038:凡人の抵抗

 もう今しかない――――。


 俺は素早く制服のポケットに手を伸ばし、スマホを取り出した。

 画面はすでに日野さんを呼び出すためのアプリへと変わっている。

 階段を上っている途中、ある程度手が揺れるのを利用して無理やりこの画面に切り替えておいた。

 これを押すことさえできれば、日野さんが助けに来てくれる。


「無駄だよ」


 門倉の声が聞こえた瞬間、右手に強い衝撃が走った。

 画面が砕け、宙を舞う俺のスマホ。

 直後に襲ってきた手の甲の激痛。

 その痛みは俺がこれまでで経験してきたものの中でも上位に位置するレベルで、俺は思わずその場に蹲ってしまう。


「ぐっ……あ……」


 叫び声すら上げられない。

 ただただ苦悶の声を漏らす俺を、門倉は嘲笑っていた。


「あははははは! 折れてはなくてもヒビぐらいは入ったかな? 滑稽だねぇ! ボディーガードを呼び出すためのアプリのことは、僕もよーく知っているよ。なんせ開発時には僕も関わっていたんだからね。そしてこの前君に接触した時、無意識なのかどうかは知らないけど、君が自分の右ポケットに手を伸ばしていたことはちゃんとこの頭で記憶していた。そこまで情報が集まれば、馬鹿でもスマホは警戒するよ」


 門倉は弾き飛ばしたスマホに近づき、バットで丹念に破壊していく。

 あれはもう使い物にならないだろう。

 そして俺も、この激痛が続く限りは動けそうにない。


「さて、無抵抗のままでいてくれるなら多少は慈悲の心を持ってあげようと思っていたけど、それもなしだ。殺すようなことはしないけど、後遺症が残る程度には痛めつけてあげるからね」

「はぁ……はぁ……ははっ」

「……何かおかしなことでもあったかな?」

「いや、別に――――」


 俺は笑う。

 痛みで気がおかしくなっていたのかもしれない。

 まさか、自分の思い通り・・・・になったことがこんなにも面白いだなんて。


「――――やっぱり、あんたは特別なんかじゃないよ」

「え……?」


 俺は、左手に持っていた・・・・・・・・スマホの画面を見せつける。

 すでにアプリにて日野さんへの通知を飛ばした後の画面を見て、門倉は言葉を失ったようだ。


 俺だって覚えてた。

 自分が奴と初めて会った時、スマホに手を伸ばしてしまったことくらい。

 俺が唯一恐れていたことは、ここに入ってくる前に持ち物検査をされること。

 もしビルの前で待っていた男たちが俺の持ち物を漁れば、この無理を言って用意してもらった最新のスマホの存在がバレてしまう。

 だけど俺を侮っていた門倉はそれを怠った。

 通信端末はビデオ通話に使っていた一つだけだと思い込み、もう一つの存在を考えてすらいなかった。

 もちろん俺が武器などを持っていることを考えなかったとは思えないけど、持ってても無力ができると考えていたんだろう。

 その考えは間違っていない。

 ナイフを持っていたとしても、俺は門倉には勝てないと思う。

 だからこそ、俺は冬季がくれたこのアプリを使うしかなかった。

 きっともっと賢いやり方はあったはず。

 移動中にリスク承知でアプリを押すことができていれば、もっとスマートな解決が待っていたかもしれない。

 だけどすべては今更だ。

 これが俺にできる限界。


「お前……!」


 貧乏人はスマホを二つ持つはずがないって思ったのだろうか?

 それとも、俺がもう一つスマホを強請るなんて真似すると思わなかったか? 

 残念ながら、俺もそれなりに図々しい人間だったらしい。


「諦めろ、門倉康介……! もうすぐ日野さんが来てくれる」

「……何を勝ち誇った顔をしてるんだよ。あの女が来るまでだってまだ時間があるんだぞ? それまで自分が無事でいられると思っているのか?」


 ああ、それは思っていない。

 ここから俺にできることは、八雲を庇いながら時間を稼ぐこと。

 つまるところ、どれだけ殴られても意識を手放さないようにすることだけだ。


「勘違いしているのかもしれないけど、僕にはまだ人質がいるんだ。この女の顔面をぐちゃぐちゃにされたくなければ、大人しく縛られ――――」

「先輩っ!」

「なッ⁉」


 突然椅子から立ち上がった八雲は、目の前にいた門倉を突き飛ばす。

 奴が反応できなかったのも無理はない。

 八雲はちゃんと縄で硬く縛られていたし、動けるわけがなかった。

 それが何故動けるようになっているのかと言えば、答えはそう難しいことじゃない。

 頭を殴られ倒れたあの時、俺は散らばったガラス片の一部を手に隠し持った。

 そして八雲の猿ぐつわを解く際、後ろ手にそれを渡しておいたのである。

 これで俺の策は出切ってしまった。

 後はもうひたすら時間を稼ぐだけだ。


「八雲……っ!」

「あっ!」


 今だけは痛いだなんて言ってられない。

 俺はスマホを手放し、空いた方の手で八雲の手を引く。

 目指すは出入口。

 八雲の不意打ちが決まった今、こんなチャンスは二度とない。

 

 逃げられる――――そんな淡い期待を抱き、俺は出入口に向かって全力で駆け出した。


「ふざけるな! 凡人共が!」

「がっ……」


 突然走った、背中への衝撃。

 悶絶すると共に転んでしまった俺の隣で、八雲が叫ぶ声が聞こえる。

 倒れた俺の視線の先に転がってきたのは、さっきまで門倉が使っていたバットだった。

 おそらくあれが俺の背中に投げつけられたのだろう。


「八雲……! 先に行け!」

「でもっ」

「早く!」


 八雲は悲痛な顔を浮かべている。

 すでに俺は手を離してしまっているため、彼女は一人で出て行けるはず。

 しかし彼女は動いてくれない。

 まあ、無理もないだろう。俺が八雲の立場なら、簡単に切り替えることはできないはずだ。


 ならば――――。


 俺は転がってきたバットに手を伸ばす。

 武器さえあれば、まだしばらくは時間が稼げるかもしれない。

 そう考えた末の俺の行動は、バットに触れる直前の手を門倉に踏みつけられたことによって、水泡に帰す。


「いっ……!」

「一瞬だけ君を見直したよ。よくぞ僕を出し抜いた。まあ、一番の要因は僕の油断だろうけどね。でも、そこを上手く突いたのだけは褒めてあげるよ。さすがは僕の次に彼女に選ばれた人間だ」


 奴が足を動かせば、踏みつけられた手に激痛が走る。

 俺はあまりにも馬鹿だ。

 とっさに負傷した方の手を伸ばしてしまったせいで、痛みが数倍になっている。

 脂汗が一気に噴き出し、痛みのあまり吐き気がこみ上げてきた。


「せんぱ――――」

「君は後だ」

「あっ⁉」


 門倉に突き飛ばされ、八雲が尻もちをついた。

 とっさに彼女を庇おうとするが、奴がさらに強く手を踏みつけてきたせいで動けなくなる。


「これ以上抵抗されないように、君にはもう眠っててもらおうと思う。もしかすると殺してしまうかもしれないけど、それはもう割り切ることにした。最悪あの番犬も始末して、後釜に収まれるよう交渉することにするよ」

「っ……!」


 門倉がバットを振り上げる。

 狙われているのは、俺の頭だ。

 

「それじゃあ、さよならだ」


 バットが振り下ろされる。

 俺は来たるべき痛みに耐えるため、思わず目を閉じた。

 数秒、数十秒に感じられるような時間。

 しかし、それを過ぎても来たるべき痛みはいつまで経っても襲ってこなかった。


「な、何で……」


 困惑した門倉の声。

 恐る恐る俺は目を開く。

 見上げた視線の先、そこには振り下ろされたバットを片手で受け止めた、女性の姿があった。


「ひ……日野さん」

「遅くなってしまい申し訳ございません、稲森様。後はお任せを」


 どうして日野さんがここにいるのだろう。

 アプリで彼女に通知を送ってから、まだ二分も経っていない。

 彼女が間に合う道理など、一つもないはずだ。


「――――甘いですね、春幸君。あなたのことを心底愛する私は、そう簡単には巻けませんよ」

「あ……」


 出入口の方から、悠然とした態度で彼女が現れる。

 東条冬季。

 彼女は普段の優しい視線をどこかへ追いやり、鋭く射抜くような視線を門倉へと向けていた。


「お久しぶりですね、門倉」

「ふ、冬季様……!」


 この状況、少なくとも俺に分かることは、これで俺と八雲は助かったということだけだった。

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