⑵遠雷

 和輝が昴と出会ったのは、今からおよそ半年前のことだった。


 学会で知り合った精神科医の一人が、手に負えない患者がいると弱音を吐くようにそっと打ち明けた。若手である和輝を何かと気に掛け、世話を焼いてくれる親切な医師だった。弱音や愚痴を滅多にこぼさない気丈な人間だった。そんな彼の信頼に応えるつもりで、和輝は二つ返事で昴との面会を行った。


 患者――昴は、二年前、欧州の郊外に打ち捨てられていた。身元不詳の彼は地元警察に保護されたが、聴取に対して意味不明の言語を並べ、会話が成り立たなかったという。


 出自はおろか、社会常識さえ知らない様は、幼子のように無垢むくであった。保護された先で偶々同席した取調官が、五里霧中ごりむちゅうの最中に愚痴を零した。それは奇しくも、先刻と同じ言葉だった。


 言葉通りに受け止めた昴は、その取調官の首を絞めて殺そうとした。他の職員に取り押さえられ事なきを得たが、昴は不思議そうに目を丸めていたという。まるで罪悪感を覚えず、共感能力の欠如けつじょした様を見た警察は、精神異常者というレッテルを貼った。幾つもの医療施設を転々としたが、誰もがお手上げの状態だった。


 元々、和輝は語学には疎く、昴が異なる言語を使用していたとしても大した障害にはならなかった。身振り手振りで大凡おおよその意思疎通は可能であり、また、昴は和輝の話す言葉をスポンジのように吸収し、理解した。


 昴との面会を繰り返す中で、和輝は着実に信頼を築いて行った。それが慢心まんしんであったとは思わない。しかし、和輝は昴と顔を合わせる中で油断をしていた。それが致命的なミスであると気付いた時には、既に脅威は何食わぬ顔をして目の前に迫っていたのだ。


 ある日、和輝は本を読んでいた。昴はその本の内容を問い掛けた。


 かもめの主人公が己の意思を貫き、群れから爪弾つまはじきにされながらも飛行の可能性を追求するという世界的なベストセラー小説だった。


 和輝は幼子に教えるように、内容を噛み砕き、丁寧に教えたつもりだった。自身の人生に多大な影響を与えたその本の主人公を指して、憧憬を語った。昴は頬杖ほおづえを突いて、嬉しそうに聞いていた。


 そして、昴は何かを思い付いたように唐突に立ち上がり、屋上へ行こうと言い出した。


 和輝は渋ったが、腕を掴んだ昴は、その痩躯そうくからは想像も出来ない程の力で引っ張った。それは一種の興奮と衝動に支配された狂人染みた行為であった。和輝の抵抗を物ともせず、半ば引きるようにして昴は階段を駆け上った。


 常にない状態の昴に危機感を覚え、和輝は助けを求めた。しかし、隔離された施設に救援の手はなく、ついには目的地である屋上へ引っ張り出された。


 屋上はびた欄干らんかんに囲まれ、古い貯水槽だけが取り残されたように見下ろしていた。空は鉛色の雲に覆われ、今にも大粒の雨が降り出しそうだった。何処か遠くで唸るような雷鳴がとどろいている。嵐の前触れだった。


 昴は嬉々とした笑みを浮かべて振り返った。そこに悪意や害意の類はない。


 昴は何の予備動作もなく、和輝の身体を軽々と持ち上げた。反撃や抵抗はおろか、状況を把握することすら困難だった。上半身は空中へ押しやられ、胸元を掴む昴が手を離せば、身体は重力に従って転落するだろう。アスファルトに叩き付けられた自分が潰れたトマトのようになる様を想像し、和輝は恐怖に打ち震えた。


 昴は和輝を欄干に押し付けて、純真な笑みを浮かべていた。




「鳥になりたいんだろう?」




 しなむちが耳元で打ち付けられたかのような雷鳴と共に、和輝は耳鳴りがする程の戦慄せんりつを覚えた。


 身体中の血液が一瞬で引き、感覚の全てが凍り付いたように動けなくなる。その時になって、和輝は、昴がであることを痛感した。


 彼を担当していた精神科医は、社会常識や道徳、倫理を知らぬ精神状態を指してタブララサと称した。そして、他者の感情に共感しない様はまるでサイコパスそのものだと。


 サイコパスとは、社会における捕食者だ。彼等を理解することは難しい。我々は、異なる生物であるということを理解しなければならない。

 臨床心理学界の権威である父の記した一節が脳裏のうりよぎった。


 やめろ、昴。

 人は空を飛ぶことは出来ない。人は鳥にはなれない。

 死んでしまうんだ。


 まくし立てるような早口で訴えると、昴はきょとんと首を傾げた。彼は目の前で起こっている出来事を何一つ理解していなかった。恐らく、それは和輝にとって当たり前で、今更口にする必要もないことだった。


 昴にその言葉が届かないとしても、和輝は振り絞るように声を上げ、叫ばなければならない。




「俺は生きたいんだよ!!」




 助けてくれ。

 よもや、自分が患者に命乞いをする日が来るとは思いもしなかった。昴は何かを考え込み、そして、どのような結論を出したのかは解らないが、和輝を欄干の外から引き上げてくれた。


 喉がからからに乾いて、心臓が激しく拍動していた。

 ぽつりぽつりと雨粒が落ちて来る。和輝は肩で息をしながら、濡れそぼった昴の微笑みを見ていた。


 叱責や罵倒の言葉は出て来なかった。

 昴に悪意や害意は無い。全ての行為は許容であり、慈愛であり、親切なのだ。――それが例え、社会の常識や道徳から逸脱いつだつしていたとしても。









 1.予定調和の檻

 ⑵遠雷えんらい









 この身元不詳の青年と接するに当たり、障害になったのは、昴の持つ無垢、或いは無知さであった。


 個室で絵本を読んでいた昴は、突然立ち上がってガラスを叩き割った。その騒音に駆け付けたスタッフが理由を問うと、昴は空がよく見えないからだと言った。


 またある時は、親鳥を亡くした小鳥をくびり殺した。死ねば一緒になれると思ったのだそうだ。


 それは昴にとっては、親切なのだ。そこに悪意や害意の類はない。けれど、本当に恐ろしいのは、悪意のない殺意である。


 和輝は昴に殺されかけたという記録は何処にも残していない。彼がサイコパスではないという一縷いちるの望みをたくして、全てを胸の中に封じ込めた。


 それでも、彼の身の周りで起こる常識から外れた所業は、幾ら蓋をしても滲み出る。少なくとも、この施設における彼の立場は精神異常者である。社会の為に檻の中へ拘束する必要がある。和輝とて、現在の彼を社会へ出すことは到底許可出来ない。


 しかし、頭の中で首を振る。違う。彼は異常者ではない。知らなかっただけなのだ。例え、その無知が他者を傷付けたとしても、憎むべきは昴ではない。それを教えなかった環境だ。


 昴を個室まで送り届けた後、和輝は事務所へ戻った。後ろ手に扉を閉めた瞬間、身体が鉛にでもなったようなだるさに襲われた。頭の芯から錆び付いていくように思考が鈍っている。


 自分の席に座ると、疲労が背中にどっと伸し掛かり、次の動作を起こすことすら困難だった。デスクには故郷の家族や友達の写真、小さなサボテンの鉢植が飾られている。それがまぶしく見えて、和輝はかばんからノートパソコンを取り出した。


 いくつかのメールが届いていた。研修や出張の予定、同僚からの業務連絡。文字の海に呑み込まれそうな受信トレイの中、一通のメールが目に留まった。


 差出人、神木葵かみき あおい

 懐かしい母国の文字が、錆び付いた思考を呼び覚ます。和輝は緊急度も構わずメールの開封を急いだ。


 明日、行くから。


 ただ、それだけの言葉だった。それでも、和輝は背を焼くような焦燥感に駆られて、了承の返信をした。


 ふーっと息を吐き出すと、魂まで抜かれたような虚脱感きょだつかんに包まれる。その時、頭の片隅で声がした。


 ――人の心は目に見えない。目に見えないものを、どうやって証明するんだい?


 それは遠い雷鳴のように鈍く、頭の中に響いた。聞き覚えのある声だったが、それが誰のものなのか和輝には思い出せない。自分の身体でありながら、他人に操縦されているような酷い息苦しさだった。


 無力感に押し潰されそうになりながら、和輝はすがるように呟いた。




「でもね、俺は信じてみたいんだよ」




 それが届かない遠い日の記憶だと知り、和輝の視界はじわりと滲んだ。

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