028:正体

「お騒がせしてしまい申し訳ありませんでした……」

「いや……俺もなんか変なタイミングで褒めてごめん」

「い、いえいえ! 私に心の準備ができていなかっただけですから! むしろいつでも歓迎と言いますか、もっと言って欲しいと言いますか……」


 二人して向かい合い、目も合わせられないままアワアワする。

 それだけの時間が何だか面白くて、次第に俺たちは揃って笑いが堪えきれなくなってしまった。


「ふふっ、こうして春幸君とお話しているのはとても楽しいんですけど……このままじゃご飯が冷めてしまいますし、そろそろ夕食にしましょう」

「ああ、さっきから良い匂いがしてるし、今日も楽しみだよ」

「……あ、あの、春幸君? 今日はどうしたのですか? そんな私が喜ぶようなことばっかり言って」


 別にいつも通り――――と言いたいところだったけれど、正直自分がいつもよりも素直になっていることは自覚していた。

 おそらく俺が東条さんへの気持ちを自覚したからだろう。

 はっきりと考えたことはなかったけれど、一か月のお試し期間をもらったり、バイトを辞めなかったりしたのは、その時の俺が彼女の求婚をほぼほぼ断るつもりだったからかもしれない。

 だけど今そうした後ろ向きの考えが消え始め、東条さんと過ごす時間が幸せだと感じ始めたからこそ、俺はようやく前向きにしがらみなく接することができるようになった気がする。

 そう思えるようになった一番の理由は、やはり東条さんが俺の居場所になってくれたからだ。

 彼女と触れ合うことで、止まっていた時間が動き出していたというか、感情豊かになれたというか――――考えれば考えるほどに恥ずかしいけれど、俺にとってそれはもっともはっきりとした事実だった。


「その、俺は……東条さんのことが――――」


 何かを口走ろうとしていた俺は、玄関の扉が開いたことでハッとする。

 廊下を歩く足音と共に飛び込んできたのは、いつも以上に真剣な表情を浮かべた日野さんだった。


「朝陽? どうしたのですか? すでに勤務時間は過ぎているはずですが……」

「お取込み中に申し訳ありません。勤務終了間際に不信な電波を検出しまして、しばし調べるための時間をいただきたいのですが」

「不審な電波、ですか。ええ、お願いします」

「お任せください。では、失礼して……」


 そう告げた日野さんは、突然俺の方へ手を伸ばす。

 ギョッとする俺をよそに、彼女は何故か俺の体をまさぐり始めた。


「ハッ⁉ あ、その……!」

「朝陽⁉ 春幸君の体にそんなべたべた触るだなんて……! 私だってまだ正面からお触りするには勇気がいるというのに!」


 顔を赤くして慌てふためく俺とは正反対に、日野さんの顔は恐ろしく思ってしまうほどに険しい。

 それを見た途端に俺の中から羞恥は消え、いつの間にかただ黙って彼女に身を委ねていた。


「……これは」


 日野さんは、何故か俺のポケットから愛用しているハンカチを取り出した。


「あの、それは俺が普段から使ってる物です」

「それは存じ上げております。ただ――――」


 鼻を近づけ、何故か日野さんはハンカチの匂いを嗅ぐ。

 そしてキュッと眉間に皺を寄せると、俺の手にハンカチを戻した。


「わずかなバニラの香り……おそらくタバコですね」

「ま、待ってください! 俺はタバコなんて吸ってませんよ⁉」

「それも存じ上げております。このハンカチ、どこかで他の方に貸すようなことはありましたか?」

「あ、ああ……それなら今日一回喫茶店で落として、それを他の客に拾ってもらいましたけど」

「その方の特徴を教えてください」

「えっと、眼鏡をかけていて、比較的童顔で……その、あまり印象に残らない人でした。掴みどころがないというか、すでにちょっと記憶が薄れ始めていて正確に伝えることができないんですけど」

「……分かりました、十分です」


 日野さんは、ハンカチが入っていた俺のポケットに今一度手を入れると、そこからボールペンのキャップ程度の大きさの黒い何かを取り出した。

 まったくもって覚えのない物が自身のポケットから出てきたことで、俺は動揺を隠せなくなる。


「最新の小型盗聴器ですね。バッテリーは長持ちしませんが、インターネットにWi-Fiで繋がっている状態であればこの大きさでも精度のいい音声を大本の機器に届けることができます」


 そう告げると同時、日野さんは懐から取り出したガチャガチャのカプセルに近いケースのようなものを取り出し、小型盗聴器と呼んだその物体を収納してしまった。


「これはWi-Fiや通常の電波を通さないよう作られている金属製のカプセルです。この中に入れている限りは、我々の声を盗み聞きされる心配はありません」

「どうして……そんな物が……俺、なんの心当たりも――――」


 盗聴器なんて危険な物を、俺が持ち込んでしまった。

 もし日野さんが気づいていなければ、俺は東条さんと話す過程で何か重要なことを漏らしてしまっていた可能性だってある。

 俺が混乱していることを察してか、それまで黙って事態を見守っていた東条さんが、俺を安心させるためにそっと手を握ってきた。


「大丈夫です、春幸君。あなたにはなんの責任もありません」

「だ、だけど」

「すでに、犯人は分かっていますから」


 東条さんの声が、普段の様子からは想像もできないほどに低く、冷たくなる。


「冬季様……掴みどころのない童顔に、バニラ風味のタバコの香り。間違いなくあの男です」

「ええ、ついに接触してきましたね。私ではなく、春幸君に目を付けたのは予想外でしたが」


 二人が何を話しているのか、まったく分からない。

 東条さんはスマホを取り出し、写真のフォルダを開く。

 そして一人の男性が映った写真を選び、画面を俺へと向けた。


「春幸君に接触してきた人とは、この男のことではないですか?」


 画面に映っていたのは、スーツ姿の眼鏡に童顔の男。

 髪型がきちんとセットされていたり、屈託のない笑顔を浮かべていたりと印象はまったく違うものの、喫茶店でハンカチを拾ってくれた男に間違いなかった。


「ああ、この人だ」

「やはりそうですか。おそらくですが、春幸君にハンカチを返すタイミングで、同じポケットに盗聴器を仕込んだのでしょう。あの男ならそれくらいは造作もないですし」

「この男は……一体誰なんだ?」

「……できることなら、春幸君には伝えないまま解決したかったのですが」


 申し訳なさそうに顔を伏せた東条さんは、俺の手を握る力を少しだけ強くした。

 俺はあえて反応せず、黙って先を促す。


「――――彼は、私のお父様の会社の優秀な社員でした」

「え……?」

門倉康介かどくらこうすけ。私のお父様の元秘書であり、そして……」


 東条さんは一度声を詰まらせた後、かろうじてそのまま言葉を続ける。


「朝陽が入社する前、私の秘書を担当していた男です」

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