034:名前という特別
「ごめんなさい、春幸君」
「え、急にどうしたんだ?」
日野さんが車を止めてくれている場所まで移動している最中、東条さんからの突然の謝罪に俺はただただ困惑した。
「少々……汚いところを見せてしまったと思いまして」
汚いところ。
その言葉が差す事柄が何か、この一瞬では理解することができなかった。
彼女は苦笑いを浮かべながら、続く言葉を吐く。
「本来は、あんな風に絡まれた時でも冷静に対応すべきだと思うんです。相手を逆撫でするようなことはせず、
「……」
「ダメですね、本当に。熱くなるどころか、言葉で叩きのめすことに喜びすら覚えてしまったんです。浅はかというか何というか……幻滅したでしょう?」
東条さんは、先ほどの足立とのやり取りを後悔しているようだった。
苦笑いすらも徐々に消えていき、残ったのは落ち込んだ様子の顔だけ。
胸がチクリと痛む。
どうやら俺は、彼女が落ち込んでいるところを見たくないらしい。
「……大人の対応ができなかったことは、恥ずべきことじゃないと思うんだ」
「え?」
「言い訳かもしれないけれど、俺たちはまだ子供で、世間からもそう扱われてるだろ? だから今はそういう対応ができなかったところで、貶されるいわれはないと……思う」
我ながら言い訳になり過ぎて、途中で恥ずかしくなってきた。
だけど別に思いっきり間違えたことを言っているわけではないと思う。
大人になってから自分を変えるというのは、中々に難しい。
試行錯誤できるのも、子供である今の内だ。
――――とまあ、東条さんを庇ってみせたけど、結局のところは幻滅したとかそういう話ではなく、純粋に彼女が俺のために苛立ってくれたことが嬉しいと感じてしまっただけだったりもする。
鋼のような外面を持っていた東条さんが、俺のためにその一部を脱いでくれた。
自分が増々彼女の"特別"になったような気がして、それが嬉しい。
多分だけど、認めたくないけれど、俺もどこか
俺のような目立った価値もない男に執心してしまった、"彼女"と同じように。
「……もしかして、春幸君はドMさんなんでしょうか?」
――――どうしてそうなった?
「ああ、いえ。もしかして強気な私に対して興奮してくださったのかな……と」
「お、俺にそんな趣味はないぞ?」
「じゃあドSさんですか? 安心してください、春幸君。私はどちらでも完璧にこなしてみせますから」
「いや、待ってくれ……!」
何かあらぬ誤解をされていると思い込んだ俺は、とっさに否定の言葉を探す。
しかし東条さんがニコニコしているのを見て、考えを改めた。
「……またからかわれたのか、俺」
「ふふっ、すみません。ちょっと照れ隠しがしたくて」
「照れ隠し?」
「春幸君に醜い私を受け入れてもらえたことが、どうしようもなく嬉しかったんです。安心したんです。そのせいで顔がドロドロに溶けてしまいそうになったんですけど、それを東条冬季としてのプライドで抑え込みました」
彼女はどことなく俺と視線を合わせないようにしながら、胸を張りながらそう語った。
そのチグハグさに、自然と笑みがこぼれてしまう。
「ははっ、やっぱり
「……む」
「と、
突然東条さんの表情が曇る。
何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか?
もしかすると、女の子に"かっこいい"はあまり嬉しい言葉じゃなかったのかもしれない。
やはり俺も照れずに可愛いと言うべきだったか――――。
「……名前で呼んでくださらないんですか?」
「え?」
「名前ですよ。さっき……"冬季"って呼んでくれたじゃないですか」
「あ……」
東条さんは唇を尖らせ、不満げにそう告げた。
不満げで、不安げだった。
これは間違いなく俺が悪い。
「すごく、嬉しかったのに」
「そ、その……それにはちょっと事情があって」
「事情ですか?」
「やっぱり異性を名前で呼ぶって何だか特別なことに感じて……あの時はそういう流れがあったから言えたけど、こう、改めてそう呼ぶって考えると、俺もその――――」
照れてしまって――――。
そう告げた瞬間、顔に熱が上がってくるのを感じた。
それだけ俺にとって名前というのは特別で、大事な物。
ただ呼ぶだけだとしても、物心ついてから異性を名前で呼ばなくなった俺にはハードルが高いのだ。
だけど、それでも。
「東条さ……冬季がこれからもそう呼んでいいって言ってくれるなら、俺も……そう呼んでいきたいって、思う」
ああ、恥ずかしい。彼女の方を見られない。
顔を逸らすだけに止まらず、俺は思わず目を手で隠してしまう。
そんな俺の片方の手を、横から彼女が絡め取った。
「私は、春幸君に名前を呼んでほしいです。他の誰でもない、春幸君だからこそ呼んでほしいのです。だから堂々としていていいんです。ちゃんと顔を合わせて、また呼んでくれませんか?」
「うっ……それは」
「駄目、ですか?」
チラリと横目で彼女の顔を確認すれば、そこには有無を言わせない目があった。
これはきっと呼ぶまで逃がしてくれないだろうな。
なら、呼ぶしかない――――よな。
「……冬季」
「はい、春幸君」
「冬季……」
「何でしょうか、春幸君っ」
彼女、冬季は、俺と腕を組みながら潤んだ瞳を向けてくる。
さっきよりも頬が熱い。
だけど、嫌じゃない。
「今日の夕飯は何にしましょうか? オムライスは……前に作りましたっけ」
「いや、オムライスがいいな。好物なんだ」
「春幸君は卵料理が大好きなんですね。ま、知ってましたけど」
「子供っぽいかな?」
「いいえ? 私も卵大好きですし。でもそれが春幸君の好物なんだとしたら、可愛らしいとは思います」
他愛ない二人での会話が、とにかく楽しい。
小さな幸せが積み木のように積み上がっていくのが、嬉しくてたまらない。
だからこそ、俺は冬季に言っていないことがあった。
俺が彼女の名前を呼ぶことに抵抗があったのは、もちろん照れていたというのも本音であるが、別の要因が存在する。
俺にとって名前で呼ぶことは、相手と特別な関係を築いた証のようなもの。
親友、恋人――――家族。
知り合いや友達といった言葉以外の関係ができた時、俺はその相手を名前で呼ぶ。
察しのいい人間であれば、もう俺が何を言いたいのか分かっていることだろう。
呼び方の問題は、俺の中の明確な基準。
俺は、恐ろしいんだ。
特別だと思っている人を失うことが、たまらなく恐ろしい。
守ると決めた。
それは嘘偽りのない俺の決意だし、当然全力を尽くす。
だからこの感情は、そんな俺の決意の裏側にいる臆病者の俺が持っているもの。
この感情を否定することはできない。
紛れもなく俺の感情だから、否定なんてできるはずがないんだ。
今日、冬季は俺の明確な"特別"になった。
思ってもない言い方になるが、
彼女を失えば、また俺は――――。
(……よそう)
悪い方向に物事を考えてしまうのは、ずっと直したいと思っている俺の癖。
こんなのは冬季にも失礼だ。
何もかも、すべて守りきればいいだけの話である。
そのためにも。
(どうか、見守っていてくれ……父さん、母さん)
誰もいないはずの空を見上げ、空いている方の拳を握りしめる。
近いうちに必ず、彼女のストーカーである門倉とは対峙する日が来る。
確信に近い予感。
だからこそ俺は冬季から目を離さない。
――――しかし、この決意は予期せぬ形で打ち崩されることになる。
俺はもっと警戒しなければならなかった。
俺が見ていなければならなかったのは、彼女だけではなかったのだ。
すべてが解決した後の、今の俺なら分かる。
俺という人間は、もっと賢くなる必要があると。
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