山月記少女

月の宮

山月記少女


 ケイは、世の中の人間には大分して二種類いると考えていた。それは、「尊敬すべき人間」と「軽蔑すべき人間」である。彼女は自分の周りにいる人間のほとんどが後者であると感じていた。教員も、生徒も、揃いもそろって馬鹿ばかり。ほんの少しの「尊敬すべき人間」は、だいたい遠いところにいた。つまり、クラスや学年が違ったり、その教員の授業はシステム上取れないものであったりしたのだった。

 高校生のケイにとって、一番大事なのはやはり自分のことだった。ケイは、自分は何か優れたものを持った特別な存在だと思っていた。自分は他よりも俯瞰した視点でものことが見れると考えていた。そこからは他の大多数に対しての愉悦が生まれる。もちろんケイはそれを自覚していた。とはいえ、内心で人を見下し嘲笑うのは彼女にとっては別に悪いことではなかった。それが自分の内側で完結したものであれば、だれに迷惑がかかるわけでもない。それどころか、みんな自分と同じことをしているのだ。自分だけそれをしてはいけないという道理はない。という理屈だ。



 ケイは、他のクラスメイトとは違い、群れることを嫌った。一度クラスメイトに誘われたとき、不愛想な態度をとったため、それ以来ケイに近づこうとするものはいなかった。容姿は人並みで、よい印象は持たれていなかったため、当然異性から関心を持たれることなどなかった。学校という世界は、彼女にとってはあまり気持ちのいい場所ではなかったが、家に引きこもるよりはマシであるために嫌々行っていた。クラスメイトからは相手にされず、教員とも、事務的な無機質な会話しか行わない。学校では常に一人だ。

 今も、クラスメイトが輪を囲んで昼食を食べている中、一人で窓側の席に座っている。退屈そうに、芯が折れた六角形の鉛筆を削っている。そんなケイを気にする人は一人だっていない。しかし、そのことにケイが何か引け目を感じるというようなことは全くなかった。むしろ、群れに入らない、有象無象の内の一(いち)にならない自分を誇ってさえいた。自分はそれ自体で一という特別であり、他と群れなければ自分を見出せないヤツらとは違うのだ。


――私は周りにいる馬鹿な人間とは付き合わない。学校という世界においては、友達という名の群れを作ることがある種のステータスなんだと思う。けど、私はそれに合わせることはしたい。好きでもない相手に愛想を振りまくなんてできない。私は他の有象無象とは違う、優れた視点を持って、物事を考えられる人間だ。そんな私が周りの馬鹿たちと話が合うわけがない。私はあんな低レベルのヤツらとは違い、既に別の次元で生きているのだから!


 この鉛筆を削るように、あの馬鹿たちも削り取れればいいのに、と思ったところで、昼休み終了のチャイムが鳴った。



 高校三年の夏、ケイは毎日を不愉快に過ごしていた。端的に言えば、受験勉強がうまくいっていなかったからだ。まだ夏とはいえ、毎日勉強しても手ごたえが感じられない。この前の模試だって、あまりよくはなかった。点こそ取れてはいるが、丸は少なく感じる。バツや三角の部分点の方が、全体的には多い気がする。そんな姿を見かねたのか、母は、講演会のチラシをケイに渡した。受験勉強についてのものだった。いつものケイならば、こんなものには見向きもしなかっただろう。ケイにとっては講演会なんて宗教じみた、くだらないものだからだ。しかし、今回は不愉快が続いていた。胡散臭い公演も、気分転換くらいにはなるはずだ。

 講演会を行うような奴なんて、大したことはないだろう。受験勉強に唯一の答えなどないのだ。受験生でなく、その人にとって都合の良いやり方を以下にも真理のように提示するのだろう。

 ケイは自分の心の内で、相手の主張に対する反証を考え出すのが大好きだった。それを口に出すことはないが、くだらない大人なんかの話を聞いているときは必ずその論理の穴を見つけ出し、自分の中で反論を作り、相手に向かって言い放つ姿を想像する。そして、相手が慌てふためき、顔を真っ赤にして黙り込む姿をイメージして、勝利の快感を得るのだ。



 ケイは、黒いパーカーを着て、公演に行くことにした。そのパーカーは、彼女の愛用品の一つだった。昔のものなので、サイズは合わず、長年着てきたため伸びてしまっている。しかし、このパーカーを着ると、何となく安心する。フードをかぶれば、無敵になった気さえする。

 講演会の会場まではそれなりに距離があり、電車に乗って会場に向かった。会場に向かう途中で、商店街を通り抜けた時は、まだ時間に余裕があり、だらけて会場に向かっていた。本音を言えば、やっぱりあまり行く気にはなれなかったからだ。とはいえ、来てしまったものは仕方ないので、会場に向かう。そうしていると、到着した時には開始時間を過ぎていた。講演会は、近くのホールで行われた。蒸し暑い外とは打って変わって、寒いくらいにエアコンが効いている。会場にはパイプ椅子が並んでいた。席がほとんど埋まっている中、何とか空きの席を見つけて座った。来る気はあまりなかったとはいえ、遅刻はよくない。さすがにだらけすぎたことをケイは反省した。時間厳守はケイのモットーなのだ。といっても、どうでもいい公演だったため、あまり気に病むことはなかった。


 周りを見渡すと、ほとんどが受験生、あるいはその母親に見えた。


――講演会を聞いたところで偏差値が上がるわけではないのに、馬鹿な人たちだなあ。いや、こんな講演会をするようなヤツがそもそも馬鹿なんだから、お似合いかもね。


 遅刻したとはいえ講演会は始まったばかりだった。スーツ姿に楕円形の眼鏡をかけた中年男が、マイクをもって話していた。「受験勉強術」なんて言って、ケイにとっては既知情報であることしか喋らない。はっきり言って退屈だった。また、周りを見渡してみて、ケイは驚いた。真面目に聞いている人、更にはメモを取るような奴までいたからだ。「復習することが大切」だの「生活リズムを整えよう」だの、こんな当たり前のこと、受験生じゃなくたって知ってることじゃないか。ケイにはもう公演を聞く気はなかった。とはいえ、ここで席を立つのは隣の人に悪いと感じたので、一休みしつつ、この講演者の主張に対する反論を考え始めた。しかし、それは講演者の一言で止められた。


「失敗するのは、だいたいプライドの高い人です。プライドが高いから、自己分析ができず、模試の結果が悪かったりするとすごく落ち込んで何もできなくなるか、結果を見て見ぬふりするんです。このタイプの人は後の就職活動の際にも苦労することが多い」

「!!!」


 その瞬間だった。ケイはその講演者と目が合った。間違いなく目が合ったのだった。ケイは絶句した。その目に言い表せない怖さがあったから。まるで、自分の心を見透かしているような……。いや、もしかして、この言葉は自分に向かってきたものなんじゃないのか!? その瞬間にゾッとした。その間にも公演は続いていったが、もはや耳には入らなかった。会場の寒さも、もはやエアコンのせいだけではなかった。しばらくの間、思考は止まり、真っ白になっていた。気を取り戻したときには、公演もすでに終わりに近づいていた。ケイは講演者に恐怖を感じた。自分を非難されているようで、恐ろしくて仕方がなかった。命でも狙われているかというくらい、彼の存在におびえていた。講演が終わるとすぐに、逃げるように会場を出た。少しでも、会場や、あの男と離れたくて、全速力で走った。ホール内を、路地を、川沿いを。走って、逃げて、自宅近くの河原で腰を下ろした。残りの飲料水を豪快に飲み干したとき、ケイは自分の目が潤んでいることに気が付いた。



――――私……、泣いてるの?


 涙は止まらなかった。目の前がぼやけ、ついにはしゃくりあげて泣いていた。どうしてこんなに泣いているのか、自分でもわからないまま。河原に吹く風は生暖かくて気持ち悪かった。深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせる。わけがわからなかった。一体どうして今こうなっているのか。ケイには全く経験のないことだった。頭を抱えながら家への道を歩く。すっかりオレンジに染まった空を見て、ケイはなんだか悲しくなった。夕焼けを見て感傷に浸るなんて、こんなのは自分じゃない。心の中で自嘲した。


 帰宅しても、モヤモヤとした感情に説明がつかず、ケイは不機嫌だった。いったい自分はどうなってしまったのか、不安だった。結局、夜食は食べず、自室にこもった。


――いったい、このどんよりとした気持ちはなんなんだろう……



 自室から月を眺めていた夜、ケイははっとした。自分の今までの無意識を意識した。全て、自分の中でつながっていった。点が線になっていくように、すべてわかった。


――私も、同じだったんだ……。私は、自分だけ特別な、人と違う視点を持っていると思っていた。だから、馬鹿なクラスメイトとは決して付き合わなかった。けど、違うんだ。自分も彼らと同じ馬鹿な人間だ。いや、むしろ、馬鹿なのは私だ。私が見下していた人たちは、全て私より優れた人間だったのではないのか? 

 そうだ。そうなんだ……! 一人で気取っていた私よりも、人と付き合い、話していた彼らの方がよほどまっとうな人間ではないのか!? そして、私は多くの人を見下しておきながら、自分が見下されるのを許せなかった。なんて卑怯なんだろう。あまりに卑怯だ。こんなの、全然筋が通っていない! そんな、都合のいい考え方で、私は今まで生きてきたのか? だとしたら、私はあまりにも幼稚じゃないか。私は子供だ。精神が未熟なまま、年だけ取ってしまった。肉体の成長に、精神が追い付いていないんだ。だから、こんな子供っぽい考えを、今まで私は通してきたんだ。そうだ。私は、怯えていた。自分より優れた人間に、「お前は劣等」だと見われるのが怖かった。それで、私は人を見下して来たのか……。もっとも、本当に私よりダメな奴がいることもわかっている。上には上がいるように、下には下がいる。しかし、この「見下し」が私を保つための防衛機制の表れだとしても、卑怯な論理であることに変わりはない。

 私があの男を恐れたのは、この心の動きを見透かされたと感じたからだ。そんな、卑怯で、醜い自分の本性が暴かれるのが怖かった。私の自尊心を暴かれることが。根底に劣等感を抱えているそれが歪な動きをするのは、ある種当然かもしれない。でも、やっぱり良くない。私のアイデンティティが劣等感や自分への自信の無さから始まっていたとしても、これは、どうにか対処すべきことだ。もう、今までのように自分に「見て見ぬふり」をしていいわけじゃない。

 私は、自分の正体に今やっと気が付いた。これは、私自身が深く考えなければいけないことだ。この心の動きをすぐにどうにかすることはできない。でも、今よりマシな自分になるためにはしなきゃいけない。今まで気づかなかった本当の私。これからは、自分のことを見直す必要があるみたいだ……。


 ケイは決意した。今すぐには無理でも、少しはマシな人になることを。そして、また月を見た。欠けた月、半月にも満たなかった。その月が今日はなんだか輝いて見えた。私も月のように、丸を目指すことができるだろうか。ケイは、不意に以前削った鉛筆を思い出した。あの時は、周りのヤツらを削れたらと思った。でも、本当に削れていたのは自分の謙虚さだった。いつかきっと、歪な自分もすこしは丸くなることができるんだろうか。そんなことを、考えて、ケイは寝床についた。




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