027:エプロン姿

「ふぅ……」


 トイレを済ませて手を洗った俺は、一息ついて目の前の鏡を見る。

 照明がずいぶんと明るいためか、雅也の言う通り顔色がよく見えた。

 血の気がちゃんと通っているというか、生命力を感じる。

 ともあれ、健康になり始めていると見て間違いなさそうだ。


「ん、あれ?」


 ハンカチで手を拭こうと制服のポケットを探ってみると、どこにもそれがないことに気づく。

 今朝家を出る時には確認したはずなんだけど、どこかで落としてしまったのだろうか?

 まあ、幸いここのトイレにはジェットタオルがあるし、制服のズボンで拭ってしまうようなことは避けられる。

 そう思って洗面台を離れようとした、その時――――。


「――――あの、これ。あなたの物ではないですか?」

「え?」


 横から差し出された手に、思わずギョッとする。

 しかしその手には、俺がずっと愛用しているハンカチが乗っていた。


「トイレの前に落ちてまして。中にはあなたしかいないみたいですし、あなたの持ち物である可能性が高いかと思いまして」

「あ……ああ、俺のです。拾っていただきありがとうございます」


 ハンカチを受け取りながら、この親切な男性の顔を確認する。

 眼鏡をかけた、特徴の掴みづらい顔。

 整っていることは間違いないのだが、それこそ目立った特徴がなくて印象に残りにくいと言えばいいか。

 童顔でかなり若く見えるが、おそらく成人はしていることだろう。

 何となくそう思うくらいには、学生には出せない大人っぽさがある。


「いえいえ、当然のことをしただけです。それでは」


 男性はそう告げると同時に、細めた眼で俺を見る。

 その瞬間、背中にゾワっとした寒気を感じた。

 東条さんが向けてくるような愛しそうに細めた眼と違い、こう、何というか、品定めされているかのような嫌な感じが駆け抜けたのである。


(……っ!)


 反射的に後ろに下がってしまいそうになる体を、かろうじてその場に留める。

 よく考えろ。別にこの人から何か被害を受けたわけではないんだ。

 付け加えるなら、ハンカチを拾ってくれた恩人でもある。

 ここで俺が失礼な態度を取るわけにはいかない。


「……どうかされました?」

「あ……い、いえ、ちょっと気分が悪くてトイレに来たものですから……」

「あ、そうだったんですね。大丈夫ですか? もし辛いようでしたらお店の人に声をかけてきますけど」

「それは大丈夫です。連れもいるので」

「ああ、そうですか。えっと……では、お大事に」


 最後にそう口にして、男はトイレをあとにする。

 途端に込み上げる安堵感。

 呼吸が楽になって、トイレであるはずなのに空気が新鮮に感じられる。


「大袈裟、だよな」


 無意識にポケットの中のスマホに手が伸びていることに気づき、思わず苦笑する。

 人間合う合わないが存在することなんて当たり前だし、きっと彼と俺も根っこから相性が悪いだけだ。

 そんなことで一々警戒して緊急呼び出しアプリを使おうとするなんて、あまりにも大袈裟過ぎる。


 大袈裟――――だよな?


 妙な不安を手に残しつつ、俺も雅也が待っているであろうテーブルに戻るため、トイレをあとにした。


◇◆◇

 結局あの後雅也と共にゲーセンへと向かい、適当なゲームで遊んだ。

 久しぶりに来たからか、置いてある物すべてが何だか新鮮で、思わず時間を忘れて遊んでしまったが――――まあ、十九時は過ぎてないから大丈夫だろう。


「そんじゃあ、また明日な」

「ああ、また明日」


 駅で雅也と別れ、俺は電車に乗る。


(そうか……今から東条さんのところに帰るのか)


 退勤ラッシュの人混みに苦しみつつ、俺はふと思った。

 誰かが待っている家に帰る。

 俺と同じ年代の人間の中では当たり前のことかもしれないけれど、その当たり前を一度失ってしまった俺は、それがどれだけ幸せなことなのかを理解してしまっていた。

 ふつふつと湧き上がる幸福感に、思わず涙が出そうになる。


 電車を降りて、マンションへ向かう。

 そのまま何事もなくたどり着いた俺は、財布の中に入れていた一枚のカードを取り出した。

 それを扉の横の端末にスキャンして、オートロックを解錠。


 東条さんの家の扉の前まで移動して、今度は普通の金属の鍵を取り出す。

 いわゆる合鍵という物だ。

 これは東条さんからの信頼の証。

 彼女にとってのそういう人間に選ばれているということがまた嬉しくて、自然と口角が上がってしまう。


「た……ただいま」


 やけに緊張しながら、廊下に向けてそんな言葉を告げる。

 声が小さくなってしまっただろうか? もしかしたら聞こえていなかったかもしれない。

 そんな不安に駆られている俺をよそに、リビングの扉の方からエプロン姿の東条さんが飛び出してきた。


「おかえりなさい! 春幸君っ!」

「あ、ああ」

「ご飯にします? お風呂にします? それとも……私にしますか?」

「えっと、ご飯で」

「……葛藤すらないのはちょっと複雑です」


 申し訳ないけれど、正直言ってお腹がペコペコなんだ。

 彼女の冗談によって揺さぶられた性欲よりも、食欲の方が今は主張が激しい。

 まあ、例えお腹が空いていなかったとしても、彼女の挑発に乗ることはきっとなかったのだが。


 ――――今は、まだ。


「あ、そう言えば」


 俺は彼女の姿を見て、ふと思い浮かんだ感想を口にする。


「東条さんってエプロン姿がすごく似合うなと思って。最初に見た時に言うべきだったと思うんだけど、何というかその……うん、可愛いと思う」


 自分が自然と東条さんのことを褒めようとしていることに気づいて、徐々に照れ臭くなってしまった結果、最後の方の声はか細くなってしまった。

 ちらりと東条さんの顔を見てみると、彼女は何故か呆然とした表情を浮かべている。


「と、東条さん?」

「…………あ、すみません。ちょっと失礼しますね」


 そう言い残して、彼女は寝室の方へと向かっていく。

 気になって後を追ってみると、東条さんは突然ベッドにダイブして、枕に顔を押し付けた。


「~~~~~~ッ!」


 何か叫んでいるのは間違いない。

 枕に口を押し付けているせいでくぐもってしまっているが、確かに何かを叫んでいた。

 そのままバタバタと暴れ始め、東条さんは枕に顔を押し付けたまま広いベッドの上を左右に転がる。

 彼女の奇行に説明をつけることは極めて難しいが、少なくとも、喜んでいることは間違いなかった。


 しかしこのまま眺めているというのも申し訳なくなるため、俺はそっと寝室の扉を閉める。

 最後に映った東条さんの腰に、ブンブン揺れる犬の尻尾のようなものが見えた気がしたが――――それもきっと気のせいだ。

 

 

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