040:花言葉

 ふんわりと、花の香りがした。

 思い起こされるのは、それほど広くもないリビングでくだらないバラエティ番組を見ながら談笑する両親の姿。

 その場にいた俺は学校のテストでいい点を取ったことを報告して、父さんと母さんからえらく褒められていた。


 俺にとって、当たり前の日常。

 それが壊れてしまった日の夜。

 一人になってしまったリビングで、確か俺はあの日三人で見たバラエティ番組を見ていた気がする。

 恒例の企画で盛り上がる芸人やタレントたちの楽しげな声が聞こえてきて、「これは面白いものなんだ」と胸に刻んだのはよく覚えていた。

 でも本心ではどうしても面白いものには見えなくて、自分は何をしているのだろうと漠然とした疑問に襲われたことも覚えている。


 普段通りの生活を送り始めたのは、その翌日からだった。

 我ながら恩知らずというか、情がないというか。

 しかし今思えば、あれもただの現実逃避だったような気がする。


「変わったな、ハル」


 高校に入って、俺は雅也からそんな言葉をかけられた。

 自分自身にそういう自覚がなかった俺は、ただただ首を傾げている。


「なんつーかさ……いや、根っこの部分はまったく変わってねぇんだけど……」

「何だよ。はっきり言えって」

「……いや、やっぱりやめておくわ」


 雅也はそこで話を打ち切り、俺に次なる問いかけの時間を与えなかった。

 多分だけど、あいつは俺が心から笑っていなかったことを指摘したかったんだと思う。

 あの時はそんなことに気づきもしなかったけど、今の俺なら分かる。

 東条冬季という存在に出会って、俺は久しぶりに心から笑える時間を過ごしたから。


 だから、俺は決めたんだ。


 彼女が求めてくれる限り、俺は――――。


「……春幸君?」


 名前を呼ばれ、俺の意識は浮上した。

 かすむ視界に映るのは、白い天井。

 眩しさに目を細めながら左右へ視線を動かせば、腕に繋がった点滴や、仕切られたカーテンが見える。

 ボーっとした頭でも、ここが病院の病室だと理解できた。


 そして、俺の横たわったベットの近くに座るのは――――。


「冬季……」

「よかった、目を覚ましたんですね」


 彼女はホッとした様子で、俺の顔を覗き込む。

 その目尻には涙が滲み始めており、今にも泣きだしてしまいそうだった。


「俺は……」


 体を起こそうとした瞬間、引き攣るような痛みを頭部に感じ、おもむろに触れる。

 どうやら俺の頭には包帯が巻かれているようだ。

 そして俺の右手も、包帯に包まれている。

 そうだ、俺は門倉と――――。


「廃ビルでのことは、覚えていますか?」

「ああ、大丈夫。頭が冴えてきた」

「……よかった。右手はヒビが入っていて、全治一か月程度とのことです。頭の方も特に問題なく、出血は多少派手だったものの表面上の怪我で済んだみたいで……気絶してしまったのは、精神的な物が大きかったようですね」


 冬季曰く、極度の緊張状態から解放されたことによって、限界を越えていた精神が休息を求めた可能性が高いとのこと。

 あの時は必死過ぎて気づく余裕すらなかったけど、間違いなく命の危機に瀕していたし、安心感から気絶というのは何となく納得できる。


「すみません、本当は春幸君が門倉と接触した瞬間に突入できるのが理想だったのですが、道中で彼に雇われていた、いわゆる半グレと呼ばれる人たちに邪魔されてしまって……」

「……気にしないでくれ。むしろあそこで助けに入ってもらえただけ恵まれてるよ」


 本当にギリギリだった。

 自分の頭の上でバットを振り上げられるあの光景を思い出すと、今でも背中に汗が滲む。

 この程度の怪我で済んだのはもはや奇跡でしかない。


「結局、俺はどれだけ寝てたんだ?」

「一晩ですね。今は午前十一時です」

「結構寝てたってことか……八雲は?」

「無事ですよ。縛られた部分が少し痕になっていましたが、残るものではないそうです。多少メンタルケアが必要かと思い手配しようとしたのですが、本人に断られました」


 冬季は呆れた様子でそう語ったものの、やはりどこか安心している様子があった。

 今後何かしらの弊害が現れる可能性は否定しきれないため、しばらくはやはり注意が必要なものの、ひとまず今は元気ということらしい。

 

「一応春幸君も明日まで入院することになっているので、色々着替えとか持ってきましたよ。学校にも休むことは伝えてますので……まあ、私はただのおサボりですけど」

「ありがとう、冬季。何から何まで助かるよ」

「――――いえ」


 途端、冬季の表情に影が差す。

 俺が理由を問おうと改めて体を起こした時、彼女は座ったままではあるものの、俺に対して頭を下げてきた。


「すみません、春幸君。私のせいで、あなたにいらない怪我を負わせてしまいました」

「別に冬季のせいってわけじゃ……」

「いえ、私の責任です。私のせいで、あなたが危険な目に遭ったんです」

「……っ」


 俺は言葉を返せなかった。

 多分、俺が冬季の立場でも同じように誤っていただろう。

 彼女の気持ちが分かってしまう以上、俺にそれを否定する資格はない。


「……じゃあ、それで冬季はどうしたいんだ?」

「……」


 俺にできることは、冬季の言葉を最後まで聞くことだ。

 彼女は唇を噛み締めた後、息を吸って、震える声を絞り出す。


「は、春幸君は……私と一緒にいない方が……いいのではないかと、思いまして」


 顔を伏せてしまったせいで、彼女の表情は見えない。

 だけどその震え方は、たった今吐いた言葉が軽口で言っているものではないことを表していた。


(……あ)


 ふと、俺は視線を横に逸らす。

 そこには花瓶に入った花があった。

 

(そうだ、この香りだ)


 この香りは知っている。

 俺の両親が好きだった、綺麗な白い花――――。


『このお花には、"幸せの再来"って意味があるのよ』


 母さんが教えてくれた、その花言葉。

 幼いながらに、俺はそれが好きだった。


「……この花は、冬季が持ってきてくれたのか?」

「え? は、はい。これの花言葉が好きで……ヨーロッパの方ではお見舞いとして用意する方も多いですし」

「そっか」


 この花――――"鈴蘭"を実際に見たのは、果たしていつぶりだろうか。

 家族と死に別れて以来、無意識に視界に入れないようにしていた気がする。

 見てしまえば、あの孤独を思い出してしまうような気がしていた。


 だけど、実際にこの目で見てみれば案外そんなことはなくて。

 改めて俺は両親離れすることができたんだと確信した。


 新たな幸せを、ここにいる彼女が持ってきてくれたから――――。


「冬季……俺は、君が好きだ」


 俺は、いつの間にか抱いていた心の底からの想いを、冬季へと伝えた。

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