⑹魔法
尾を引いた銃声が高く響き渡った。
銃弾は少女を捉え、その頭蓋に風穴を開ける――筈だった。
コンマ一秒にも満たない刹那、彼女の掌から光る網が展開された。銃弾はまるで見えない壁に衝突したかのように動きを止め、やがて恐ろしい程の熱によって溶け落ちて行った。
「嘘だろ……」
愕然とした葵の声を、昴は何処か他人事のように聞いていた。
いつも、そうだった。
この世界は硝子で囲まれていて、人々はスクリーンに映し出される影だった。昴は偽物の景色を眺めながら、温い泥の中で眠っているような心地だった。
和輝が地面を蹴り、一直線に駆け抜ける。しかし、振り上げられた腕は虚空を切って、光る網に絡め取られた。
耳を塞ぎたくなるような爆音が轟いて、小さな身体は軽々と吹き飛ばされて行った。葵が銃を投げ捨てて走り出す。闇の回廊に響く足音が、頭蓋骨の中に反響しているみたいだった。
行かなきゃ。
昴は駆け出した。
何故なのかは、分からなかった。
ただ、そうしなければならないと思った。
病棟を飛び出した時、凄まじい熱波が真正面から吹き付けた。体液が沸騰するような熱と風圧に、一歩たりとも動けなかった。建物が唸りを上げて燃え、視界はぐにゃぐにゃと歪んでいた。
火球の直撃した部位は、まるで巨大な魔獣の爪痕のように
和輝は
瓦礫の落下する音だけが無情に響き、葵が片膝を突くのが見えた。
少女の掌に、巨大の火球がある。それは、それまでの攻撃とは段違いの、まるで太陽のように大きな火球であった。その表面はマグマのように煮え
足元に光が見えた。
それは、蛍のように儚い灯火だった。
淡い光に導かれ、昴は走り出していた。
「和輝!」
気付いた時には、腕を広げていた。
恐怖なんてものは、意識の外にあった。
この人を死なせてはならないと、強く思った。
少女は、虚無的に歪んだ笑みを浮かべている。
「スバルは生きていてはいけない」
ずきりと、頭の奥が刺すように痛む。
視界の端がちかちかと点滅して、真っ直ぐ立っていられない。目の前の状況も自分の状態も、全てがぐちゃぐちゃに混ざって正しく認識出来ない。
掠れた声が、背中から聞こえた。
「ふざけんな……!」
瓦礫が崩れ、コンクリートが軋む。
焼け焦げた掌が、粉塵の中で拳を握る。
熱に歪む視界の中で、和輝が起き上がるのが見えた。煤と汗に塗れ、傷だらけの満身創痍だった。和輝は瓦礫を踏み締めて、昴の腕を引っ掴んだ。
「生きることに、許可なんていらない!」
その声は、夜明けを告げる
ああ、そうだ。
僕は、そう言って欲しかったんだ。
彼は、スクリーンに投影されるだけの影だった。
それなのに、その声が、瞳が、存在感が。極彩色の景色を連れて、スクリーンを突き破って確然と躍り出る。
それは惑星のような引力で、視線を雁字搦めにしてしまう。彼は、いつもそうだ。
恐れもせず、憐れみもせず、嘲笑いもせずに向き合ってくれた。身元不詳の精神病患者というレッテルを貼られた僕を唯一、認めてくれた。
四方を取り囲む硝子が、音を立てて割れたような気がした。水底から引き上げられたかのような、長い夢から覚めたような不思議な感覚だった。
遠くに見えていた現実が、臨場感を持って目の前に現れる。強烈な死のイメージが脳に焼き付き、己の意思とは関係無く体が震え上がった。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、昴の脳裏には見た事も無い筈の風景が走馬灯の如く蘇った。
陽の当たらない薄暗い湿った部屋の中、痩せ細った女が病床に伏している。肉の無い腕が自分を抱き締めて、血を吐くように言った。
どうか、生きて。
病に侵され、ろくに食事も薬も与えられず、自分に縋ることでしか己を保てない、弱く脆い――母だった。
けれど、その掌に込められた微かな力は、生命の証に他ならなかった。
少女の掌から離れた火球が、地上を押し潰さんとばかりの圧倒的な質量を持って目の前に迫る。周囲の喧騒が遠去かり、繋がれた掌の感触ばかりが鮮明だった。
生命への執着が激しく警鐘を鳴らす。血圧が急激に上昇し、頭がくらくらする。破られたスクリーンが、割れた硝子が、母の声が、和輝の微笑みが。
まだ抗う余地があるのではないかと、強く心へ訴え掛ける。
「お前なんて、怖くない!」
昴は顔を上げた。恐怖が腹の底から込み上げて足を竦ませる。――その時だった。
眼前に迫る巨大な火球の前に、
耳を劈くような轟音が界隈に鳴り響き、目の前に迫っていた火球は
視界は紅く染まっていた。
燃え盛る炎のような頭髪に、鮮やかな血の色をした瞳。すらりと背の長い青年は、此方を見て少しだけ笑ったようだった。
「――何やってんだよ、昴」
その微笑みに、昴の緊迫は
少女が動揺したのは、僅か一瞬だった。
途端に殺気立った少女は、炎の
殺意が
彼の横顔には薄っすらとした笑みがあった。目の前の少女など、取るに足らない
そして、次の瞬間、その掌から放射状に幾何学模様が広がった。凄まじい情報量に満ちた数学の芸術だ。昴は、それを知っていた。
一切の無駄を省略した魔法陣が、瞬く間も無く一筋の白い光線を構成し、空気を切り裂く。
数瞬遅れた爆風は、地表の全てを払うような堪え難い熱波と共に吹き抜けた。背後に
病棟から脱出した人々が恐れ慄き、神へ許しを乞うが如く頭を垂れる。
昴は、思い出す。
この力を知っている。この男を知っている。
人はただ、裁きの瞬間を待つことしか出来ないのだ。抗う余地など、存在すらしていない。
それは人知の及ばぬ神の御業。
掌より咲き出でる奇跡の花。
自然原理さえ捻じ曲げる、運命の如き神秘の結晶。
僕等はそれを、――魔法と呼んだ。
1.予定調和の檻
⑹魔法
昴が目を開けた時、あの化物は何処にも見当たらなかった。地表は無慈悲な更地へ変わり、僅かに炎が
青年は、昴、和輝、葵を
「お前等、何者?」
「それは俺の台詞なんだけど」
苛立ちと疲労感を滲ませて、葵が抗議した。
青年は、冷静そのもののような顔で答えた。
「俺の名は、ロキ」
「何者なんだ」
「昴の友達の、魔法使いかな」
「はあ?」
葵が小馬鹿にするように言った。同感だった。
この唯物主義の科学社会で魔法だなんて、到底信じられる筈もない。だが、青年――ロキが、嘘を吐いているようにも見えなかった。
「敵の敵は味方とは限らない」
葵が尖った声で言った。自然と昴の身体は強張った。彼が何者なのか分からない。だが、味方とは限らない。
警戒する葵に対して、ロキはけたけたと笑っていた。
「俺は昴の味方だよ。それに、お前等を殺すつもりなら、もうやってる」
葵は何かを言い
その時、和輝が宥めるようにその肩を叩いた。
「昴の味方なら、俺たちの味方だろ」
和輝が断言すると、ロキが口角を釣り上げた。
「俺が嘘を吐いているとは思わないのかい?」
「嘘なのか?」
「いや」
「それなら、信じるよ」
和輝は軽く笑った。葵が額を抑えて溜息を零す。
丁度、パトカーや消防車といった緊急車両が津波のように押し寄せて来た。和輝は車の群れを見遣り、ロキへ問い掛けた。
「君が昴の友達だと言うのなら、教えてくれよ。昴は何者なんだ?」
「それも知らずに、助けたのか」
「当たり前だ。俺は昴の担当医だぞ」
和輝が威張って言った。
なんだか、話がずれているような気がする。和輝の間の抜けた返答に、緊張は緩んでしまった。
葵が盛大に舌打ちして、和輝の首根っこを引っ掴んだ。そのまま強引に肩を貸して、到着した救急車へ向かって歩き出した。
引き摺られる和輝が何か抗議していたが、葵は無視を決め込んでいる。
和輝を救急車へ押し込み、葵は振り返った。
「お前等が何者なのか、敵なのか味方なのかは
じゃあな、と言い置いて、葵も救急車へ同乗した。
消防車が病棟を取り囲み、警察官が押し寄せる。ロキはぼんやりと救急車を見送ってから、可笑しそうに言った。
「おかしな奴等だ」
「……そうだね」
昴は笑った。
さて、と言い置いて、ロキは振り向いた。其処には置いてけぼりの昴がきょとんと目を丸めている。
「お前のこと、ずっと探してたんだぞ。正直、死んだんじゃないかと思っていた」
苛立ったように足を踏み鳴らし、ロキが距離を詰める。
その怒りが
ロキは笑っていた。
「生きていて良かったよ」
何の確証が無くても、ロキのその言葉は本心だと解った。
昴は彼が何者なのか知らない。だが、彼は命の恩人だ。
「助けてくれて、ありがとう」
「いいってことよ。お前に死なれたら、俺が困る」
「友達だから?」
「ああ、まあ、そうだな」
歯切れの悪く、ロキが答えた。
彼は自分のことを知っている。数々の精神科医が
昴は腹の底に力を込めて、問い掛けた。
「僕は何者なんだ?」
ロキは笑っている。
まるで、柳に風、
「僕には記憶が無い。親の顔も、何処で生まれ育ったのかも解らない」
「そうだろうな。だが、お前にその記憶は必要無い」
「どういう意味?」
「いずれ、分かるさ」
意味深な言葉を吐き捨てて、ロキは辺りへ目を向けた。
混乱と喧騒の中で、彼の周囲だけが水を打ったように静かだった。ロキは溜息を一つ吐いて、再び掌を広げた。其処に浮かぶ幾何学模様は薄く発光しているが、先程のような規模は無い。
「離脱するぞ」
そう言い捨てて、ロキは笑った。
次の瞬間、昴の周囲からは人々の混乱と喧騒も遠退いてしまっていた。
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