025:コーヒーの苦み

 あれから他の買い物を終えた俺たちは、そのままマンションへと戻ってきた。

 本当はもう少し外出を楽しむ予定だったのだが、荷物があまりにも多くなってしまい、あれ以上の買い物は物理的に相当難しかっただろう。


「とりあえず、荷物は一旦リビングのソファーに置いてください。後で整理していきますので」

「分かった」


 両腕の負担になっていた大量の荷物を、ようやくすべて下ろすことができた。

 疲労のたまった腕を揉みほぐすようにしながら、彼女に服を買ってもらって着替えた際に荷物へと変わった今朝まで着ていた服を手に取る。


「東条さん、これって洗濯機に入れておくだけでいいのか?」

「ああ、さっきまで着ていた服ですね。そのまま入れてしまっていいですよ。あ、ポケットの中身だけは空にしておいてくださいね? ワイヤレスのイヤホンとか洗濯してしまうと大変ですから」

「分かった、確認しておく」


 もちろんワイヤレスイヤホンなんて持っていないから、その辺の心配はない。


「洗濯自体は夜にまとめてやってしまうので、何も触らないでおいてください。お風呂で体を拭くのに使ったバスタオルとかもその時に一緒に入れてしまうので」

「ああ、なるほど」


 俺は服を持ったまま廊下を進み、洗面所へと向かう。

 風呂場へと続く脱衣所の手前に洗面台があり、その隣には立派なドラム式洗濯機が置かれていた。

 めちゃくちゃボタンが多く、ディスプレイのようなものまである。

 このアンテナのようなマークは、Wi-Fiだろうか? 

 洗濯機をインターネットに接続する意味が分からないが、きっと何かしら意味があるのだろう――――多分。

 これがいわゆる最新機種というやつで、値段もだいぶ高いはずだ。

 いつもコインランドリーで済ませていた俺からすれば、家に洗濯機があるだけ羨ましいとすら思う。


「春幸君、休憩がてらコーヒーでも淹れようと思うんですけど、飲みませんか?」


 洗面所を出て行こうとした俺の前に、東条さんがひょっこりと顔を出す。


「淹れてもらえるなら、ぜひと言いたい」

「ふふっ、分かりました。あ、せっかくなら好みとかも聞いていいですか?」

「微糖派かな。ミルクも控えめな感じで」

「ふむふむ。分かりました、参考にさせてもらいますね」


 東条さんは頭を引っ込めると、トテトテと可愛らしい音を立てながら廊下を駆けていく。

 俺もそれを追うようにリビングへと戻れば、そこから見えるキッチンの奥をごそごそと漁る彼女の姿が確認できた。


「フィルターがこれで……豆は確か冷凍庫でしたね」


 ぶつぶつと言いながら、彼女はフィルターと豆を置く。

 お湯は元々沸いた状態で保存できるポットに入っているため、沸くのを待つ必要はない。

 

「本当は豆を挽くところからやってみたいとも思うんですけど、まだハードルが高い気がしてしまうんですよね……」

「俺自身は自分で淹れたことないけど、気持ちは分かるよ。豆を挽くって難しそうだし」

「そうなんですよね。飲むなら美味しいコーヒーがいいですし、そこで失敗したら悲しいというか……だからお店で挽いてもらった物を使ってしまう方が安心できてしまって、結局手は出してないんですよ」

「……じゃあ、今度一緒にやってみないか?」

「え?」

「いや……二人なら失敗しても飲み切れるかもしれないし、リスクも減るかなって」


 さすがに飲めないほど不味いものができるとは考えにくいが、それでも好みに合う合わないという概念は存在する。

 自分に合わないものを捨てずに飲み切るというのは、中々の苦痛だ。

 そこのリスクさえ分散させることができれば、もう少し気楽に挑戦できると思うのだが――――。


「なるほど、素晴らしい案ですねっ。次に外出した時は豆を買ってみましょうか。ついでにコーヒーミルも買いましょう」

「んー……ミルって結構高かった気がするんだけど」

「安い物は数千円で買えますし、気にするほどではないと思いますよ? もちろん高い物を買おうとしたらキリがないですけど。あと電動式の物を選ぶとやっぱり高くなる印象はありますね」


 そんな雑談をしていると、ソファーに腰掛けた俺の下にまでコーヒーのいい香りが漂ってきた。

 そして東条さんは二つのマグカップを持ってリビングまで戻ってくると、ソファーの前に置かれたテーブルにそれを置く。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 マグカップの中を覗き込む。

 ほんのり茶色みがかったコーヒーは、ブラックではないことを証明していた。

 火傷に注意しながら一口口に含めば、コーヒーのいい香りと苦み、そしてわずかな砂糖の甘味が感じ取れる。

 うん、俺の好みドンピシャだ。


「すごい美味いよ。ミルクも砂糖も丁度いい」

「ふぅ、よかったです」


 そう言いながら、東条さんは自分のコーヒーに口をつける。

 彼女はブラック派のようで、砂糖やミルクが入っている様子は見受けられない。

 俺はまだブラックは少し苦手であるため、なんだか憧れてしまう。


「……? ちょっと飲んでみます?」

「え⁉」

「物欲しそうに見られている気がしましたので、もしかしてブラックが気になっているのかと思いまして」


 どうぞ、と言いながら、東条さんは俺にマグカップを差し出してくる。

 別に飲みたいと思っていたわけではなかったが、ここで憧れているから見ていたなんて言っても俺が恥ずかしいだけだ。

 それに、せっかくの機会でもある。

 ここでもし飲めるようになれば、俺は今後ブラックでもコーヒーが楽しめるようになるわけだ。


「じゃあ、失礼して」


 俺は彼女からマグカップを受け取り、口がつけられていない反対側から口をつける。

 その際に視界の端に映っていた東条さんがムッと表情を歪めたが、それを気にする前に頭の中をコーヒーの苦みが塗り潰してきた。


「うっ……!」


 いや、飲める。飲めるが――――苦みのせいで思わず顔がクシャっと歪んでしまう。

 俺に苦みへの耐性がなさすぎるのか、ただひたすらに飲みにくさを感じてしまった。


「ふふっ、春幸君にはまだ早かったみたいですね」

「ご、ごめん……」

「謝ることはないですけど、私としてはちょっとだけ嬉しいです」

「嬉しい?」

「はい。春幸君ってどこか達観しているイメージがあったので、小さいことでも弱い部分を見せてもらえると、増々愛おしく想ってしまいます」


 うっとりとした様子で目を細める彼女を前にして、俺は恥ずかしさのあまり頬を熱くしてしまう。

 混ざりっ気のない好意とは、何故こうも響いてくるのだろうか。

 たった一か月でその人のことを結婚したくなるほど好きにはなれないと思っていたが――――すでにその考えは否定され始めていた。

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