032:宣戦布告

 同じバイト先兼学校の後輩である、八雲世良。

 彼女は上級生の教室だろうがおかまいなしにズカズカと踏み込んでくる。

 そして俺の前まで歩を進めると、鬼のような形相で目の前の机を叩いた。


「な、何をそんなに怒ってるんだよ……」

「怒りますよ! だってこの前先輩彼女なんて作ってる余裕ないって言ってたじゃないですか! だからあたしだってゆっくり手順を踏んで攻めようと思ってたのに……!」


 何の話をされているのか分からない。

 確かにそう答えた記憶はあるものの、怒られるような要素はあるのだろうか?

 騙していると言われれば確かにそうなのかもしれないが、ううむ。


「……なあ、八雲」

「何ですか⁉ 西野先輩!」

「お前、本当にハルのことが好きなんだな」


 突拍子もない雅也の言葉を受けて、俺は思わず吹き出してしまう。

 八雲が俺のことを好き? 

 嫌われているとは思っていなかったが、ただ普通に慕ってくれているとばかり思っていた。

 そもそも彼女は東条さんほどの"知名度"自体はないものの、顔立ちはかなり整っているし、モテることは噂程度だが聞いている。

 明るいし、いつも前向きだし、失敗しても落ち込むだけでは終わらない。

 八雲が俺を慕ってくれているように、俺だって彼女のことを尊敬しているのだ。

 しかしまあ、それが恋心かと言われると否定せざるを得ないんだけど。


「そ――――そうですけど⁉ それが何か⁉ 何か悪いんですか⁉」

「い、いや、別に悪いとは言ってねぇだろ?」

「コンビニのバイトで出会ってから、頼り甲斐のある稲森先輩にこっちはゾッコンですよ! デートしたり、お泊りしたり……色々と夢に見てましたよ!」


 鬼気迫る表情とは、まさしくこのことを言うのだろう。

 すでにだいぶ注目を集めてしまっていることすら気にしていない様子で、八雲は俺との距離を強引に一歩詰めてきた。


「先輩に余裕ができるまで待とうと思って、それまでは強引に攻めないようにしてたのに……! これじゃ待ってたあたしが馬鹿みたいじゃないですか……」

「八雲……」


 八雲に対して言っていた、余裕がないという言葉は決して嘘じゃない。

 東条さんと八雲の大きな差。

 それは、余裕に対しての考え方だ。

 俺に余裕ができるまで待った者と、俺に余裕を作った者・・・・

 きっと社会人になって、俺がきちんと就職していれば八雲に向き合うこともできていただろう。

 しかし東条さんは、俺の環境自体を大きく変えてしまった。

 もちろん八雲には俺の詳しい事情を話していないし、その辺りにおいてすでに差はあったかもしれない。

 しかし例え知っていたとしても、間違いなく普通の人間にできることではなかった。

 他人事のような言い方になってしまうが、東条さんがいる限り、稲森春幸という男が八雲世良を恋愛対象として好きになることはないと思われる。


「――――めない」

「え?」

「あたし……認めませんから」


 これまで涙の滲んでいた八雲の目に、光というか、炎が宿ったような気がした。

 目元を強く拭った彼女は、まるで俺に挑戦するかのように指を突き付けてくる。


「先輩に恋人がいようが関係ありません! 絶対あたしの方に振り返らせますから!」


 その勢いに押されてしまった俺は、思わず言葉を失ってしまう。

 何と言葉を返していいか分からない。

 心が乱されていると言うよりも、そもそもフリーズしてしまったというか。


「――――何が関係ないのですか?」


 その時、鈴の鳴るような綺麗な音ながら、何故か腹に響くようなドスの効いた声が聞こえてきた。

 八雲も、雅也も、そして俺も、三人とも冷や汗を浮かべながら振り返る。

 そこにいたのは、可愛らしい笑顔を浮かべた東条さんだ。

 可愛らしい。確かに可愛らしいはずなのに。

 何故か背中に般若のビジョンが見え隠れしていて、俺の肝をさらに冷えさせる。


「東条……先輩」

「あなたは春幸君の後輩の八雲さん、でしたよね? いつもうちの・・・春幸君がお世話になってます」

「っ!」


 女心に疎い俺でもさすがに分かる。

 東条さんは、明らかに八雲に対して喧嘩を売っていた。

 

「個人的にあなたとはお話してみたいと思っていたんです。バイト中の春幸君はどんな様子なんだろう、とか」

「くっ……あたしだって下の名前で呼びたいのに……」

「まあ、そこは彼女の特権ですね。春幸君だって私のこと下の名前で呼んでくださっていますし。――――ね?」


 すごい圧だ。

 この場で俺にできることは、東条さんの話に乗っかることだけ。

 俺と彼女はまだ明確にはお付き合いしているわけではないけれど、この場においてはそういう風に振る舞っておくことが吉だろう。


「あ、ああ。俺が下の名前で呼ぶ相手は、ふ……冬季だけだ」

「~~~~っ!」


 東条さんは自分の両腕を抱きしめるようにして悶えた後、緩み切った表情を浮かべて俺の腕に抱き着いた。

 しかしそんな彼女を、八雲が無理やり引き剥がす。


「あたし、認めてませんから!」

「……私たちの交際を、ですか?」

「そうです! これまで一度も稲森先輩の口から東条先輩の話は出ませんでした! こんな急に付き合うことになるなんて、絶対何か裏があります!」

「……っ」


 八雲の言っていることは、ぶっちゃけ半分くらい合っている。

 東条さんが俺に向けてくれている気持ちは本物だし、俺も彼女に対して好意は持っているけれど、一応まだ交際はしていない。

 明らかに八雲自身はやけくそ気味に叫んではいるものの、正直痛いところを突かれた。


 対する東条さんの表情は変わらない。

 ただ、一緒に暮らし始めて分かったことがある。

 相手に心を許していない時の彼女は、自分の動揺を悟らせまいと表情を取り繕うのだ。

 だから今の東条さんは、きっと八雲を言い負かすために脳を回転させているはず。

 残念ながら、嘘をつくことが苦手な俺では役に立てそうにない。

 今まで俺の嘘が他人にバレなかったことなど、一度もないのだから。


「……あなたのその態度は、私への挑戦と受け取ってもよろしいのでしょうか?」

「っ! はい、あたしがあなたの下から稲森先輩を解放してみせます……! 絶対に!」


 東条さんの圧に一瞬押された八雲は、ほんのわずかに怯えた表情を見せた。

 しかしそんな恐怖をすべて振り払い、彼女は東条さんに対して堂々と距離を詰める。


「これにて宣戦布告とさせていただきます! では!」


 そう言い切った八雲は、そのまま教室を出て行った。

 残された俺たち――――特に俺と雅也は、その背中をポカーンとした顔で見送る。


「春幸君」


 同じく彼女の背中を見送った東条さんが俺に話しかけてきたことで、俺の意識は現実へと引き戻された。


「な、何でしょう?」

「あの子、あんまり話を聞かないタイプですね」

「……ああ、その認識で合っていると思う」


 まあどちらかと言えば思い込みが激しいというか、いや、似たような物か。

 そういうところが可愛くもあるのだが、今回ばかりはそれが悪い方向に作用してしまっている。

 俺たちはともかく、彼女が今回の件に何か巻き込まれるようなことがなければいいのだが――――。

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