⑵遠雷
和輝が昴と出会ったのは、今から
学会で知り合った精神科医の一人が、手に負えない患者がいると弱音を吐くようにそっと打ち明けた。若手である和輝を何かと気に掛け、世話を焼いてくれる親切な医師だった。弱音や愚痴を滅多に
患者――昴は、二年前、欧州の郊外に打ち捨てられていた。身元不詳の彼は地元警察に保護されたが、聴取に対して意味不明の言語を並べ、会話が成り立たなかったという。
出自はおろか、社会常識さえ知らない様は、幼子のように
言葉通りに受け止めた昴は、その取調官の首を絞めて殺そうとした。他の職員に取り押さえられ事なきを得たが、昴は不思議そうに目を丸めていたという。まるで罪悪感を覚えず、共感能力の
元々、和輝は語学には疎く、昴が異なる言語を使用していたとしても大した障害にはならなかった。身振り手振りで
昴との面会を繰り返す中で、和輝は着実に信頼を築いて行った。それが
ある日、和輝は本を読んでいた。昴はその本の内容を問い掛けた。
かもめの主人公が己の意思を貫き、群れから
和輝は幼子に教えるように、内容を噛み砕き、丁寧に教えたつもりだった。自身の人生に多大な影響を与えたその本の主人公を指して、憧憬を語った。昴は
そして、昴は何かを思い付いたように唐突に立ち上がり、屋上へ行こうと言い出した。
和輝は渋ったが、腕を掴んだ昴は、その
常にない状態の昴に危機感を覚え、和輝は助けを求めた。しかし、隔離された施設に救援の手はなく、ついには目的地である屋上へ引っ張り出された。
屋上は
昴は嬉々とした笑みを浮かべて振り返った。そこに悪意や害意の類はない。
昴は何の予備動作もなく、和輝の身体を軽々と持ち上げた。反撃や抵抗はおろか、状況を把握することすら困難だった。上半身は空中へ押しやられ、胸元を掴む昴が手を離せば、身体は重力に従って転落するだろう。アスファルトに叩き付けられた自分が潰れたトマトのようになる様を想像し、和輝は恐怖に打ち震えた。
昴は和輝を欄干に押し付けて、純真な笑みを浮かべていた。
「鳥になりたいんだろう?」
身体中の血液が一瞬で引き、感覚の全てが凍り付いたように動けなくなる。その時になって、和輝は、昴が別の生き物であることを痛感した。
彼を担当していた精神科医は、社会常識や道徳、倫理を知らぬ精神状態を指してタブララサと称した。そして、他者の感情に共感しない様はまるでサイコパスそのものだと。
サイコパスとは、社会における捕食者だ。彼等を理解することは難しい。我々は、異なる生物であるということを理解しなければならない。
臨床心理学界の権威である父の記した一節が
やめろ、昴。
人は空を飛ぶことは出来ない。人は鳥にはなれない。
死んでしまうんだ。
昴にその言葉が届かないとしても、和輝は振り絞るように声を上げ、叫ばなければならない。
「俺は生きたいんだよ!!」
助けてくれ。
よもや、自分が患者に命乞いをする日が来るとは思いもしなかった。昴は何かを考え込み、そして、どのような結論を出したのかは解らないが、和輝を欄干の外から引き上げてくれた。
喉がからからに乾いて、心臓が激しく拍動していた。
ぽつりぽつりと雨粒が落ちて来る。和輝は肩で息をしながら、濡れそぼった昴の微笑みを見ていた。
叱責や罵倒の言葉は出て来なかった。
昴に悪意や害意は無い。全ての行為は許容であり、慈愛であり、親切なのだ。――それが例え、社会の常識や道徳から
1.予定調和の檻
⑵
この身元不詳の青年と接するに当たり、障害になったのは、昴の持つ無垢、或いは無知さであった。
個室で絵本を読んでいた昴は、突然立ち上がってガラスを叩き割った。その騒音に駆け付けたスタッフが理由を問うと、昴は空がよく見えないからだと言った。
またある時は、親鳥を亡くした小鳥を
それは昴にとっては、親切なのだ。そこに悪意や害意の類はない。けれど、本当に恐ろしいのは、悪意のない殺意である。
和輝は昴に殺されかけたという記録は何処にも残していない。彼がサイコパスではないという
それでも、彼の身の周りで起こる常識から外れた所業は、幾ら蓋をしても滲み出る。少なくとも、この施設における彼の立場は精神異常者である。社会の為に檻の中へ拘束する必要がある。和輝とて、現在の彼を社会へ出すことは到底許可出来ない。
しかし、頭の中で首を振る。違う。彼は異常者ではない。知らなかっただけなのだ。例え、その無知が他者を傷付けたとしても、憎むべきは昴ではない。それを教えなかった環境だ。
昴を個室まで送り届けた後、和輝は事務所へ戻った。後ろ手に扉を閉めた瞬間、身体が鉛にでもなったような
自分の席に座ると、疲労が背中にどっと伸し掛かり、次の動作を起こすことすら困難だった。デスクには故郷の家族や友達の写真、小さなサボテンの鉢植が飾られている。それが
いくつかのメールが届いていた。研修や出張の予定、同僚からの業務連絡。文字の海に呑み込まれそうな受信トレイの中、一通のメールが目に留まった。
差出人、
懐かしい母国の文字が、錆び付いた思考を呼び覚ます。和輝は緊急度も構わずメールの開封を急いだ。
明日、行くから。
ただ、それだけの言葉だった。それでも、和輝は背を焼くような焦燥感に駆られて、了承の返信をした。
ふーっと息を吐き出すと、魂まで抜かれたような
――人の心は目に見えない。目に見えないものを、どうやって証明するんだい?
それは遠い雷鳴のように鈍く、頭の中に響いた。聞き覚えのある声だったが、それが誰のものなのか和輝には思い出せない。自分の身体でありながら、他人に操縦されているような酷い息苦しさだった。
無力感に押し潰されそうになりながら、和輝は
「でもね、俺は信じてみたいんだよ」
それが届かない遠い日の記憶だと知り、和輝の視界はじわりと滲んだ。
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