掌に咲く花
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1.予定調和の檻
⑴思想の壁
それは、叫び声だった。
怒号や雄叫びのようなエネルギーの放出とは違う、
一瞬、視界は爆発にでも巻き込まれたみたいにぱっと白く染まった。そこからのコンマ数秒、自分が何者であるのかすら喪失してしまった。
頭上では緊急警報が嵐のように鳴り響き、穏やかな昼下がりの回廊は一変して非常時の緊迫感に包まれた。
亡失の後、何処からか嬉々とした笑い声が聞こえた。それは夏の夕立のように
気付くと
音の波に乗って、慌しく看護師が駆けて行く。
行かなければと思うのに、頭の中に泥でも詰まってしまったかのように思考が
廊下には、合わせ鏡のように無数の扉が
胸の内で深呼吸をして、どうにか平静を取り
「キチガイだ、キチガイだ」
其処にいたのは、昔話に出て来る魔女のような老婆だった。黄ばんだ歯を剥き出しにして、無邪気な子供のように声を弾ませている。
傷一つないリノリウムの床は、蛍光灯の光を鈍く反射していた。廊下の隅に置かれた偽物の観葉植物がエアコンの風に微かに揺れ、
扉の並ぶ廊下を抜けると、視界は突然開かれた。和輝がロビーに到着すると途端、
白い壁、白い天井、白い蛍光灯の明かり。
患者やスタッフの群れに取り囲まれているのは、一人の青年だった。老いた野良猫のように痩せ細った身体と、モザイクガラスみたいな茫洋とした瞳。髪は夜空から抜け出して来たような黒色で、蛍光灯の明かりを反射して
収容された患者はある程度治療が進むと、他者との交流が許される。このロビーは彼等の小さな世界だった。彼等の作る世界はいつも排他的で、他者の介入を許さない。異分子を排除しろと遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。
和輝はそっと息を呑み込んで、他者を刺激しないよう努めて平静を装って、その名を呼んだ。
「
騒ぎの中心にいた青年が、嬉しそうに振り返った。まるで、無邪気な子供のようだった。和輝は肩を落とし、手招きをする。
子犬のように駆けて来る昴を、周囲の人間は忌々しげに睨んでいる。辺りは不穏な空気に支配され、酷く息苦しかった。
昴の左手には血塗れのボールペンが握られていた。そして、床には血液が飛び散り、患者服姿の男が腹を押さえて
和輝は昴の血塗れの手を握り、辺りを視線で
「何があったんだ」
興奮冷めやらぬ凄惨な状況で、看護師は喘ぐようにして耳打ちした。
「昴が刺した」
その物騒な言葉は、垂れ流されたテレビの無害な音声に、呆気なく呑み込まれて消えた。
和輝は背中へ目配せする。昴は何処か得意げな表情だった。褒められることを期待する幼子のように。
和輝は昴の手を引き、ロビーを後にする。純真な目を向けて追い掛ける彼に、腹の底から苦い思いが込み上げる。背中には幾つもの視線が突き刺さっていた。そこに質量があったのなら、今頃は血塗れなのではないだろうか。
「キチガイだ、キチガイだ」
何処かで笑い声が聞こえる。
事態の収拾に動き出す看護師の気配を背中に感じながらも、和輝は決して振り向かなかった。
1.予定調和の
⑴思想の壁
ロビーから離れた隔離病棟まで到達し、周囲に人気がないことを確認すると、
「何があったんだ」
問い掛けには、隠し切れない緊張感が
「何もなかったよ」
和輝は息を呑んだ。満面の笑みを浮かべる昴に、呼吸すら見失ってしまうような転落感に襲われた。
昴にとっては、何も無かったのだろう。例え、彼の存在が周囲に緊張感を
質問を変える必要がある。
和輝は仕切り直すようにして、再び問い掛けた。
「どうして、あの人を刺したんだ?」
すると、昴は合点がいったように頷いて、小鳥のような
「死にたいと言っていたから」
至極当然のことを言い放つように、昴は堂々と答えた。そこに害意や悪意の
それは彼にとって、親切だったのだ。和輝はその答えを予期していた筈なのに、苦い後悔と共に
この精神病棟には、自傷行為を繰り返し、自殺願望を抱く者もいる。だから、昴は死にたいと言った患者の願いを聞いて、額面通りに叶えてやろうとしたのだ。
何かが和輝の
奈落の底に落ちてしまいそうな思考を繋ぎ止めるつもりで、和輝は口を開いた。
「それは、いけないことなんだ」
昴の両手を握り、和輝は祈るように言った。けれど、昴は隔絶された水槽の向こうにいるかのように小首を傾げている。
「どうして?」
価値観の壁が、目の前に立ち塞がっている。
和輝は諭すように、一言一句を間違えないように、ゆっくりと言った。
「人の命は一つしかないんだよ。それを奪ってしまったら、二度と取り戻せない」
「でも、死にたいって」
「今は死にたいと願っていても、明日は生きたいと思えるかも知れない。君がしたことは、その人の未来を奪うことなんだ」
昴は、親に叱られた子供のように、泣き出しそうに顔を
「分からないよ」
どんな言葉を
「俺が嫌だから、駄目なんだ」
祈るように、何度でも言い聞かせる。
昴は口元を
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