下だ。今、火を使えばお前が死ぬぞ。――じゃあな」
逃げるぞ。
葵はそっと耳打ちして、夜の闇の中を走り出した。
1.予定調和の檻
⑷強襲
殆ど葵に引き摺られる形で、和輝が辿り着いたのは勤務先である精神病棟だった。
自力で立ち上がることすら困難な和輝には、選択肢が無かった。しかし、何故此処なのだと問い詰めたかった。
あの少女は昴を探していた。目的を達成する為には、他の人間を巻き込み殺しても構わなかった。この精神病棟には恐らく彼女の目的であろう昴も、無関係な入院患者も、当直の医師もいる。最悪の場所だ。
何かを言いたげにしている和輝を察したのか、葵は何でもないような顔で言った。
「お前なら無関係な人間を巻き込む必要が無く、火から身を守れる海にでも船で
「だけど!」
「冷静になれ。俺たちが、まずやらなければならないことは何だ。あいつを何とかしない限り、逃げる先全てが火の海だ。お前に、あいつを止められるか?」
葵は足元に目をやった。
今も血の滴り落ちる両足は、見るも無残な有様だ。遠くには逃げられないし、あの少女の元へ駆け付ける程の機動力も無い。
考えろ。今出来る最善を尽くせ。
死者を
考えろ!
和輝は目を閉じて、深呼吸をした。
酸素を取り込んだ脳が、ゆっくりと、けれど、確かに動き出す。耳鳴り、拍動、痛み、指先の感覚。急転直下の状況に動転していた意識が切り替わる。
目を開くと、先程まで白く点滅していた視界が鮮明になっていた。
今の俺達がやるべきこと。
「状況の、把握」
「そうだ」
和輝は痛む足を引き摺りながら、歩き出した。
「あいつは昴を探していた。俺が知っていると、確信を持っていた」
「目的は解った。あいつの使ったものが国家機密的な
和輝は奥歯を噛み締めた。あの少女の不可思議な力に足が竦む。だが、これ以上、被害を広めてはならない。
巻き込みたくはなかったけれど。
「昴に会いに行こう」
「そうだ。それが最善だ」
葵に肩を借りながら、和輝は
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