⑶邂逅は檻の中

 神木葵かみき あおいは歩いていた。


 辺りは死んだようにひっそりと静まり返っている。それはまるで、自分以外の人類が死に絶えたかのようだった。


 欧州の田舎にある精神病院へ来ている。そこは葵の掛かり付けの医師の勤務地であり、ともすれば生活の拠点でもあった。


 葵が精神病の疾患と診断されたのは、今から凡そ二年前のことだった。先祖代々警察官の家系に生まれた葵の両親と兄は職務を全うし、この世を去った。その兄が死んだ事件により、葵はPTSDを発症した。以来、自身では制御不能の衝動に駆り立てられるようになった。現在は人の良い精神科医の監視の元、どうにか社会生活をいとなんでいる。


 今日は定期健診の予定が入っていた。


 葵は約束通りの時間に精神病院を訪れた。平日の真昼間、外来診療の利用者は無く、受付ロビーはほとんど無人であった。形だけの受け付け係は事務作業の片手間といった調子で、とても急患に対応出来るようには見えない。葵の訪問に気付く素振りすら見せないので、自分はなのだと嫌でも教えられているようだった。


 自分は透明人間だ。――否、あの太陽のごとく光り輝くヒーローに比べたなら、どんな人間だって透明人間に成り下がる。


 リノリウムを叩く乾いた音が反響する。葵が振り返ると同時に、視線は磁石のように強烈に彼へ惹き付けられてしまった。


 色白で目鼻立ちのきりっとした賢そうな青年だった。小柄な体格に合わない白衣は不恰好である筈なのに、それすら様になって見える。彼は、まるで神話から抜け出して来た英雄のように、輝かんばかりの存在感を放っている。


 彼はさも当然と言わんばかりに葵を見付けて、軽く手を上げた。濃褐色の真ん丸の瞳は、柔らかな微笑みに細められた。


 眩しくてたまらない。葵は肩をすくめて、歩み寄る白衣の青年を呼んだ。




「和輝」




 蜂谷和輝はちや かずき

 葵の主治医であり、唯一無二の友人でもある。


 和輝は歩調を早めて歩み寄る。その度に足元では室内履きがぱたぱたとだらしなく鳴った。受け付け係はそこで漸く葵の存在を知覚し、驚いたように目を丸めた。


 和輝は腕時計を確認し、口角を釣り上げて悪戯いたずらっぽく笑った。




「遅刻しなかったね」

「お前と一緒にするな」




 葵が悪態吐あくたいづくと、和輝は少年のように白い歯を見せて笑った。




「じゃあ、行こうか」




 きびすを返す和輝の後を追い、葵も歩き出す。


 辺りは相変わらず無人で、空調機の唸り声が遠雷のように低く響くだけであった。背中を向けた和輝だけがその存在を強く主張している。


 つくづく、場所に見合わない男だ。交流の深い葵から見れば、彼はしかるべきところに収まれば、万人に愛され、英雄として語り継がれるような人種だった。そんな彼がこの世の果てみたいな辺鄙へんぴな場所にある精神病院でくすぶっている理由を、葵は知っている。


 先を行く和輝が案内したのは、通い慣れた診察室だった。内部には診察に使用する検査器具の数々が、定規で測ったかのように、これ以上ない程の完璧な位置で鎮座ちんざしている。その中で一際目を惹くのは、中央に設置された大きな箱だった。和輝が言うには、心理療法に使用する箱庭と呼ばれる器具らしい。しかし、葵は常にカバーで覆われているこの器具を見たことがない。


 勝手知ったるとばかりに、葵はうながされる前に着席した。和輝もまた対面するように席へ座った。診察室は和輝と葵の二人きりで、第三者の目はない。


 和輝はおざなりにカルテを広げ、顔を上げた。血の気のない白い面、目の下には薄っすらとくまがある。


 患者よりも、彼の方が余程病人に見える。多忙なのだろう。和輝はボールペンを指先でくるりと旋回させ、世間話みたいな気安さで問い掛けた。




「最近、どう?」

「何もないけど」

「それは良かった。じゃあ、また次回」




 和輝は早々に放逐ほうちくするように手を振って、それきり何も言わなかった。ボールペンの走る音さえ騒がしく感じる静けさが、まくのように室内を包み込む。


 葵は呆れて溜息を吐いた。




「それでいいのか?」

「いいよ。お前のことは信用してるから」




 和輝はあっさりと、力無く笑った。蓄積した疲労が、隠しようもなく顔に滲み出ている。


 それ以上、互いに必要な会話は無かった。葵は退室しようと立ち上がった。和輝は顔も向けず、診察内容をカルテに書き殴っている。この定期健診が無ければ、葵は社会生活を送ることは出来ない。和輝との定期的な面談は、自分を自由にする為に必要な作業だった。


 自分を自由にする為に、彼は自由を奪われている。葵はそんな風に思った。けれど、言葉に出すことは出来ぬまま、酷く遣る瀬無い心持ちで、そっと退出した。


 扉が閉まる刹那、和輝が言った。




「またね」




 その言葉が、まるでくさびのように胸に突き刺さる。

 葵が何かを発するより早く扉は閉じ、辺りは再び静寂に包まれた。










 1.予定調和の檻

 ⑶邂逅かいこうは檻の中









 早春の日差しに草木はえ、正に穏やかな昼下がりだ。入院着を纏った患者達は、冬眠を終えた昆虫のように病棟から這い出し、こぞってその日差しを浴びようと中庭へやって来る。


 点滴を下げて中庭を散歩する老人も、ぼんやりと日光浴する男も、お喋りに忙しい女も、一見すると彼等は皆、無害なのだ。しかし、よく観察すると常人とは異なる世界を生きていると解る。


 多くの患者は他者に無関心で、交流を楽しんでいるように見えても、それは幼児の平行遊びに等しい。水槽の中の熱帯魚は、ガラスの向こうへ干渉しない。彼等の世界はこの檻の中が全てなのだ。


 突然やって来た葵に対してもそれは同様で、それが透明人間のように希薄な存在感を持つなら尚更なおさらのことだった。誰にも知覚されず、患者はおろか看護師さえ無関心に通過する。


 葵は中庭に据え付けられたベンチに腰を下ろし、ポケットに収めていた文庫本を取り出して、ひざの上に広げた。シェイクスピアのマクベスだ。マクベスは権力を求め、妻に背中を押され、ついには恩顧おんこある王までも暗殺する。そして、狂気に呑み込まれるマクベスは声高らかに言うのだ。


 Who can be wise, amazed, temp'rate and furious, Loyal and neutral, in a moment?


 誰に出来るというのだろう。分別を働かせながら動転し、穏やかながら激怒し、忠誠心に燃えつつ冷淡でいる。それも同時に。


 狂人の群れの中で、常人を装いながら、他者も自己も嘘で誤魔化し、正気を保ち続ける。

 そんなことが誰に出来る? ――だが、葵にはそれが出来る。自分は透明人間で、誰にも知覚されない。


 精神病患者と交流を深める必要も無いし、意味も無い。


 爽やかな風の吹き抜ける中庭は、切り揃えられた芝生が青々と茂っていた。精神病棟としては優秀だが、生活の拠点とするには余りにも息苦しい。よくも和輝はこんなところで三年間も堪えて来たものだと感心してしまう。


 ふと視線を上げると、中庭の中央にカンバスを打ち立て長考する青年の姿が見えた。何となく気になって背後に寄り、彼の手元を覗き込んだ。


 細長く黒い絵筆だった。その先は真っ白い絵の具に染まり、油絵の具の独特な臭いがした。

 対するカンバスもまた白く、何層にも白い油絵の具が重なっていた。


 彼は、何を描いているのだろう?

 その目は、青々と茂る芝生も、灰色の病棟も、太陽の光も青空も、行き交う患者すらも映っていない。


 しばらく覗いていたが、興味を失った葵は立ち去ろうとした。けれど、その時。




「蜂谷先生の友達?」




 あり得ない言葉があり得ないタイミングで出て来るものだから、葵はつい言葉を失った。

 くるりと面を向けた青年は、まるでこの世の不幸などつゆ一つ知らぬように美しく微笑んでいた。




「前に、蜂谷先生の机で、君の写真を見たような気がしたから」




 葵は、会話を躊躇ためらった。

 此処にいる人間は全て敵だ。此処で葵が問題を起こす訳にはいかない。患者同士の会話は許可なく行うことが許されていない。


 葵は周囲に設置された監視カメラやスピーカーの距離から、現時点の自分達の会話まで聞き取れぬということを理解し、ようやく重い口を開いた。




「お前は何者だ?」




 青年は取り直すようにしてたたずまいを正し、折り目正しく礼をした。




「僕は、昴」

「日本人か?」

「さあ」

「年齢は?」

「恐らく、十代後半かと」




 短い遣り取りだったが、葵には彼の抱える問題が分かってしまった。暖簾のれんに腕押しするように虚しく空回りする会話の応酬に、既視感すら覚える。


 葵は、方程式を解くようにして導き出した答えを口にした。




「記憶が無いのか」

「そう」




 否定もせず、昴はあっさりと言った。

 予期していたとは言え、酷い肩透かしを食らったような心地だった。




「昴って名前は何処から来たんだ?」

「小惑星探査機のすばるが、音信不通で帰還は絶望的と思われていたのに、最近になって帰還しただろう。映画にもなったみたいだし、それにあやかって」

「それは、はやぶさだ」




 そうなの?

 昴は小首を傾げる。まるで馬の耳に念仏でも唱えているかのような会話の応酬だ。葵は既に目の前の青年に対して興味を失い、対応が面倒になっていた。馬鹿と話すと疲れるのだ。


 ただ、この男は気になることを口にした。

 目の前にいるこの昴と呼ばれる身元不詳の青年は、和輝と関わりがある。それも、彼の仕事机を覗くことが出来る程度には交流があるようだ。




「その蜂谷先生は、お前の担当医か?」

「そうだよ」




 それは春の微風にも似た軽い肯定であった。


 葵には確かめなければならないことがある。この昴という男は、和輝の担当する患者の一人なのだ。


 何か理由を知っている筈だ。彼が何者でどんな過去を背負っていたとしても、取るに足らない些細ささいな事柄だ。他人なんて心底どうでもいいと思う。誘拐されても殺されても構わない。自分や恩人にるいが及ばないのであれば。


 葵には、気に掛かっていることがあった。先程診察室で顔を合わせた旧友は、少し見ない間に随分と疲れているように見えた。友人であり、恩人でもある蜂谷和輝は、中々に神経の図太い人間だ。お人好しが過ぎることもあるが、分別もわきまえている。そんな彼が心身共に疲弊ひへいし、あまつさえそれを患者である葵に悟られる程度には余裕も無くなっている。




「お前、あいつに何をした?」




 確信を持って、葵は尋ねたつもりだった。しかし、昴はきょとんと首をひねっただけだった。




「蜂谷先生に? 何もしてないけど」

「……まあ、いいさ」




 例えそれが嘘であったとしても、まことであったとしても、その内に解ることだ。


 彼がどんな人間なのかは知らないが、もしもそれが脅威となり得るのならば排除するだけのことだ。幸い、同じ精神病患者だ。事実の捏造も証拠の隠滅も今の葵には容易い。白痴はくちのように薄ぼんやりとしたこの男を消すことなど、赤子の手を捻るように簡単なことだ。


 葵は背中を向けて歩き出した。

 この身元不詳の青年についての情報収集をしようと思った。


 身をひるがえした葵に、追いすがるようにして昴が言った。




「君の名前を訊いてないよ」




 葵は半身振り向いた。




「教えていないからね」




 昴は叱られた幼児のように肩を竦めた。




「教えて欲しいんだけど」




 目を真ん丸に見開いて、昴は此方を見ている。


 記憶を持たない精神病患者。その内面は外見以上に幼い。どのくらいの期間収容されて来たのかは知らないが、きっと、今の彼にとっては、この狭い精神病棟が世界の全てなのだ。


 他者に無関心な患者、他人行儀な看護師、求めたら応えてくれるお人好しの担当医。その中で、葵は異物なのだ。

 腹の底から意地の悪い感情がふつふつと湧き上がって来て、葵は口角を釣り上げて言った。




「嫌だよ」




 すると、昴はその答えを予期していなかったのか、眉をひそめて憮然ぶぜんと口をとがらせた。その顔を見ていると、不思議と可笑しさのようなものが込み上げて来る。




「何でも訊いたら答えてくれるとは限らない。求めたら与えられるだなんて考えは赤子と同じだ」

「……」

「お前の担当医は底抜けのお人好しだが、俺は違う。赤の他人だ。お前が困っていても、苦しんでいても、死にそうになっていても助ける理由はない」

「君って、嫌な人だね」

「自分の思い通りにならないからと言って相手を批判するのは馬鹿のすることだ」

「蜂谷先生は応えてくれる。困っている人がいたら、助けることは当然だって言っていたよ」

生憎あいにく、俺は蜂谷先生ではないので」




 これ以上、昴をつつく必要も無い。

 葵は漸く背を向けて歩き始めた。行先には点滴を携えた患者が、曇りガラスのように虚ろな瞳で彷徨さまよっている。何処からか少女のような無邪気な笑い声が聞こえていたが、何を言っているのかまでは分からなかった。

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