⑷強襲

 自己の証明を過去の記憶に依存するのならば、現時点の自分は幽霊と同じなのだろう。


 和輝には、或る一年間の記憶が無かった。その間に何が起きたのかは概要こそ聞いているものの、全ては語り継がれる昔話や御伽草子おとぎぞうしのように他人事で、実感を持って肯定出来た試しが無い。もっとも、その記憶の亡失は脳が心を守る為の自己防衛機能によるものだ。思い出す必要も無いし、秘匿ひとくされた真実をあばきたいとも思わない。


 ただ、時々、自分の選択が本当に正しかったのかという疑念に駆られる時がある。不利益について検討しないのは怠慢たいまんではないのか。現状に甘んじて臭い物に蓋をするような行為は、無責任ではないのか。そんな風に、いつまでも自分をいましめたくなる。


 だから、なのだろう。

 だから、昴を放って置けないのだ。記憶を失くしたその様が自分のようで、常識と呼ばれるものを理解しない様がかつての葵のようで、放って置けない。


 公私混同もいいところだ。

 和輝は微睡まどろむ頭を振って、漸く思考の渦から抜け出した。


 寄せては返す潮騒が、まるで遠い昔に置いて来た過去が己を糾弾きゅうだんしているようだった。


 和輝は日用品を買い込んだ紙袋を抱えて、逃げるように帰路を辿たどっている。休暇など夢物語の過酷な業務から離れた時、自分の存在が曖昧あいまいになってしまう。労働していない時の自分はこの世界に存在していないのだ。仕事にアイデンティティを求めてしまう今の自分は、ワーカーホリックなのだろう。自覚はしているが、辞める手立ても無かった。


 墨を垂らしたような闇の中、オレンジ色の灯火が商店街を賑やかに照らしている。商人の活気に満ちた声と人熱ひといきれが混ざった雑多な喧騒は息苦しく、冷たい夜風が心地良かった。


 和輝が暮らす街は中流家庭の過密化した港町だった。活力に満ちた海の男は豪快で、女は家庭を守る為にたくましい。温暖化や環境汚染によって漁師の多い港町は過疎化が始まっているが、地域に愛着を持つ人々は反対運動を起こし、環境保護の必要性を訴え、活動している。


 裏表の無い純真な人々が多く、彼等は余所者の和輝にも親切だった。精神科医という特殊な業務にも理解を示し、何かと世話を焼いてくれる。此処で暮らすようになって三年経つが、それなりに愛着もあった。


 労働者の群れは酒場で互いに労い、酒をみ交わす。酒精を漂わせる雑踏の中を、和輝は肩を竦めて歩いた。時折、顔見知りの住人が声を掛けてくれる。小さなコミュニティではちょっとした噂が拡大し易く、皆が家族のように親しくなる。和輝は会釈を返し、大荷物を理由に足を急がせる。


 色鮮やかな衣服を纏った女たちが音楽に合わせて踊る。まるで水槽の中の熱帯魚のようだった。肌寒い早春の夜に熱気が宿り、まるで母国の祭囃子まつりばやしを思わせる。酒を片手に眺める男たちは差し詰め珊瑚礁さんごしょうだろう。和輝は押し潰されそうな程の人口密度の中を、泳ぐように掻き分けて進む。


 人の群れを抜けた時、せた石畳の道がぽっかりと開いた。子供の作り上げた落とし穴のような違和感に、和輝はつんのめりながら目を見張った。周囲の人々は其処に空間があることすら知覚せず、そうであることが当然というように避けて進む。


 空間の中央に、美しい少女がいた。

 白磁はくじのような肌、老婆のような白髪、白濁はくだくした瞳。白亜のワンピースには染み一つ無く、夜風をはらんでは波打つように揺れる。彼女は射抜くようにして真っ直ぐに和輝を見詰めていた。




「蜂谷和輝」




 それは耳慣れた欧州の言葉でも、懐かしい母国の言葉でもなかった。確かに発された言葉は言語として耳ではなく、脳へ直接飛び込んで来た。




「スバルは何処?」




 どきりと心臓が脈を打つ。

 背後から刃を突き付けられているかのような緊迫感が押し寄せて、周囲との気圧に目眩めまいがした。


 スバル。

 彼女が何を問うたのか理解すると同時に、それを答えてはならないと反射的に理解していた。

 和輝は平静を装いながら、喘ぐようにして一言だけ答えた。




「分からない」




 知らないでは、駄目だ。

 自分の命を守る為に、彼女には何も悟られてはならない。寝耳に水という顔で、無関係であることを主張しなければならない。


 少女は、息を吐くようにして笑った。

 そして、和輝が何かを訴えるより早く、掌をかざした。




「嘘吐き」




 絶対零度の無慈悲な声が聞こえ、少女の白い掌に真っ赤な火の玉が見えた。――その時、重々しい爆発音が耳をつんざいた。


 和輝の体は木の葉のように軽々と吹き飛ばされ、乾いた石畳の上に叩き付けられていた。


 背中を打ち付けた和輝は激しくせ返った。白く点滅する視界の中、鮮やかな衣装を纏った女や、屈強な男、郷愁を感じる街並みがことごとく爆風と熱にひしゃげて、見るも無残に焼け焦げていくのが見えた。


 辺りは一瞬にして地獄絵図と化した。鼓膜こまくが破れたのか酷い耳鳴りに襲われ、立ち上がることすら出来ない。身体中が粉々に砕かれたかのような激痛と共に和輝は血反吐を零した。


 燃え盛る紅蓮の炎が嘲笑うように揺れている。

 何が起きたのかも解らない。

 ガス爆発?

 爆弾テロ? ――違う。もっと恐ろしい何かだ。和輝には到底理解の及ばない何かが彼女の掌から放たれ、周囲の一切を灰燼かいじんへ化そうとしている。


 悲鳴、怒号、嘆き。幼子が、瓦礫がれきに押し潰された母の名を呼ぶ。

 少女は子供がたわむれにありを踏み潰すようにして、逃げ惑う人々を虐殺して行く。


 誰か助けて。誰か助けて。誰か助けて。


 状況も理解出来ない罪の無い人々が、一瞬にして炭と化す。悲鳴も嘆きも全てが炎の中に消えて行く。人の焼ける嫌な臭いが鼻を突く。


 誰か、助けて。

 その声も炎の中に呑み込まれて行った。


 和輝は、拳を握った。何処かに打ち付け折れてしまったのか、両足は動かなかった。それでも、血塗れの両腕で這うようにして少女へ手を伸ばす。




「止めろ!」




 少女の白濁した瞳が、和輝を見た。

 愉悦に口角を釣り上げた少女は、再び掌を翳していた。途端、地獄の業火を思わせる火球が浮かび上がる。




「スバルは何処?」




 再度、少女はその名を口にした。

 これが最後の問い掛けなのだと分かった。

 けれど、和輝には答えることが出来なかった。


 火球が放たれる――刹那、少女の背後から何かが投げ付けられた。少女が咄嗟とっさに身を守ったと同時に、それは悲鳴のような音を立てて粉々に割れた。中から何かの液体が飛沫しぶきを上げて降り注ぎ、街路を闇色に染め上げる。


 鼻の粘膜にこびり付くような臭いが漂う。それは何処か嗅ぎ慣れた懐かしい臭いだった。

 和輝が呆然となった次の瞬間、一つの影が立ち塞がるようにしておどり出た。




「ヒーロー見参?」




 闖入者ちんにゅうしゃは不敵な笑みを浮かべて振り向いた。葵だ。和輝は殆ど反射的にその名を口にしていた。

 炎がその青白いおもてを照らし、漆黒の瞳に映り込む。和輝は強張っていた肩の力がふっと抜けてしまった。




「葵、街が、皆が、」

「状況はよく分からん。だが、何が最善かは分かる」




 葵は和輝の脇に腕を回し、強引に引き上げた。血液が足元に滴り落ち、葵は嫌そうに眉を寄せた。


 何かの液体に塗れた少女は、顔を引きらせ、鬼の形相で掌を翳す。其処から放たれた常識外の現象が脳に焼き付いている。


 和輝は身構えた。しかし、葵は和輝を担いだまま眉一つ動かさなかった。




「それは油だ」




 葵は言った。




「お前の放つ炎は燃焼速度と色温度からして3000℃前後。油の引火温度は300℃以下だ。今、火を使えばお前が死ぬぞ。――じゃあな」




 逃げるぞ。

 葵はそっと耳打ちして、夜の闇の中を走り出した。








 1.予定調和の檻

 ⑷強襲








 殆ど葵に引き摺られる形で、和輝が辿り着いたのは勤務先である精神病棟だった。

 自力で立ち上がることすら困難な和輝には、選択肢が無かった。しかし、何故此処なのだと問い詰めたかった。


 あの少女は昴を探していた。目的を達成する為には、他の人間を巻き込み殺しても構わなかった。この精神病棟には恐らく彼女の目的であろう昴も、無関係な入院患者も、当直の医師もいる。最悪の場所だ。


 何かを言いたげにしている和輝を察したのか、葵は何でもないような顔で言った。




「お前なら無関係な人間を巻き込む必要が無く、火から身を守れる海にでも船でぎ出すんだろう。だが、あの遠隔操作能力を見る限り、海上は逃げ場を失くすだけだ」

「だけど!」

「冷静になれ。俺たちが、まずやらなければならないことは何だ。あいつを何とかしない限り、逃げる先全てが火の海だ。お前に、あいつを止められるか?」




 葵は足元に目をやった。

 今も血の滴り落ちる両足は、見るも無残な有様だ。遠くには逃げられないし、あの少女の元へ駆け付ける程の機動力も無い。


 考えろ。今出来る最善を尽くせ。

 死者をいたむことか、理不尽な暴力にいきどおることか、悪戯に逃げて犠牲者を増やすことか。自分に何が出来る?


 考えろ!


 和輝は目を閉じて、深呼吸をした。

 酸素を取り込んだ脳が、ゆっくりと、けれど、確かに動き出す。耳鳴り、拍動、痛み、指先の感覚。急転直下の状況に動転していた意識が切り替わる。

 目を開くと、先程まで白く点滅していた視界が鮮明になっていた。


 今の俺達がやるべきこと。




「状況の、把握」

「そうだ」




 さとすようにゆっくりと葵が言った。

 和輝は痛む足を引き摺りながら、歩き出した。




「あいつは昴を探していた。俺が知っていると、確信を持っていた」

「目的は解った。あいつの使ったものが国家機密的な殺戮さつりく兵器なのか、非科学的な超能力なのかは解らん。だが、今の俺たちには対抗する手段が無い。となると、次にやるべきなのは、身の安全を図ることだ。他の人間を巻き込まない為にも」




 和輝は奥歯を噛み締めた。あの少女の不可思議な力に足が竦む。だが、これ以上、被害を広めてはならない。

 巻き込みたくはなかったけれど。




「昴に会いに行こう」

「そうだ。それが最善だ」




 葵に肩を借りながら、和輝は棺桶かんおけのように冷たく暗い回廊を歩き始めた。この先が地獄に繋がっていたとしても、今更驚きはしないだろうと思った。

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