023:後遺症

 あれからまた少し店を回って、しばらく時間が過ぎた。

 そして今、俺は今日一番の窮地に立たされている。


「ほ、本当に……ここに入るのか?」

「はいっ、こういう物もぜひ春幸君に選んでいただければと思いまして」


 俺たちが立っている場所。

 それは女性用下着売り場の前だった。

 色鮮やかで独特な形をした下着たちが立ち並び、中にはマネキンたちが実際に装着しているところも見ることができる。

 俺の場合は見ることができるではなく、目に入ってしまう、だけれども。


「そ、そもそも……男が入ってもいいものなのか?」

「特に禁止されているようなことはないと思いますよ? 私と一緒にいれば不審がられることもないでしょうし」


 不審がられないにしても、不釣り合いなのは確かではないだろうか?

 そんな俺の思考を無視するがごとく、東条さんは俺の手を握り、そのまま店の中へと入っていく。


「ほら、こういうの可愛いと思いませんか?」


 彼女は空いている方の手で、近くにあった赤色の下着を手に取る。

 確かにレースや刺繍は可愛らしいと思うが、感想を告げることすら憚られるほどに恥ずかしさが勝っていた。

 

「まあ、このサイズは私ではつけられないんですけどね……」


 残念そうな表情を浮かべ、東条さんは手に取った赤い下着を元あった場所へと戻す。


「女性の胸は大きい方がいいのか、小さい方がいいのかみたいな論争はよくあると思いますが、下着の選びやすさから言えば間違いなく大きい方が不利なんですよね。こういうところで可愛い柄のものをサッと買うことも難しいですし、ネットで注文しようにも少しお値段が張るので……」


 東条さんはそう言いながら、自身の胸をさする。

 その際チラリと俺の表情を確認したことで、俺はまたからかわれているということに気づいた。


「東条さん……俺の表情を見て楽しむのはやめてくれ……別に嫌ってわけじゃないけど、なんかこう……くすぐられているみたいでむず痒い」

「ふふっ、ごめんなさい。やっぱり春幸君の動揺している時の表情がどうしても愛おしく見えてしまって」


 東条さんは目を細め、言葉の通り愛おしそうに俺を見た。

 こうして二人で過ごすようになって分かったことだが、東条さんにはほぼ間違いなくサディストの気がある。

 決して誰かを傷つけて楽しむと言ったようなタイプではないが、少なくとも俺が困っている顔は彼女の楽しむ対象だ。


 そして俺も――――どういうわけか、そういう彼女の接し方が嫌いではない。

 

 東条さんがそうやって俺をからかうたびに、自分がこの人に愛されているんだという実感が湧くというか。

 俺の頭がどうかしてしまったのかとすら思うような感覚だけれど、決して気のせいというわけでもなくて。

 つまるところ、俺はすでに東条さんに――――。


「春幸君、春幸君っ。どっちの方が可愛いと思いますか?」


 俺の思考を遮るようにして、東条さんの声が聞こえてくる。

 彼女が持っているのは、二つのタイプの違う下着。

 水色の上下セットと、黒色の上下セット。

 細かい装飾の部分を説明できないのは、俺が経験不足であることに他ならない。

 構造とか、タイプとか、むしろ男子高校生の俺が詳しい方が不自然だろう。


「私でも着けられるサイズがあってよかったです。水色の方が年相応というか、清楚な感じがあると思うんですけど……黒の方がやっぱりセクシーさを感じますよね。大人っぽいですし」

「す、好きな方でいいんじゃないか?」

「さっきの服の時もそうでしたけど、私としては本当にこの二つが拮抗してるんです。だから最後の決め手は、唯一これを見せる相手である春幸君の好みにしたいなぁと思いまして」


 唯一という部分にまた照れてしまったのだが、それは置いておいて。

 好みと言われれば、俺の視線は自然と黒い方へと吸い込まれた。

 こういう下着を東条さんがつけていたら――――そんな妄想をしてしまい、顔が熱くなる。

 ここは水色と言っておこう。

 そうすれば俺が東条さんをそういう目・・・・・で見ていることが少しは否定できる、はずだ。


 ――――だけど。


「黒い方が……好み、です」

「……ふふっ、素直な意見をいただけて私は大変嬉しいです。では、こちらを買ってきますね?」

「じゃあ……流石に俺は外で待ってるから」

「はい、ここまでお付き合いさせてしまい申し訳ありません。少し休んでいてください」


 俺が精神的に疲れ始めているのだろうと察した東条さんは、素直に俺を逃がしてくれた。

 ありがたい。そのまま店を出て、他の通行人の邪魔にならないよう外にあった壁に寄りかかる。

 

(思いがけず素直になってしまった……)


 正常な判断力を失っていたとしか思えない。

 女性経験が一切ない俺には、この店の刺激は強すぎた。

 次からは流石に抑えてもらおう。

 このままじゃ疲労が溜まって高校生活に支障が出そうだ。


「……ん?」


 その時、いつか感じたような視線を再び感じて、顔を上げる。

 キョロキョロと周囲を見渡すと、見知った顔と目が合った。


(なんだ、日野さんか)


 ずいぶん離れたところにいる日野さんは、俺が見ていることに気づくと軽く頭を下げてきた。

 同じように軽く会釈し、視線を逸らしておく。

 せっかく俺たちに意識させないよう離れた位置で護衛をしてくれているのだから、こっちから敢えてコミュニケーションを取らない方がいいはずだ。

 本来なら失礼な行いだが、今だけは無視が正解なはず。


 ――――だけど。


(――――日野さんじゃない)


 日野さんは俺の視線に気づいて目を合わせた。

 だからその前に感じた視線は、彼女のものではない。

 やはり気のせいか。

 今は視線なんて感じないし、ただ下着売り場の近くに俺がいたから不審がられただけという可能性が高い。

 それはそれで問題だが、まあ、それは置いておこう。

 

 少し、嫌な予感がするのだ。


 それこそ、俺の両親が事故に遭った日のような――――。


「……何を考えてんだよ、俺は」


 頭を振って嫌な考えも振り払う。

 あの事故による精神的後遺症が、俺の心を縛っているんだ。

 何でもかんでも気にしてしまい、嫌な予感が拭えない。

 もはやこれは俺の治すべき悪い癖だ。


「ふぅ……よし」


 いつの間にか乱れていた呼吸を整え、顔を上げる。

 そして店の中からこちらに向かって歩いてくる東条さんの姿を確認して、ひとまずの安堵感を覚えるのであった。

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